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体操着に着替えさせられたわたしと長谷川さんが仲良く並んで座ったソファの反対側、脚の低いテーブルをはさんでエビセンが座っている。そのエビセンは体をうしろにねじり、壁際に置かれた電話を使う学年主任の剛田先生(昨日下足で北川くんの首根っこをつかみずるずる引きずっていった、例の体育教師である)の様子を心配そうに伺っていた。目線の先の剛田先生は苦い顔をして受話器を置いた。
「……ったく。杉村、どうなってるんだお前の母親は」
舌打ち混じりに、ガシガシと薄くなった後頭部を掻き、剛田先生はその熊みたいに大きな体躯を揺らしながらエビセンの隣にどっかり腰をおろした。われわれは今、普段先生たちが来賓を迎える際に利用する応接室にいる。説教を受けるにこのふかふかのソファは、かえって居心地がわるい。が、居心地がわるいと感じているのはわたしとエビセンだけのようで、隣の長谷川さんは背もたれに深く体を沈ませて、脚を組んだりなどしてすっかりくつろいでいるようにもみえる。大物だ。
「やっぱり、駄目でしたか……日を改めて、とかそういった交渉も」エビセンが困ったように両目をせわしなくしばたたかせ、訊ねた。
「とりつく島もない。自分は忙しくて仕事を休めないし早退もできない。だから今回の件で学校に出向くつもりはないし、帰りは毎晩日付の変わる頃になるから家に来てもらっても困るだと。……自分の子どもがいじめに遭ってるかもしれないというのに。なんて親だ」
「ま、まあ。杉村さんの家はお母さんしかいらっしゃらないですし、お仕事が忙しいというのは理解すべきことですよ」
「だからって、夷原先生。最後なんて言ったと思う。『こんなことで電話を掛けて来るな』と言ったんだ!」
わたしは激昂している剛田先生と、その隣で首をすくめ、ハンカチで汗を拭っているわが担任の先生をかわるがわる見、こっそり息を吐いた。あの人が、わたしのことに時間を割いてくれるはずなどないのだ。だから、気の弱いエビセンが電話を掛けたところ、携帯に掛けた最初の数回は着信を無視し、剛田先生の指示で会社に電話を掛ければ、忙しいの一言で突っぱね電話を切る始末。痺れを切らした剛田先生が再度電話をし、あの人が電話を切らせる隙をあたえず早口で事情を説明し、デリケートな問題だから早急な対処が必要になる。ついては午後からでいいので学校に来てもらえないかと打診したのだった。
「こんなことだと? なあ、長谷川。今回のことは杉村の反撃もあったから、一方的ではなく喧嘩両成敗というところだ。しかしな、お前達は多勢、よってたかって杉村を攻撃したことには変わりない。こういったことはな、必ずエスカレートしていくものだ。やった方はただの暇潰し程度にしか意識していないものだが、やられた方は一生覚えている。一生その恐怖や屈辱的な記憶に苛まれるんだ」
「はあ? なんでうちらが百パー悪いことになるんですか? 理由もなくこんなことするわけないでしょ。それに教室で騒ぐと迷惑だと思ったから、わざわざ場所変えたんすよ。それをこいつが騒ぐから、仕方なく、水かけて鎮静させたワケ。逆ギレっしょ、こんなん。なんでうちの親が呼ばれる必要あるんすか? で、そっちの親は来ないとか、ふざけんなっつー話なんすけどっ!」
「黙れ! お前達のやったことには四組の生徒らみんなの証言があるぞ。接着剤を椅子に塗ったりよってたかってトイレの一室に追い込んでこの時期に頭から冷水ぶっかけて、何が逆ギレだ。制服だって駄目になったんだ。完全にご両親に説明が必要な案件だろうが!」
長谷川さんはあからさまに舌打ちをすると、腕を組み、ふいとそっぽを向いてしまった。
「長谷川の母さんはいつ来るって?」
「はい、ええ、長谷川さんのところもお仕事中ということなので、17時にはとおっしゃっていました」
「17時か。木曜は授業が終わるのは、」
「今日は五限までですから、14時半には終わります。そこから少し、生徒たちと話し合いの時間を取りたいと思っていますが」
「それでも随分時間が余るな」
「ちょうどテスト前ですし、自習でもしましょうか。私も一緒に教室にいますし、物理のことでわからないところがあれば、なんでも聞いてくださって結構ですよ。長谷川さん、杉村さん」
「は? そっこう帰るし。予定があるんで無理でーす」爪をいじりながら目もあげず、長谷川さん。
「親御さんがいらっしゃるのにお前が帰れるわけないだろうがっ!」
そこから再び剛田先生と長谷川さんとの交戦が始まった。彼らの戦いを煽るかのように、応接室の電話が鳴る。あわてて立ち上がったエビセンが受話器を取る。
「あ、杉村さんが。わかりました、替わります。……お電話替わりました、担任の夷原です。お世話になっております。先ほどはどうも……ええ、あの、はい。朝日さんも一緒です。あの、今は落ち着いた様子で、すぐに制服も着替えてもらいましたし、風邪の心配はないかと思いますが……え? いや、そういうわけには……、ええ、でも、長谷川さんのお母さんも17時ごろいらっしゃいますので、そういうことでしたら直接……あっ、ええと、ちょっと待っ……」
どういうわけか、母のほうから電話をかけてきたようだった。いつのまにか剛田先生も長谷川さんも黙ってエビセンのほうを伺っている。そして話の終わりは唐突で、一方的に切られたことはこの場の全員に知れただろう。内容についてもなんとなく予想できた。
「杉村の母さんか? なんだって?」
「いや、それが」ひどく困惑した様子で、エビセンは首を振りふり、再びソファに腰かける。「杉村さんの様子にたいしたことがなければ、来ていただく必要もないと、向こうの親御さんに伝えてほしいと」
「はあ? 自分は足を運びもしないで何を言っているんだ。たいしたことがないかどうかなんか、自分の目で確かめなけりゃわからないことだろう!」
エビセンはまるで自分が責められているかのような恐縮のしかたで、ひたいに浮いた汗をハンカチで拭い、(わたしの母親の)言葉を続けた。
「とにかくおおごとにしてほしくないと、おっしゃられていて……制服のことも、明日にでも代金を持たせるから学校の方で発注してくださいと……」
「無責任にも程がある! 今後事態が悪化しないために話し合いが必要なんだろうが! たいしたことないからおおごとにするな? それでも母親かッ」
ドン! 剛田先生が怒り任せにテーブルを殴る。その音に驚いたらしく、エビセンは盛大にビクついたけれど、その正面に座るわたしもその隣の長谷川さんも、無言のまま微動だにしなかった。長谷川さんが鼻から息を吐く。それから立ちあがり、応接室の出口に向かってすたすた歩いていってしまった。
「どこへ行く気だ長谷川ァ! 話はまだ済んでないだろうがッ」
くるりと振り向いた彼女の目が、わたしの姿をとらえる。その目にははっきりと軽蔑の色が浮かんでいた。
「こいつの親がもういいって言っつってんだから、もういいんじゃないっすか」
「いいわけないだろッ! 戻れ!」剛田先生が立ちあがる。
のっしのしと大股で長谷川さんのほうへ近寄る剛田先生の迫力ったらない。しかし長谷川さんにひるむ様子はちっともなく、うすく笑い、彼女は歌うように言った。
「ねえ、アンタの親、終わってんね」
再び剛田先生の怒号が応接室じゅうに響く。間近での咆哮に、さすがの長谷川さんも一瞬たじろいだようだったけれどすぐに剛田先生を睨みあげた。
「杉村はもう教室に帰っていい。また後日話をしよう。夷原先生も戻ってくださっていい。長谷川は今から俺と職員室まで来い。お前の母さんにも予定どおりご足労願う」
「はァ? あたしも戻ります!」
「お前のその態度は到底許されるものじゃない。簡単に済むと思うなよ」
わたしはまだソファに座ったままだった。膝のうえに投げだした両手のひらをぼんやりと眺めていた。
内心に渦巻く感情をどう整理したらいいんだろう。怒りか、哀しみか、失望か。いや、違うな。とりあえずは、「先生、」
応接室の入り口付近に立つ二人がこちを向く。反対側のソファから立ちあがりおろおろとしていたエビセンがはいっ、と返事をする。
「たいしたことじゃないんで、もういいです。大丈夫です」
「え、杉村さん」
「ただのケンカじゃないですか。長谷川さんたちとはふだん仲良くしてるんです。けどきのうちょっとモメちゃって。わたしがみんなのこと怒らせちゃって」しゃべっているうちに、体が軽くなる。わたしは立ちあがると入口へ向きなおり、こわい顔してこちらを睨む長谷川さんを見た。「ごめんなさい。やっぱりわたしが間違ってたよ。先生も、お騒がせしてすみません。教室に帰って、みんなに謝ってきます。長谷川さんのお母さんにももういいって、謝っておいてください」
「おい、あのな、杉村、」剛田先生が何か言いかけたけれど、にっこり笑ってさえぎる。
「長谷川さん、一緒に教室帰ろ」そして彼女の腕をとる。できるかぎりの無邪気さをよそおう。長谷川さんの顔に貼りついていた怒りが戸惑いに、ともすると恐怖にも似た色に変わる。う、うん。ちいさく彼女は言って、わたしたちはそのにまま、腕を組んだまま――うしろに再びエビセンを引き連れて――、教室まで戻っていった。
――ああ、わかった。これは、
教室について、わたしたちが最初にしたことは4組の生徒たちみんなの前で謝ることだった。二時間目が始まっていて、国語の土井先生が教壇から降り、困ったような顔をしてわたしたちを見ていた。わたしたちと言っても、謝って頭を下げたのはわたしだけで、長谷川さんは隣で終始むっつり黙っていただけなのだけれど。その後授業を受け、二時間目が終わるやすぐに長谷川さんはカバンをひっ掴み、乱暴な足取りで教室を出て行ってしまった。休憩中、長谷川さんのグループの子たちのもとへ行き、わたしは謝った。それから長谷川さんの机の周囲の人たち――おそらく彼らにも水がかかってしまっただろうし、片付けもしてくれたということだったので――にもひとりひとり謝って回った。
わかった。これは、諦念だ。とくべつなことではない。今までもずっと、そうだった。
これまでもそうだった。ずっと諦めてきたじゃない。いろんなことを。
椅子に座ったまま授業も聞かず、手のひらを眺めることにだけ時間を使った。なるべく濡らさないよう、消えてしまわないよう、あんなに気をつかっていたのに。朝からギュッと拳を握っていたせいか、お昼を迎えるころには右手のひらの花丸はすでに薄れてしまっていた。




