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夜風が、私の頬を激しく叩く。
帝都の夜空を疾走しながら、私は全身の皮膚を突き抜けるような、圧倒的な全能感に酔いしれていた。
背中に展開した影の翼は、一切の羽ばたきを必要としない。私の意思一つで夜気そのものを切り裂き、私を猛烈な速度で北の空へと運んでいく。
下に広がる帝都の街並みは、まるで星を撒き散らした箱庭のようだった。だが、その中央に位置する公爵邸と大広間だけは、いまや黒い煙のような闇の余波に包まれ、大混乱に陥っているはずだ。
「……あははっ」
小さく、笑いが漏れた。
一度こぼれ落ちた笑声は止めようもなく、夜空の冷気の中で軽やかな旋律となって響き渡った。
胸が、軽い。
頭皮を焼き、毛根を痛めつけていた無惨な漂白薬の毒気は、私の血流を巡る闇の魔術によって綺麗に浄化され、一髪一髪が本来のしなやかさと濡れたような漆黒の艶を取り戻していく。
視界を濁らせ、世界を灰色に歪めていたカラーレンズの破片はすでに風に吹き飛ばされ、私の双眸は夜の底よりも深い真黒の色彩で、月光を呑み込んでいた。
首筋から流れる一筋の血。それは、私を三年間にわたって繋ぎ止めていた「完璧な婚約者」という名の鎖が千切れた証拠だ。
オーレリウス・アンテニウス。
あの愚かな男は、最後まで何も理解していなかった。
私が彼の傍らで地味な服を着て、声を潜め、惨めな人形を演じていたのは、彼の威厳に従っていたからではない。我がカエキリア家に代々伝わる「契約の法」と、帝国貴族としての最低限の倫理観に縛られていたからに過ぎない。
カエキリア家は、かつて帝国の開拓期において、帝国の光が届かぬ深淵の魔獣を影の魔術で狩り尽くした「闇の防波堤」だった。
しかし、時代が下り、平和が訪れると、人々は自分たちを守っていた影の刃を恐れ、忌み嫌うようになった。眩しい光の魔術を誇るアンテニウス公爵家は、我が家の力を「不吉」「不浄」と蔑み、没落へと追い込みながらも、その実、我が家の持つ暗黒街や裏社会への強力な影響力を利用しようと画策したのだ。
父が病に倒れ、領地が経営難に陥った際、アンテニウス家が差し出してきた婚約の打診。それは救済などではなく、カエキリアの牙を抜き、自らの飼い犬にするための「強奪」だった。
『いいかい、ヴァレリア。君は地味で、大人しく、私の後ろを三歩下がって歩いていればいい』
オーレリウスの声が、脳裏で蘇る。
彼が私に強いたあの拷問のような日々。針のついたチョーカーで魔力を封印され、毎晩、激痛に耐えながら冷たい床で震えていた時間。
彼は私が苦しむ姿を見て、優越感に浸っていたのだ。光が闇を屈服させているという、浅薄な満足感のために。
「でも……これで終わりよ、オーレリウス」
私は夜空の中で、冷たく目を細めた。
彼は気づいていないのだ。自分が切り捨てたのが、ただの「地味で無能な没落貴族の娘」などではなく、帝国の裏社会を影から支配する「ある組織」の長であったということに。
そして――我がカエキリア家が姿を消すことで、アンテニウス家にどのような『崩壊』が訪れるのかということに。
─
帝都を離れ、北へと飛ぶこと一時間。
やがて視界の下には、険しい山々が連なる極北の禁嶺「アイゼンヴァルン山脈」が見えてきた。
一年を通じて氷雪と激しい魔導嵐に閉ざされたその地は、帝国の法も、皇帝の威光すら届かない「絶対不可侵の領域」である。
その山脈の頂、切り立った黒曜石の断崖の上に、突如として聳え立つ巨大な漆黒の城塞が現れた。
――【黒曜石館】。
またの名を、ノックス・エアテルナ。
帝国の誰もが恐れ、近づくことすら避ける「極北の覇王」の居城だ。
私は影の翼を緩やかに閉じ、城塞の最上階に位置する広いバルコニーへと降り立った。
カツン、とヒールの音が静かな夜気に響く。
すると、影の中からぬっと幾筋もの黒い人影が現れた。全員が全身を漆黒の鎧と外套で包み、鋭い殺気を放つ精鋭の影騎士たちだ。だが、彼らは私の顔を見るや否や、一斉にその場に膝を突き、深々と頭を垂れた。
「――お帰りなさいませ、マスター・ヴァレリア」
最前列で控えていた老騎士が、恭しく首を垂れて言った。
我がカエキリア家に代々仕え、現在は私の私兵組織『ノックス』の実行部隊を率いる執事、レムスだった。
「お怪我はありませんか? 帝都からの緊急報せを受け取りました。あの公爵令息の無礼、到底許しがたい暴挙……今すぐにでも我が影の軍勢を率いて、アンテニウスの屋敷を血の海に染めてまいりましょうか」
レムスの声には、抑えきれない怒りと、私に対する絶対の忠誠が籠もっていた。
「よいのです、レムス」
私はそっと手をかざし、彼の怒りを制した。
「あのような愚か者に、我が『ノックス』の刃を汚す価値もありません。それより……お願いしていた件は?」
「はっ。すべて滞りなく」
レムスは不敵な笑みを浮かべ、胸を張った。
「カエキリア領の領民一万二千名、および職人、農夫、従者たち全員の移住手配は、先週末を以て完了しております。領地の館に残されていた歴史的価値のある財産、魔導書、資金もすべて回収済み。現在、カエキリア領に残っているのは、文字通り『空っぽの土地』と『偽物の書類』のみでございます」
「素晴らしいわ」
私は満足げに頷いた。
そう、私がオーレリウスの傍で息を潜めていたこの三年間の真の目的は、実家の領民と財産を、安全にこの北の地へと避難させる時間稼ぎだったのだ。
オーレリウスは「カエキリア家は我がアンテニウス家の後ろ盾がなければ明日にも潰れる」と思い込んでいた。だからこそ、私をどれだけ虐げても逃げ出せないと高くくっていたのだ。
だが実態は真逆。私が帝都で「哀れな被害者」を演じている間に、カエキリア家の全資産と人的資源は、着々とこの北の大地へと移送されていた。
「実家はすでに空洞。私が婚約を破棄されたことで、カエキリア家は名実ともに帝国から消滅したわ。これで、誰に遠慮することもなく、私の本当の事業に集中できる」
「ククク……公爵家がこの事実に気づいた時の顔が楽しみですな。奴らは我が家を吸い尽くした気でいたのでしょうが、実際には自ら首を括る縄を編んでいたに過ぎないのですから」
レムスが低く笑う。
その時、バルコニーへ通じる重厚な黒檀の扉が、ゆっくりと内側から開かれた。
「――相変わらず、食えない女だな。ヴァレリア」
低く、甘く、だが地響きのように重厚な声が、夜気を震わせた。
影の中から姿を現したのは、一人の男だった。
身の丈は六尺を超え、引き締まった身体には上質な漆黒の軍服を纏っている。
肩から流れる髪は、月光を浴びて輝く澄んだプラチナシルバー。そして、彫刻のように美しく整った輪郭の中に配された双眸は、妖しく光る溶岩のような「深紅」の色をしていた。
男の名は、カシアン・セヴェルス。
帝国北方を統べるグランドデューク(大公)であり、同時に、古の時代に世界を滅ぼしかけた「深淵の黒竜」の血を引く、怪物たちの王だ。
帝国中央からは「呪われた暴君」「冷血な死神」と恐れられているが、彼こそが、私――そして組織『ノックス』の最大にして最高の「共同経営者」であった。
「お待たせいたしました、カシアン様」
私はドレスの裾をわずかに持ち上げ、美しい完璧な貴婦人の礼をとった。
オーレリウスに見せていた借り物の卑屈な礼ではない。己の力に誇りを持つ、闇の女王としての礼だ。
カシアンは大股でこちらへ歩み寄ると、私の目の前で足を止めた。
彼の深紅の瞳が、じっと私を見つめる。
その視線は、私の頭頂部から、艶やかな黒髪、そして一切の偽りを脱ぎ捨てた漆黒の瞳へと注がれ、やがて彼の薄い唇が、愉悦に歪んだ。
「素晴らしい」
カシアンは低く呟き、大きな、しかし熱を帯びた手で、私の頬にそっと触れた。
オーレリウスの冷たい手とは違う。カシアンの手は、彼の体内に眠る竜の炎を感じさせるほどに温かく、そしてどこまでも力強い。
「それが、お前の本当の姿か。夜の底を切り取ったような髪に、すべてを呑み込む瞳……。あの愚昧な公爵の雛鳥が、これほどの宝を『地味』だと捨てたとはな。 帝都の連中の目は、節穴どころか腐り落ちているらしい」
「お褒めに預かり光栄ですわ、大公殿下。彼らにとっては、自分の小さな光を脅かす闇は、すべて『醜悪』に見えたのでしょう」




