招待
「頼むよマリー。僕の顔を立てると思って、ね」
「ですが叔父さま」
午後の柔らかい陽光が居間に差し込む。
熱心に説くアンソニーに対し、マリーは困惑の面持ちで、類まれな紫瞳を伏せた。
「どうしても出席出来ないんだ。急なことだから頼める友人もいない」
「何度も申し上げましたが、私は夜会に出たくないのです」
マリーはやんわりと首を振った。菫の双眸には疲労の色が濃い。相手方、アンソニーにしてもそれは同じことだ。互いに譲らない話は一向に進まず、先程から平行線をたどるばかりだった。二人同時にため息し、微苦笑を浮かべる。マリーは困惑の原因を恨めしく見つめた。
二人の間にある机に置かれた、一通の封書。夜会へと誘うそれの宛名には叔父の名、アンソニー・ミュートスとある。急な用事で出られなくなった彼は、姪のマリーに代役を頼みにきたのだ。
マリーはずんとにぶい頭痛を覚え、のろのろとした仕草でこめかみに触れた。栗色の髪がふわりと揺れる。アンソニーは難しい顔で思索しているようだった。
マリーとて、何も叔父のことが嫌いで頼みを断る訳ではない。拒否したいだけの理由があるのだ。叔父もそれを熟知した上で、もう何度もこの手の話を持ってきている。彼なりの愛情の示し方なのだろう。十八にもなれば、それくらいの察しはつく。
マリーはこっそりと嘆息し、ふるふると首を振って抗いを示した。
「叔父さま。何をお考えかは薄々分かりますが、私に気を遣っていただかなくても」
「ローズマリー、君には楽しみが必要だ。鏡を見てごらん。以前の君はもっと顔色がよかったよ」
呼び方が愛称でなくなる。それは真剣な話をする時の叔父の癖だった。これまで無理強いなど一切しなかったアンソニーだが、今回はあくまで譲らないつもりらしい。
後れ髪をかき上げ、マリーは弱々しく微笑んだ。
そもそもマリーが憂鬱の檻に囚われた原因は、昨年に勃発した隣国との戦だった。マリーの生まれ育った地レイデンは、長い王政と芸術が育んだ平和な国だ。歴史の揺れ動く現代にあって、戦争を長らく経験しなかったのは幸か不幸か。そこに目をつけたのが、隣国クローネ連邦だった。一方的な言い分を火種とした戦いは、クローネの圧勝をもって終結した。長年戦いによって台頭してきたクローネにレイデンが敗れたのは、至極当然のことだった。
レイデン側に一方的な犠牲を強いた戦は、マリーからもまた、多くを奪った。父を戦いで、夫の死に打ちひしがれた母を病で。一人娘を心から愛した彼らが冥府へと去ったのは、ほんの数ヶ月前のことだ。縁戚も多くが戦渦に巻き込まれ、レイデン指折りの名家であったミュートスの栄華は失われた。
以来、すっかり鬱ぎ込んだマリーは夜会の誘いを断り続けていた。
両親を喪って以来、華やかなドレスが、きらびやかな社交の場が、すべて色あせて見えるのだ。以前はあんなに心躍った夜会も、わずらわしいとしか思えない。郊外にある叔父の屋敷に引き取られてからも、マリーの厭世は悪化するばかりだった。
アンソニーはそんな姪を心配し、ありもしない用事を作ったのだろう。あるいは、その招待自体が彼の仕組んだものなのかもしれない。見え透いた、それでいて優しい叔父の嘘にマリーは苦笑するしかなかった。
「マリー、もう一度よく考えてみてくれないかな。返事をするにはまだ時間があるから」
マリーの内心を知ってか知らずか、アンソニーの声はあくまで優しい。マリーはちらりと彼を見やって、指を口元に当てた。
マリーは、この人のいい叔父が好きだった。兄と義姉の死は彼にも深い傷を残したはずなのに、姪にはそれを決して見せようとしない。優しさと静かな強さを持ち合わせた姿は、どこか亡父に似ていた。マリーは静かに息を吸い、菫と形容される瞳を閉じる。
こんなことを続けていいはずがないと、心のどこかでは分かっていた。現在のマリーの姿を見れば、両親はきっと悲しむだろう。叔父の厚意を無下にし続けることだって、正しい行為だとは言えない。これは、いい機会なのだろうか。
マリーは顔を上げ、きっぱりと意志の強い表情を見せた。紫水晶と賞賛された美しい瞳は、真っ直ぐに相手を見つめていた。
「……そこまでおっしゃられるのでしたら」
「出てくれるのかい!?」
アンソニーの顔が輝く。マリーはやんわりと付け足した。
「ただし、壁の花にならない保証はありませんよ」
「構わないさ。……ああ、それじゃ早速用意をしないといけないな。ドレスは何色がいいかな? 小物なんかも必要だろうし……仕立て屋さんに連絡しないと」
「以前に作ったものがありますから」
さっさと立ち上がり動き始めた気の早い叔父に、マリーは思わずくすりと笑いを漏らす。晩秋の居間に、久方振りの笑声が響いた。アンソニーは姪の表情を驚いたように見つめ、そろそろ皺の入り始めた目尻を嬉しげに下げる。彼は、このたった一言をずっと待ってくれていたのだ。今までそれに気づかなかったマリーは、口元の微笑みを絶やさないまま手をぎゅっと握った。
見計らったかのように、窓外の木陰が手を居間へと滑り込ませてくる。吹き始めた冷風は、冬の来訪を知らせていた。