(1)
花はただ咲き、ただ散り往く。
迷わず。
惑わず。
嘆かず。
ただ散って、往く。
その在り様が、美しい。
※
日々の暮らしに、不満があるわけでは無い。
しかし、人の心はままならないもので、文法のようにはいかない。
不満が無い。からといって、満足しているということにはつながらないし。
不満が無い。ということは、満足と同じ意味では無い。
不満は、無い。
でも、どこかで息苦しさを感じている。
心が閉塞感を覚えているのだ。
この短命のいのちが呼びかけてくる。現状を打開したい。
稗田阿求は、いつからか、その術を求めるようになっていた。
「だーかーらー……。自分でできることは、自分でやります、ってば」
「なりません。阿求様は大事な御役を授かっている身。それ以外のことは、我々がやります故、お気に留めることの無きよう、お願いいたします」
彼は、取り付く島も無く会話を切って、阿求のまえから下がって行った。
先代から稗田家に仕えている彼は、稗田家の使用人をまとめている。
大きな屋敷とか家に、たいがい一人はいるであろう、心配性の老人である。
気遣いも細かいし、人生経験も豊富なので、家のことは、彼に任せておけば間違いが無い。だけど、口うるさいが玉に瑕。
阿求は机のまえに着座して、筆を取った。
巻物を広げ、筆に墨をつける。
この墨も、使用人が擦ってくれたものだ。
こんなことですら、他人任せになってしまっている。
筆を持ち上げようとして、やめた。
筆を置いて、立ち上がる。
縁側に立てば、見慣れた庭が目に入る。
植木も枯山水も、手入れが行き届いている。文句のつけようが無い。
(おもしろく無いなぁ……)
阿求がなにもしなくても、立派な庭のある屋敷が提供され、上質な着物が提供され、食事が提供され、寝床が提供され……。
日々の生活において、阿求がまったく負担を負うことが無いのは、阿求が、特別な役を授かっているからだ
すなわち、《幻想郷縁起》の編纂。
現在の幻想郷の風土風俗を記録し、後世に伝える。
それは、とても大事な仕事だ。阿求がその仕事に専心できるよう、屋敷の者たちは、細かく配慮をしてくれる。
幻想郷縁起を編纂するのが、重荷だということじゃない。
密かに感じるようになった、この胸のつかえの原因は、他のところにある。
と。そこまではわかっているのだが、その正体をはっきりととらえることはできていない。
ぽつん。
水滴がしたたり落ちて来た。
一粒、二粒。
庭の植木の葉を濡らして、すべり落ちていく。
いくつもの水滴が、地面を濡らす。
細い雨が、音も無く、しとしとと天から降り注ぐ。
土や、草や、木の葉の香りが、むわりと匂いたつ。
ほど無く、靄が立ち込めた。
はっきりとしない、梅雨独特の空模様。
阿求の心境を投影したようだった。
部屋の中に戻った阿求は、筆を取った。
資料を開いて目を通し、自分なりの注釈を添えて、幻想郷縁起に記していく。
これが、御阿礼の子の九代め、稗田阿求の仕事である。
御阿礼の子は短命で、平均的な寿命は、三十年ほどだ。
理由は、その能力にあると言われている。
といっても、阿求ら御阿礼の子たちは、ただの人間だ。空を飛ぶこともできないし、弾幕を扱うこともしない。
しかし、記憶力が異常で、見たもの聞いたものを完全に記憶することができ、忘れることが無い。
阿求たちが長生きできないのは、その能力が、人間の体に多大な負荷をかけるためというのが、現在の通説だった。
「阿求様。お茶をお持ちいたしました」
「ありがとうございます」
侍女が、八寸にお茶とお菓子を乗せて持ってきた。
いつの間にか時間が経っているのは良くあること。
執筆作業に没頭していると、時間の流れが早い。
こんなふうに、自分の知らないうちに時が流れ、やがて、他の御阿礼の子と同様に、天に命を還すのだ。
「ふぅ……」
阿求は、手の甲で額を抑えた。
どんよりとした天気の中で、黙々と執筆をしていたため、頭が重い。
「阿求様。お加減が優れないのですか?」
お茶を注いでいた侍女が、敏感に反応した。
「いえ。大丈夫です」
「お茶では無く、お薬をお持ちいたしますね」
「大丈夫ですってば」
しかし侍女は、阿求の言葉に耳を貸さず、お茶とお菓子を下げてしまった。
「ああ……、あのお店の羊羹が……」
あのお店とは、稗田家御用達の、和菓子屋の羊羹である。これが阿求の大好物で、おやつにその羊羹を食べるのが、阿求の数少ない楽しみであった。
「心配してくれるのは、ありがたいんですけどね……」
どうにも稗田家の使用人たちは、過保護で困る。
中には病弱な御阿礼の子もいたらしいが、阿求の身体は健康そのものだ。
そこら辺、屋敷の人間たちは思い違いをしている
それに阿求は、短命なことを不幸だと思ってもいない。だから、変な気を回さずに、普通の人間として接して欲しいのだが……。
「私たちの感覚や価値観は、理解できないのでしょうね」
それを共有できるのは、御阿礼の子だけ。
でも、御阿礼の子は、この世にただ一人しか生まれない。
阿求は縁側に立った。
「私はわたしに、なにを求めているのでしょうか」
自分の心が、なにに飢えているのか。なにを与えれば満たされるのか。
それが、はっきりとしない。
曇天に問いかけてみても、天が返してくるのは、雨粒のみだった。




