おかえり
時計を見ては落ち着きなく指を絡ませ、また時計に目をやっては辺りのものに触れる。そんな埒もない行為を数時間は繰り返しただろうか。しまいに疲れたマリーは、ほうと息をつきながら長椅子に座り込んだ。すぐそばではクライネが優雅にまどろんでいる。ぷしぷしと寝息を立てる黒猫を愛おしく一瞥し、マリーは静かに目を閉じた。
もうずいぶん遅い時間であるのに、今夜戻るはずのリヒャルトは姿を見せない。マリーはそわそわする自分を持て余し、足音の空耳やら扉の開く気配やら、彼の帰りを匂わせるものの幻影に踊らされてばかりいた。夜半の冷たさはひたひたと肌に忍び寄り、疲れた体を睡夢に誘おうとする。静穏とした呼吸を繰り返しながら、マリーはとろとろと思いをめぐらせた。
べつに出迎える約束をした訳ではない。たとえこのまま眠ってしまったところで、顔を合わせるのが明日になるだけのこと。一体どれほどの差異があろう。しかし。
胸元をたぐり、自分の鼓動に耳を澄ますようにする。
会いたいのだ。どうしても、今宵のうちに彼の顔が見たい。一時はあれほど厭うた相手に、我ながら浅ましいことを考える。しかしいくら自嘲したところで気持ちは変わらなかった。
リヒャルトに伝えなければならないことがある。今までのこと。これからのこと。うまく言えるかどうかはわからない。意地を張ることに慣れてしまった自分が、秘めた思いを素直に打ち明けられるかすらも。けれど、今日を逃せば自分はきっと後悔する。
とくん、とくんと静かな鼓動を聞きながら、マリーは自分の心に整理をつけようとしていた。
「……マリー。おい、マリー」
肩を揺すぶられる不快感で、乱暴に現実へと引き戻される。ゆらゆらと不確かな輪郭が次第に収まり、待ち焦がれた顔が呆れたようにこちらを見ているのがわかった。
「お前は風邪を引くのが趣味なのか? ならここで寝ても止めないけどな」
声の主を認識すると、マリーははじかれたように身体を起こした。
「お、おかえりなさいっ」
「そんな大声出さなくたって聞こえる」
リヒャルト・ケルナーはわざとらしく顔をしかめて嫌味を言った。彼がそのまま踵を返したため、マリーは慌ただしくそれに追随する。リヒャルトは少々怪訝そうな顔をしたものの、それ以上言うことはしなかった。既に鞄を下ろし着替えた姿であることから、たった今帰ったという訳ではないらしい。マリーは逡巡しつつ、つとめて落ち着いたそぶりを保った。
「ネーベルブルクはいかがでしたか?」
「別に観光に行った訳じゃない。まあ首都よりは寒いか」
辺鄙なところだ、とリヒャルトは愚痴めいた言葉を吐いた。
「ソフィアさんのご実家はあそこに近いと伺っていますが」
「もっと北じゃないのか。ほとんど国境沿いの町だろ、確か」
「よくご存知ですね」
「ユリウスもそこの出だ」
たかだか一週間で何かが変わるはずもなく、リヒャルトの声はいつも通りそっけない。そのことに安堵しつつも、マリーの内心は少しばかり曇っていた。
一体いつ、どういう頃合いで切り出せばいいのだろう。彼はこのまま自室に戻るつもりであろうし、それを引き止める言葉も持っていない。気持ちばかりがはやる中、階段を上りきった辺りでリヒャルトがいきなり振り向いたため、マリーはびくりと身をすくませた。
「ちゃんといい子にしてたか?」
彼にしては珍しく軽いからかいだった。目が合えば全てばれてしまいそうな気がして、マリーは微妙に視線を外した。胸の奥、ずくずくと甘い疼きがその存在を主張し始める。それを必死に宥めつつ、マリーは緊張で乾いた喉から声を搾り出した。
「……ええ、ソフィアさんがお相手下さいましたし」
「それは何より。何かあったら、今度こそ首輪が必要だからな」
リヒャルトはくつくつと笑った。マリーは今度こそ、と服の裾を強く握る。そうして口を開きかけたのと、彼の腕がするりと伸びるのが同時だった。片腕で抱き寄せられ、少し手荒に髪を乱される。
「会いたかった」
そう囁くリヒャルトの唇が髪に触れて、マリーの思惟は一気に凍結状態に陥った。糸状になった感情がのどの奥で絡まり、うまく形に出来ない。じわりと伝わる温もりには安堵めいたものを感じるのに、胸中の鼓動は暴れるばかりだった。以前なら混乱のなか、確実にリヒャルトを突き放している。
けれど、今のマリーには伝えたいことがある。
落ち着きなさい、ローズマリー・ミュートス。心の支度はもう十分出来たでしょう。そう自分に言い聞かせ、マリーはおずおずとリヒャルトの腕に指を重ねた。ほんの少し背伸びをし、ぎゅうとかたく目をつむって彼の唇に口づける。ちゅ、と小さな音がした。
「わ……私も、です」
消え入りそうな声でつぶやくと、マリーはたまらず顔をそむけた。気恥ずかしさが頬を灼き、自然と視線も下を向く。痛いほどどきどきして、息が出来なくなってしまいそうだった。出来ることならこのまま彼の腕から逃れ出たい。けれどそうするより先に、冷たい指が頬に触れた。戸惑ったのもつかの間、矮躯を逃すまいとするかのように強く抱きしめられ、唇をついばまれる。とっさに抗おうとした右手はあっさりと捕まり、壁に縫いとめられてしまった。身をよじって逃れようとしても、身体をしっかりと抱き留める腕がそれを許さない。
唇の細やかな曲線をたどるように、リヒャルトは角度を変えては幾度も深く口づけた。「ん……っ」舌で歯列を割られ、上ずったような声が漏れる。いきなりの事に薄れかけていた羞恥心が蘇り、マリーはかたくなに閉じていた紫瞳を見開いた。苦しいのは呼吸か、それとも心か。もうわからない。
それ以上息が続かなくなった頃、リヒャルトはようやくマリーを放した。零れた銀糸が口端を濡らす。ぷは、と息を吸い込み、マリーは微かに潤んだ瞳でリヒャルトをにらんだ。
「な、にを」
何をするのですか、と怒るつもりだった。けれど、マリーはただ息を呑んだ。
リヒャルトの髪は差し込んだ月の光に染め上げられたようになっていた。琥珀の双眸はマリーだけを一心に見つめている。
いつか、同じような色彩を見た。彼と初めて会った夜だ。あの時も、リヒャルトはとても綺麗な月色をしていた。
「マリー、ローズマリー」
いつしか目をそらせなくなったマリーを見つめ、彼はひどく切実そうにその名を呼ぶ。そんな目をするのはずるい、とマリーは唇を噛んだ。
誰より自分を愛してくれた父母も、こんな声で名を呼びはしなかった。切なげな視線を注がれることなど知らなかった。胸の苦しさは増すばかりで、何を考えていいのかすらもわからない。
せめてリヒャルトがそれ以上を無理強いしたなら、マリーは彼の胸から抜け出せただろう。しかし彼はただの一言も口にせず、マリーを見つめるばかりだった。
うるさいほどの鼓動が胸の内を騒がせる。それを鎮めようと少し息を整えて、マリーはおずおずと彼の服の裾をつまんだ。あの日と違い、何をされるか承知の上だった。いいのかとでも聞きたげなリヒャルトに、小さく頷いてみせる。そっと頬に触れる手を、今度はぎこちないながらも受け入れた。微熱を帯びた視線が交差する。頬はきっとまだ赤い。恥ずかしくない訳でもない。けれどマリーは、もう一度だけその行為を許すことにした。
「おかえりなさい」
「ただいま」