#29 怪僧
――悪魔に魂を売った。
「私は殺されるだろう」と言うと、その悪魔は「助けてやろう」と言った。その代わりに、お前の魂を寄こせと。
「やつらは青酸カリ入りの入った食べ物を私に食べさせようとするに違いない」
「青酸カリを食べても平気なようにしてやろう」
「青酸カリで死なないとなれば、銃で撃たれるだろう」
「銃で撃たれても平気なように、お前の皮膚を固くしてやろう」
「これで私は不死身だ」
「そうだ。お前には、まだまだ頑張ってもらわなければならない。この世で、恨み辛みを抱いた人間は魔界へとやって来る。悪行を働いた人間も同じだ。一人でも多くの人間を不幸のどん底に陥れるのだ」
悪魔はそう言った。
我が名はグリゴリー・ラスプーチン。
一介の宗教家に過ぎなかったが、人々に病気治療を施し、信者を増やして「神の人」と称されるようになった。やがて、私の評判はロシア皇帝、ニコライ2世の耳にも届き、皇后アレクサンドラより血友病の皇太子、アレクセイの治療を任された。私の治療により、血友病が治癒したことから、私はロマノフ朝のツァーリ(皇帝)から絶大なる信頼を勝ち取ることができた。
私は「聖なる男」と呼ばれることになった。
そんな私を危険視する者たちが私の命を狙っていた。
1916年12月、皇族ドミトリー・パヴロヴィチとユスーポフ公、それに極右議員プリシケヴィチはラスプーチンをユスーポフ邸に招いた。ニコライ二世を影で操る「怪僧」を抹殺する為だった。
皇帝の絶大なる信頼を得たラスプーチンは、国政に口を出すようになっていた。また宮廷の女性や貴族の子女から熱狂的な支持を集め、ラスプーチンは「醜態の限りを極めた淫乱な生活」と秘密警察から目をつけられほどの荒んだ生活を送っていた。
周囲のものは、苦々しく思っていたが、飛ぶ鳥を落とす勢いのラスプーチンに意見するものなどいなかった。
やがて、第一次世界大戦の戦況の悪化、更に国内経済の崩壊が、貴族たちの怨嗟の目をラスプーチンに向けさせた。
――全ての元凶はラスプーチンにあり!
――皇帝と皇后はラスプーチンの傀儡となってしまった。
――ラスプーチンが生きている限り、ロシアは戦争に勝利できない。
戦争の長期化に苦しむ民衆は、帝政の腐敗に批判的な目を向けていた。帝国は危機を迎えていた。体制に巣くう貴族たちはラスプーチンさえ排除すれば、ロシア帝国の凋落を押し留めることが出来ると考えた。
ついに、ドミトリー・パヴロヴィチとユスーポフ公、それにプリシケヴィチはラスプーチンの暗殺する為に、ユスーポフ邸に招いた
ユスーポフは、ラスプーチンに青酸カリ入りのケーキを食べさせ、毒入りワインを飲ませた。だが、ラスプーチンへ平然としていた。
――化け物めが。青酸カリが効かない!
ユスーポフは、パニックを起こした。事を荒立てなくなったが仕方が無い。ユスーポフは拳銃を取り出した。
「愚か者めが!」とラスプーチンが怒鳴った。
「地獄へ落ちろ!」
ユスーポフは引き金を引いた。
――バン!
銃弾は狙いあやまたずにラスプーチンの胸に着弾した。
だが、ラスプーチンは平然としている。顔色ひとつ変えない。
「化け物めが。くたばれ!」
ユスーポフは拳銃を乱射した。弾が尽きるまで打ち尽くした。成り行きを見守っていたドミトリー・パヴロヴィチも拳銃を抜いて加勢する。
雨あられとラスプーチンに銃弾が降り注ぐ。
その着弾の衝撃でラスプーチンは仰向きにひっくり返り、テーブルに頭をぶつけて気を失ってしまった。だが、銃弾はラスプーチンの体に傷ひとつつけることが出来なかった。
「どうする?」
ドミトリー・パヴロヴィチ、ユスーポフ公、それにプリシケヴィチの三人は額を寄せ集めて相談した。そして、ラスプーチンを縄でぐるぐる巻きにした。
やがて、ラスプーチンが目を覚まし、縄で縛られながらも「無駄なことは止めよ。例え毒を盛ろうと、銃で撃とうと、私を殺すことなど出来ぬのだ~! はっはは」と勝ち誇ったように笑った。
「毒で死なない。銃で撃っても死なないとなると・・・」
三人は考えた。そして、「では、水に沈めてはどうだろう?」ということになった。
「待て。止めろ! 私が死ねば帝国は滅びるぞ」
ラスプーチンが焦る。
溺死は悪魔との取引に含まれていなかった。川に沈められてしまえば、流石のラスプーチンも死んでしまう。
三人は、ラスプーチンを車に乗せると、ネヴァ川へと運んだ。時は年末、冬の時期だ。ロシアの冬は極寒だ。ネヴァ川は凍りついていた。
ドミトリー・パヴロヴィチ、ユスーポフ公、それにプリシケヴィチの三人は川の表面の氷に穴を開け、縄でぐるぐる巻きにしたラスプーチンを放り込んだ。
「貴様ら~!覚えておれよ。我が恨みがロシア帝国を滅ぼす!」
水の中に消えて行く、その瞬間、ラスプーチンはそう喚いた。
ラスプーチンは川の中に消えて行った。




