宮之阪という女子5
今までは昼休み後の数学の授業なんて睡眠をとるためにあると思っていたのだが、いつもならば重すぎる瞼を物理的に持ち上げる事に必死であるにもかかわらず今日ばかりは閉じようとしても閉じてくれない。
教室は厳しい数学教師の「授業中に私語禁止」という注意の元静まり返っているが、俺の心臓はというと人気バンドのライブバージョンドラムのようにうるさかった。
俺は額にじわりと滲む汗を袖で拭いつつ四人の自殺者の名前の内、唯一チェックが入っていない名前を今一度確認する。
“河内森キョウコ”
ついに敵の名前が分かった。分かってしまった。行動を起こすのなら早い方がいい。リミットは「ペテン師Xの謀反が気付かれるまで」であると、そして、それは次の瞬間にも訪れるかもしれないと宮之阪は言った。
「向こうはおそらく星ヶ丘さんが学校の悪魔である事に既に気が付いてる。勝つなら先手」
であれば、宮之阪は明日にでも直接対決する腹積もりだろう。
ここまで来たというのに、正直なところ俺は怖気付いて今すぐにでも逃げ出してしまいたかった。もう、俺の顔が向こうに割れることは避けられない。ユウキも、宮之阪もだ。
俺がユウキに「河内森キョウコはKだ」とメールを送ってしまえばもう止められない。文字通り命をかけた戦いが始まってしまう。
そうだと分かっていて俺は送信した。
しかしどうだ、やはり俺がここまでする必要はあったのだろうか。宮之阪もそうだ。これはユウキ一人がやってきたことなのだ。俺たちが命をかけてまでその手伝いをする必要はあったのだろうか。
そもそも、俺は何故手伝っているんだ。何のために、戦っているんだ。
なぜだ。
あいつは最初に言ったじゃないか。辞めたいのなら自由にすればいいと。
分からない。
どうして俺が世界を救うために戦っているのか―――。
気が付けば数学の授業は終わっていて、じっとりとかいた汗が窓から吹き込むぬるい風で冷えていく感覚でようやく俺は深い思考の海から引き揚げられた。
「なぁにぼーっとしてんだよ」
つかの間の休み時間の間に、俺に取っちゃあ親しき友人その三くらいの毎日昼飯を共に食うアホ面が声をかけてきた。人が何人も死んでいるというのにやはり他人事なのか相も変わらずヘラヘラとした様子でさっきの数学の愚痴をこぼしている。
「……なんだよ」
「……いや、お前はなんにも考える事がなさそうでいいなと思ってな」
「ほっとけ」
こいつとのこんなどうでもいい日常的な会話もこの休み時間を最後に無くなってしまうのかと思うとそれなりに名残惜しいものがある。
宮之阪も俺と同じ事を考えていたのか、放課後一緒に帰りつつ、
「……私も自分が思ってたよりずっとこの学校での毎日が好きだったみたい」
まるで勇者がラスボスとの最後の決戦に挑む前に、幼なじみであるヒロインにぽつりと呟くようなそんなセリフを夕焼けに紅く染められた学校を見つめながら言った。
「私って結構なお人好しなのかな」
何を今さら。
「良いように使われていただけなのかもしれないけど、でもね、私を頼りにしてくれるのがどうしようもなく嬉しいんだよ」
相手がどんな人であっても、と宮之阪は言った。
「私は星ヶ丘さんの言う『世界』なんて大規模なものを、私みたいなただの人間が救えるとは到底思えない。誰かを救うのに理由なんていらないなんて大それたことを言ってたけど私なんてせいぜい、道端で困っている人に手を差し出す程度しか出来ないから。でも、私は私で、私を取り囲む私の世界を護りたい。家族を護って、友達を護りたい。だから、命をかけられる。それが今私が戦う理由」
それから星ヶ丘は「あなたは?」とでも言うように俺の方を見た。
はたして、俺はどうなんだろうか。
そりゃ、俺だって家族や友達に死んで欲しくない。反対に、名前も顔も知らない人間がどこか知らないところで死んじまっていたとして、心は痛めてもそれだけだ。
Kについての知識を得た俺は、家族や友達だけを護るのはそう難しい事じゃない。対策対処を理由を話さず必死になって教えるだけで済むからな。
だが、未だ戦っている理由はなんだ。
別にヒーローになりたいわけじゃないのに。
やはり俺はその答えを出せないまま、宮之阪には「さすがだな」とだけ返した。