第14話_無人農場の月明かり
魚沼の五月。雪解けの水を湛えた田んぼが、夕暮れの空を鏡のように映していた。
あの豪雪の冬から、四カ月が過ぎている。
二十八歳の佐藤健太は、納屋の前に腕組みで立っていた。隣では、父親の茂が、苦虫を噛み潰したような顔で黙り込んでいる。
目の前には、農協から届いたばかりの機械が二台、並んでいた。
一台は、ディーゼルエンジンのない超軽量の電動トラクター。もう一台は、四つの羽根を持つ巨大な収穫ドローンだ。どちらも、全固体電池を積んでいる。
「健太、おめえ、本気でこれに田んぼを任せる気か?」
茂は六十二歳。四十年、この土地で米を作ってきた。
「機械に田んぼの顔が分かるか。泥の硬さ、水の深さ、畦の具合……そういうのは、長年の勘ってもんで見るんだ。あの機械は、勘なんか持ってねえだろうが」
「勘は持ってないけどさ、親父」
健太は苦笑して、タブレットを掲げた。
「衛星測位と地面のセンサーで、五ミリ単位で田んぼの形を覚えるんだってさ。夜でも、昼と同じ精度で動くらしい。今夜、試しに動かしてみようぜ」
「夜に動かすだと? 馬鹿言え、百姓は日の出とともに畑に出るもんだ」
それでも、茂は結局、一緒に付いてきた。
午後十時。村は深い闇に沈み、空には満月が昇っていた。山の稜線が銀色に縁取られ、水を張った田んぼの面が、月光を揺らめかせている。
「じゃあ、始めるぞ」
健太がタブレットの『自律代かき』ボタンを押した。
電動トラクターが、音もなく動き出した。エンジン音がない。聞こえるのは、水面を割る泥の音と、遠くで鳴く蛙の声だけだった。
ヘッドライトが、静かに畦の輪郭をなぞる。トラクターは、人の手を借りずに、田んぼの端から端まで、定規で引いたように真っ直ぐな線を描き始めた。
「……うそだろ。ハンドル、握ってねえのに」
茂が目を丸くして呟いた。
だが、一時間ほど過ぎた頃、事件が起きた。
田んぼの角に差し掛かったトラクターが、不意に止まったのだ。タブレットに警告が点滅する。
『前方に障害物を検知 作業を一時停止します』
「ほれ見ろ! やっぱり機械は役に立たねえ!」
茂が勢いづいたが、健太は首をかしげた。
「いや、待てよ。何があるんだ?」
ライトを向けると、畦のそばの泥の中に、大人の頭ほどの石が埋まっているのが見えた。ずっと昔から、そこにあったものだろう。
茂は黙って長靴で田んぼに足を踏み入れ、石の方へ歩いていった。
泥に腕を突っ込んで、石を抱え上げる。重そうだったが、四十年の腕力は健在だった。
「この石はな、俺の親父の代から、ここにあるんだ。角の水の流れが悪くなるから、いつか取らにゃならんと思ってたんだが……」
石を畦に放り投げると、トラクターはタブレットの確認ボタンに反応して、ゆっくりと再び動き出した。
泥の中に立ち尽くしたまま、茂は機械の後ろ姿をじっと眺めた。
「……機械が、石の場所を教えてくれたようなもんだな」
「そうだよ、親父。機械は、気づいてくれる。でも、取り除くのは人間なんだ」
茂はしばらく黙っていたが、やがて、ふっと口元を緩めた。
「……なるほどな。目は機械、腕は人間か」
夜が更けていく。
午前二時。電動トラクターは、三ヘクタールの代かきを、すべて終えていた。ヘッドライトを消した機械が、月明かりの下で静かに納屋へ戻ってくる。
タブレットに表示された作業報告を、健太は読み上げた。
『代かき完了 三・〇ヘクタール 作業時間 一時間二十分 燃料費 〇円』
「……一時間二十分?」
茂が絶句した。
「俺とお前が、二人がかりで朝から晩まで、丸一日かけてた仕事だぞ」
「しかも、俺たち、夜中に寝てたって終わってたんだぜ」
翌朝、父子は日の出とともに、田んぼの畦に並んで立った。
朝日を浴びた水面には、一面、整然とした代かきの跡が広がっている。昨日までなら、体中が泥だらけで、腰を叩きながらやっとたどり着く景色だった。
「親父、今日はさ、朝飯をゆっくり食って、ばあちゃんの顔でも見に行こうぜ」
「……そうだな」
茂が笑った。健太は、父親が笑う顔を、久しぶりに見たような気がした。
昼過ぎ、健太は収穫ドローンのテスト飛行も見学した。四つの羽根を静かに唸らせたドローンは、ハウスのイチゴを一つ一つ傷つけることなく摘み取り、仕分けして、冷蔵コンテナへ運んでいく。
出荷された朝採りのイチゴは、低コスト物流網に乗って、その日の夕方には東京のスーパーに並んだ。燃料代がかからない分、価格は従来の三割安い。それでも、農家の手取りは前年より二割増えた。
「農業って、こんなに儲かって楽しかったっけ?」
健太がぽつりと呟くと、隣で茂が、遠くの山を眺めながら答えた。
「……楽しいのは、昔からだ。ただ、息をつく暇がなかったんだよ」
夕暮れの田んぼには、帰省した若者の笑い声が響いていた。村の同級生たちが、農機の噂を聞きつけて、都会から戻ってきていたのだ。
健太は、その笑い声を聞きながら、胸の奥で小さく確信した。
――この村に、人が戻ってくるかもしれない。




