グリンの子
白目をむいたまま、マーディンは息絶えていた。身体中に穴があき、黒くすら見える血がじわじわと広がる。竜の力で若く美しくなった顔は、もう元の形がわからないまでにつぶれていた。
「ひっ……ひっ……」
ヴェイザーは、しゃっくりのような笑い声をたてていた。
その表情からは正気が消えている。マーディンによって恐怖にさらされ、そのマーディンが抵抗する間もなく竜の力に翻弄されて命を落とした。その光景と攻撃で負傷したショックで、理性が完全に飛んでしまったのだ。
ジュパットはあっけなくマーディンの命が尽きたのを見て力が抜けたらしく、その場にへなへなと座り込む。だが、呆然としている間はなかった。
「ひっ、ひいいいっ」
自分の身体の異変に気付き、悲鳴をあげる。
手が骨張ってしわだらけになり、美しかった顔はどんどん崩れていた。魔法をかけたマーディンが死んだため、若返りの魔法が消えて元の姿に戻ってゆくのだ。
だが、老いは止まらず、元々の姿よりもさらに老けてしまう。白くてもそれなりの量があった髪がどんどん抜け落ち、歯は口からこぼれ、頬の皮がたるみ切って下へ伸びた。
正常ではない力を使った魔法だったので、それが解けると普通よりも大きな反動がきたのだろう。足腰に力は入らなくなり、まともに立ち上がることすらできなくなってしまった。
しかし、ロッグ達はそんな二人などにかまっていない。そんな余裕はなかった。
「お、おい……どうしてまたピュアの中へ戻るんだ」
ピュアの身体を、大きな力が緑の膜のように包み込んでいるのが見える。ピュアの意識はなく、身体が時々ビクッと動いた。
さっきマーディンが出していたものとは違うが、ピュアから波動が出ているのが感じられる。その波動は見えない壁を作り出し、ロッグ達はピュアに近付くこともままならない。
「まだあざがあるからよ」
「あざが?」
エルナの言葉に、ロッグとジーンが聞き返す。
「竜の力はあざの中でしょ。マーディンが竜の力を抜き出したなら、あざは消えるはずだわ。でも、さっきマーディンが力を使ってた時、ピュアの胸元にまだあざが残ってたのが見えた。あいつが使っていたのは、竜の力のほんの一部にすぎなかったのよ。で、マーディンが死んだから、元に戻ってまたピュアの中で一つになったんだわ」
「だけど、ピュアの様子が変だよ。動きが止まらない」
もう呪文を唱える人間はいないのに、ピュアの身体は力を無理に引き出そうとされていた時のように動いている。
「マーディンに使われて、ピュアの中の力が混乱し、暴走を始めたんです」
「ぼ、暴走って、そんな……。それじゃ、ピュアはどうなるのっ」
誰かが意図して使っている訳でもないのに。さっきマーディンが吠えていた時のように、ピュアから力は流れ続ける。
マーディンが使っていたのがほんの一部だとすれば、彼女の身体にはどれだけの魔力が詰まっているのか。
「マーディンのようにはなりませんが、それでも無事では済みません。もう待つ時間はなさそうですね」
「ちょ、ちょっとイシュトラル、どうするつもりなのっ」
ピュアの方に一歩、イシュトラルが近付いた。ロッグ達は見えない手で押し戻されているかのように動きが取りづらい状況だが、彼はほとんど影響を受けていないように見えた。
「あなた達はそこにいなさい。さっきのように、光が飛び出すかも知れません。力が暴走してしまった今、私にもどう動くかわかりませんから」
「わかりませんって……イシュトラル、何を……どうするつもりなんだよっ」
「ピュアから力を全て引き上げます」
「なっ……」
イシュトラルの言葉に、三人は絶句する。一部の力でさえ、マーディンは扱い切れなかった。それを全て抜き出すなんて、正気の沙汰じゃない。
「やめろ。お前まで死ぬ気かっ」
「心配はいりません。私が死んだとしても、その時はこの力も必ず消えます」
「な、何を言って……」
ピュアの中の力が気配を感じたのか、彼女を中心にして渦巻く。そのエネルギーに、ピュアの身体が宙に浮かんだ。
竜の力は、彼女を隠すようにして自分の中へ取り込む。緑の光がどんどん濃くなり、やがてピュアは影しか見えなくなる。
ピュアの中にあった力はまた竜の姿を取り、彼女をその中へ取り込むという、これまでと逆の状況を作り出していた。
竜は吹き飛ばされた天井へと向かって伸び、その頭は屋根よりも高い位置で止まる。その大きさは、さっきマーディンが抜き出した時に現れた時の三倍は軽く超えていた。その胴は一人で抱えきれない程に太い。
その中にいるピュア。いると知っているからわかるが、今では人間ぽい影が竜の身体に浮かんでいる、としか思えない。あんな具現化した魔力の中で、彼女は果たして呼吸ができているのだろうか。
緑の光の竜は、近付いて来たイシュトラルを見下ろす。見ようによっては、人間を宿した竜が、その子を守るために威嚇しているみたいだ。
さらに渦巻く力が強くなり、ピュアの影さえもわからなくなる。まるで、ピュア自身が緑の竜になってしまったかのような、そんな錯覚をロッグ達は覚えた。
竜から強い波動が流れ、強い風が吹き出してまるで嵐のような音をたてる。崩れた別荘の残骸が、その風にあおられて飛んで行った。ロッグ達は自分達が飛ばされないように、足を踏ん張るしかできない。
なのに、竜の一番近くにいるイシュトラルは、まるで力んでいないようだった。何でもないように立っている。
「ピュア、聞いていますか。私の声は届いているはずです」
ピュアに向かって何か言っているらしい、というのはわかるのだが、風の音がうるさくてロッグ達にはイシュトラルが何をしゃべっているかまでは聞き取れない。
「あなたが預かったものを、私に渡してください」
竜の力に包まれながら、それまで意識を失っていたピュアは、イシュトラルの声を確かに聞いた。
預かったもの……竜の……もの……?
半分だけ目を開いてみる。でも、よく前が見えない。緑の世界が広がっているだけ。
ケガしてるの? ……子守歌、うたってあげようか
どこかで幼い時の自分の声がする。誰に向かって話しているのだろう。子守歌とは、いつも店で歌うあの歌のこと、だろうか。
さぁ ゆっくりと おやすみなさい
いとしい あなた おやすみなさい……
いつの間にか、ピュアの口から子守歌のメロディが流れる。かすかな、途切れがちの歌ではあったが、確かにあの子守歌だ。
急に風が弱くなる。ロッグ達は、緑の光でできた竜の体内で浮かぶようにしてそこにいるピュアを見た。さっきは影すらも見えなくなったのに、今はかすかに彼女の顔が見える。
「ピュア!」
自分の声が聞こえるかなんて、どうでもいい。ロッグは竜に……竜の中にいるピュアの方へ近付く。
その動きに気付かれたのか。強い風と空気のかたまりのような波動が、足を踏み出そうとするロッグを押し戻そうとした。
「くっ……」
それに逆らって、さらにロッグは一歩踏み出す。
なおも引き止めようとするかのように、頭から首にかけての傷に痛みが走った。しかし、ロッグはそれを無視する。
痛いなんて言ってられるか。ピュアはもっと苦しい思いをしてるんだ。俺がピュアを助けないで、他に誰が助けるってんだよ。
「ピュア、時が来ました。グリンがあなたに預けたものを、私に渡してください」
一方で、イシュトラルが、声をかけ続ける。
グリン? 誰なの、グリン……あ、あの緑の竜。
すまないが頼まれてくれないか
頭のどこかで、薄いガラスが割れた音を聞いたような気がした。
ピュアの目の前に、幼い頃の光景が映し出される。
あの時、グリンがあたしに頼んだのは……竜の珠を預かること。グリンの子に渡すこと。グリンの子って……誰?
「ピュア、私がグリンの子です」
イシュトラルの声が、ピュアの耳に飛び込む。
無事、我が子の手に渡らんことを
グリンの子に渡すもの……グリンの子に渡す、竜の珠。
息を飲み、ピュアの目が大きく見開かれた。
彼女を内包している竜が天を仰ぎ、上昇を始める。同時に、竜の中のピュアも。
弱まっていた風が、また強くなる。
「行くな、ピュア!」
「ロッグ!」
エルナとジーンの声を背中に聞きながら、ロッグは飛び出した。
地面を蹴り、竜の中にいるピュアに飛びかかる。竜の上昇と共に天へ向かっていたピュアを、ロッグは背後からしっかりと捕まえた。
竜の力が侵入者を阻もうとしているのか、ピュアの身体を抱きしめるロッグを攻撃する。鋭い石が投げ付けられたように、ロッグの身体のあちこちに朱が走った。
でも、ロッグはピュアを離さない。
行かせるもんか。絶対離さない。たとえ竜だろうと何だろうと、俺のピュアを連れて行くなんて、絶対に許さねぇっ。
竜の身体の中で、どれくらいの時間が経ったのか。ひどく長かったようにも思えるが、こんなに攻撃をされて耐えられるとも思えない。実際はピュアを捕まえてから十秒にも満たなかっただろう。
ロッグはピュアの身体を抱いたまま、地面に落ちた。ピュアはロッグの身体を下敷きにしたような形で。
ピュアの身体からは、まだ竜の身体が延々と伸びている。ピュアから竜が生まれているようだ。
緑の竜は天高く上ると、さっきマーディンにした時と同じように、今度はイシュトラルへ向かって急降下した。
竜の顔が静かに立つイシュトラルの身体へもぐり、長い身体がさらにもぐり続ける。まるで光の柱が、イシュトラルの身体に突き刺さっているようだ。
「うわっ」
最後に竜の尾がピュアのあざから完全に抜け出た時、その衝撃でロッグは弾かれた。ロッグとピュアは離れてしまい、地面に倒れる。
「ロッグ! ピュア!」
エルナとジーンが叫ぶ。
吹き荒れていた風が、急に止まった。