想定外
普通に生きていてこんな経験をするとは思いもしなかったよ。まさか、手に風穴が空くなんてね。
手のひらから甲に突き抜けているカッターナイフの金属の刃は、殺傷部が炎症を起こしているのも相まって刺さっている部分だけが冷たかった。
血が血管を通ってどくどくと外へ流れ出ていく感覚がある。出血多量で死ぬという程ではないが、このまま放っておくのは衛生的に良いとは言えない。本来であればすぐにでも止血と消毒をするべきだろう。
だが、今は手の怪我なんて大した問題じゃない。後で病院にでも行けば自然と治るからね。
問題なのは、僕が今まさに命の危機に直面しているという事だ。むしろ、肩と手の怪我だけで済んでいるのは奇跡に近いと言える。
この世で最も避けるべきなのは職や立場、家族や親しい友人を失うことじゃあない。
命を失うことだ。
命がある限り、生きている限り他のことなんてどうにでもなる。どうにでも出来る自信がある。だが、死んでしまってはどうしようもない。
だから僕は何よりも死を恐れていた。他の何を失っても―――例え人間を敵にまわそうとも―――自分の命だけは守らなければならない。
せめて、僕が妹を助けるまでは。
であれば僕が今取るべき行動は、勝ち目のない敵に立ち向かうでも、逃げ切れない敵から逃げることでもない。
「……よく聞け化け物。僕と取引しようじゃあないか」
相手は正体不明で、人に話しても信じてもらえないような都市伝説じみたやつなんだ。この学校ではおそらく僕くらいしかその存在に気付いていないだろうから、今はリスクを承知で相手側につくのがむしろ一番の得策だ。
提案する事は一つ。僕の命を絶対に狙わないということ。
「代わりにうちの生徒をくれてやる。処理するのに相応しい場も設けよう。生徒会長の僕であれば難しいことじゃない。君も今のやり方よりははるかに捗るんじゃあないか?」
これは一か八かの賭けだった。文字通りのデスゲーム。外したらこの場で殺される。
「……私が人間の提案に応じるとでも思っているのか?仮にその取引を受けたとして、私がそれを守るとは限らないぞ」
しかし、河内森キョウコの偽者は思っていたよりもあっさりと話に食いついてきた。現状、そこまで追い込まれているといういい証拠だ。
「お前は私よりも弱い。それは紛れもない事実だ。殺そうと思えばいつでも殺せるんだぞ」
確かに力じゃ敵わない。だからこそ今だって僕は肩と手から血を垂れ流しているんだ。僕が用済みになったらいつでも殺せるだろう。
しかし、今はそれで十分なんだ。最低限、時間は稼げる。
「……それくらい分かっているさ。でも、君も今捕まってしまうのは本意じゃあないだろ?僕ならこの状況すら何とかできるよ」
取引や交渉のコツは、相手の欲するものを目の前にぶら下げ、その価値を大きく見せ、反して自分の欲するものを手軽で簡単なものに見せることだ。彼女にとって、僕を殺すのは蚊を潰すのと同じくらい簡単なことだろうからね。
「……具体的なプランを教えろ。この状況を打開できる案と、その後の策を」
「いいよもちろん。僕は頭を使うのが得意なんだ」
それから僕は彼女に聞かれたことに対しての説明とその実現性、欠点などについてを事細かに説明した。
まずはこのトイレだが、彼女の仲間に持ってきてもらい河内森キョウコの偽者に受け取らせた紙に「故障中のため現在使用禁止 生徒会」と書き、それを掃除中を示す立て看板に貼ってトイレの前に置いた。これで暫くは誰も入ってこないだろう。立場の高い生徒会の一員で本当に良かった。
そして、目の前に倒れている男子生徒の死体のことだが、
「……君は確か誰かに成り代わる能力のようなものを持っているはずなんだけど、例えば今この男子生徒になることは出来るかい?」
僕は一応確認の意味を込めて聞いた。
「不可能じゃない。だが、問題がある」
やはりと言うべきか、この男子生徒をよく知る人物に疑われるという問題が発生してしまう。それだけは彼女も避けたいところだろう。僕も、僕と河内森キョウコとの関係性が少しでも露呈する可能性がある手段は避けたい。
僕は「なるほど」と相槌を打つと、
「……ならこうしよう。あまり人のせいにするのは気が引けるんだけどね。―――この学校には君みたいな化け物の他にもいるんだよ。聞いたことないかい?」
―――「学校の悪魔」ってやつを。
「いいかい?この周りに飛び散った血はあえてこのままにしておくんだ」
そしてこの男子生徒に河内森キョウコが持っていたカッターナイフを持たせるんだ。もちろん、指紋はふき取ってね。自殺に見えるように。あとは噂が勝手に独り歩きしてくれるだろうさ。
僕の予想に過ぎないんだけど、多分警察の中にもかなりの数のこの河内森キョウコのような偽者がいるだろうからね。だからこれくらい大胆な行動をとっても「学校の悪魔」の時と同じように流されると思うんだ。今までのケースとは違えど、誰もそんなこと気にしないだろうし、そもそもケースが違うことに気が付きもしないかもしれない。
彼女は僕の説明に頷きこそしなかったが、納得はしているようで何も言ってはこなかった。
「あとは僕達のアリバイの事だけど」
服に着いた返り血や僕の怪我についてはなんとでも言い訳がつくが、この時間どこにいたかはとても重要になってくる。いくら警察の中に偽者がいようが警察としてはきちんと機能するだろうからね。だからこれからつくるアリバイは事件性を鑑みて調査をするとなったときの為のものさ。
「……それで、一体どうするんだ?」
「別段、難しいことじゃあない。僕達は元々恋人同士で、人目のつかない所で、例えば校舎裏とかで昼休みの束の間に逢瀬に興じていた、ということにすればいい」
それで二人がその時間に誰の目にもつかなかった一応の言い訳にはなる。年頃の高校生なんだ、今の警察であればそこまで深くは突っ込んでこないだろう。仮に、トイレに入って行くところを誰かに見られていたてしても、普段から真面目を貫き通している僕が恋人とそれも学校でイチャついていた、というスキャンダラスな話のインパクトでかき消せるさ。
「あとはこのトイレを出る時に誰にも見つからなかったら大丈夫だと思うよ。授業が始まるチャイムがなった後出ればちょうどいいだろうね。二人して授業に遅れるわけだから、色恋沙汰に目がない思春期真っ只中の生徒たちには余計に僕達二人の事が恋人同士に見えるよきっと」
ひとしきり話終えると、彼女はふむと考え込む姿勢になった。僕は彼女の考えが変わらないうちに、「これでいいかな?」と後押しすると、
「……とりあえずは。でも、失敗すればその場でお前を殺す」
ひとまずこれで何とかなったようだった。正直、何の確証もないでまかせに近いその場しのぎの内容だったけどね。何かをプレゼンする時と同様に自信ありげに話していたが、冷や汗が今も止まらないよ。
「……あと、その後についてだけど死体を処理する場は生徒会準備室を貸すよ。あそこの鍵は僕と校長、そして教頭しか使うことはないし、今までの卒業アルバムや生徒会の写真くらいしか置いてないから今となっては誰も使わないんだ」
あとは適当な用事で呼び出した生徒をそこに僕が連れていけばいい。
ここまで説明すると彼女がようやく頷いてくれた。
すまないな生徒諸君。僕は生徒会長である前に、世界で一番大切な子の兄なんだ。
―――頭がキレて、学校の悪魔についてある程度予想が付いていて、オマケにおそらくKのことについても薄々気が付いているであろう俺の頼みの綱であり、稀代の名探偵であり、秘密兵器にしていた宮之阪は今までずっと皆勤賞だったにもかかわらず、次の日、どういうわけか学校に来なかった。




