7
彼女は優雅に脚を組み直し、頬杖をつきながら、オーレリウスに向かって低く、透き通った声で語りかけた。
「オーレリウス様」
その一言だけで、オーレリウスの全身に鳥肌が立った。かつて彼が聞き慣れていた、低く自信のない声ではない。魂を直接揺さぶるような、圧倒的な支配者の声。
「もう、あなたの好みに合わせる必要はありませんので。……そう申し上げたはずですが? ご自分の記憶力すら、過酷な現実の前に失ってしまわれたのですか?」
「な……っ! 貴様……貴様ぁっ! 私を騙していたのか!? 自分の魔力を隠し、カエキリアの資産を隠し、私を陥れるために……!」
「騙す?」
ヴァレリアは不敵に目を細めた。
「いいえ。私は一度たりとも、あなたを騙してなどおりませんわ。私がただ静かに首を垂れていたのは、カエキリア家としての『契約』を守るため。あなたが私を傷つけ、貶め、嘲笑う間も、私はあなたという人間が、どこまで愚かで、どこまで醜いのかを、じっと観察していただけに過ぎません」
ヴァレリアはそっと自分の首元に触れた。そこには、カシアンが贈った漆黒のチョーカーが輝いている。
「あなたが私に与えたあの鉄の針……痛かったですわ。ですが、感謝もしていますの。あの痛みが毎夜、私に教えてくれましたから。『このような浅薄な男に、自分の人生を差し出す価値など微塵もない』とね」
「く……ぐっ……!」
「あなたが私を捨て、あの可憐な『聖女様』をお選びになった瞬間、私を縛る最後の鎖は切れました。感謝いたしますわ、オーレリウス様。あなたのおかげで、私は本来の自分を取り戻し、真に私を理解し、愛してくださる『最高のお方』と巡り会うことができたのですから」
ヴァレリアが隣のカシアンに視線を送ると、カシアンは愛おしそうに彼女の手を取り、その甲に深々とキスを落とした。
「私のヴァレリア。今日この日より、お前はセヴェルス大公家の正妃であり、北の全土を統べる夜の女王だ」
カシアンの堂々たる宣言が、大殿内に響き渡る。
「セヴェルス大公妃……!?」
「あの没落令嬢が……帝国の頂点に立つ大公妃だと!?」
傍聴席が揺れた。
アンテニウス公爵家など比較にならない、帝国最強の武力と財力を誇るセヴェルス大公家。その正妃の座に、ヴァレリアが就いたのだ。
「う……嘘だ……嘘だぁぁぁっ!」
オーレリウスの隣で、ラヴィニアが発狂したように叫んだ。
「あり得ませんわ! そんな泥人形のような女が、大公妃だなんて! 私は聖女ですのよ!? 私の治癒の光こそが、至高なのですわ! 誰か……誰か私の腕を治して! オーレリウス様、どうにかしてと言っているでしょう! 私を助けて!!」
ラヴィニアはオーレリウスの服にしがみつき、激しく揺さぶった。
だが、すでに極限状態にあったオーレリウスの感情が、完全に破綻した。
「失せろ! この害虫がぁぁぁっ!!」
ガツン! と、オーレリウスはラヴィニアの顔面を力任せに殴り飛ばした。
「キャアァァァっ!?」
ラヴィニアは悲鳴を上げて床に転がり、鼻から血を流して泣き叫んだ。貴族たちの前で繰り広げられる、惨めで醜悪な暴行。かつて「光の貴公子」と「聖女」と呼ばれた二人の、これが成り果てた姿だった。
議長が重々しく槌を叩いた。
「静粛に! 被告人オーレリウス・アンテニウス、ならびにラヴィニア・シルウィア! これより、審議会の判決を言い渡す!」
大殿内が水を打ったように静まり返る。
議長は冷酷な目で、手元の判決書を読み上げた。
「被告人オーレリウス・アンテニウス。長年にわたるカエキリア家への不正な魔力搾取、文書偽造、ならびに八十万枚の債務不履行。さらには昨今の結界暴走による帝都への損害。これらを鑑み、アンテニウス公爵家の【爵位全剥奪】、ならびに【全財産の即時没収】を命じる!」
「な……爵位剥奪……!? 全財産没収……!?」
オーレリウスの顔から、完全に色彩が失われた。
「さらに、返済不能となった負債の代償として、被告人オーレリウス・アンテニウスは帝国最南端の『黒鉄鉱山』への【生涯強制労働囚】として即時送還とする!」
「鉱山……!? 生涯労働囚だと……!? 私が……この私が、泥にまみれて作業しろというのか!? 冗談じゃない、私は公爵家の……!」
「連れて行け!」
議長の叫びと共に、厳重な装備を固めた第一騎士団の騎士たちが雪崩れ込み、オーレリウスを床に押し付けた。
「放せ! 放せぇぇっ! ヴァレリア! 助けてくれ、ヴァレリアぁぁっ! 私が悪かった! お前の髪は美しい! その瞳も素晴らしい! 頼む、昔のように私に尽くしてくれ! 公爵夫人の座をやるから! 助けてくれぇぇぇっ!!」
地面に顔を擦り付け、惨めに涙と鼻水を流しながら縋り付いてくるオーレリウス。
その姿は、かつてヴァレリアを冷たい床にひざまずかせ、嘲笑っていた時の構図と、完璧に逆転していた。
ヴァレリアは、ゆっくりと立ち上がった。
彼女の足元から、薄暗い影が伸び、オーレリウスの目の前でぴたりと止まる。
ヴァレリアは、彼を見下ろし、この上なく冷たく、そして美しい笑みを浮かべた。
「さようなら、オーレリウス様。過酷な鉱山の底で、あなたが大嫌いだった『泥と闇』にまみれて、一生を終えられることを……心よりお祈り申し上げますわ」
「ヴァレリアァァァァァッ――!!」
絶叫を残し、オーレリウスは騎士たちによって引きずられていった。
ラヴィニアもまた、破産した実家と共に奴隷市場へと売り払われるため、悲鳴を上げながら連行されていった。
大殿内に残されたのは、圧倒的な静寂と、新しき「闇の女王」の誕生を称える、万雷の拍手であった。
---
審判の大殿を後にし、帝都の街を見下ろす外のバルコニー。
昼の太陽が輝いていたが、ヴァレリアの周囲だけは、心地よい夜の深遠な空気が漂っていた。
風が、彼女の美しい黒髪を優しく揺らす。
後ろから、温かい腕がヴァレリアの腰を抱き寄せた。カシアンが、彼女の首筋に優しく顔をうずめる。
「見事だったぞ、ヴァレリア。最高の『仕返し』だったな」
「ええ……ふふ、本当に、胸がすくような一日でしたわ」
ヴァレリアはカシアンの胸に背中を預け、空を見上げた。
かつて自分を閉じ込めていた白亜の檻は崩れ去り、目の前にはどこまでも広がる自由な空が広がっている。
「これからは、お前の好きなように生きるがいい。私の隣で、お前が望むすべてのものを手に入れろ」
カシアンの言葉に、ヴァレリアは振り返り、彼の深紅の瞳をじっと見つめ返した。
「私が望むものは……もう、ここにありますわ、カシアン様」
彼女は自らカシアンの首に手を回し、その唇に、愛と誓いを込めた深い吻を贈った。
もう、誰の好みに合わせる必要もない。
己の色を誇り、己の力を解き放ち、最愛の伴侶と共に歩む。
漆黒の女王の真の物語は、今この瞬間から、新しく始まりを告げるのだった。




