第1話:『フロントガラスの向こう側』
液晶画面をスクロールしていた指の腹が、意図せず画面の端に触れた。
その直後、鼓膜をぐっと内側から圧迫されるような、妙な気圧の変化が耳の奥を走る。
同時に、遠くを走るバイパスの走行音が、嘘のようにぷつりと途切れた。
「……?」
唾を飲み込んで耳抜きをしながら、ゆっくりと顔を上げる。
車内には何の変わりもない。
ダッシュボードの上に置かれたスマホ。助手席の足元で青い液晶を光らせている『EcoFlow RIVER 2 Pro』のインジケーター。N-VANのコンパクトな空間は、さっきまでの見慣れた俺の愛車のままだ。
だが、フロントガラスの向こう側だけが、完全に違っていた。
ハザードランプのオレンジ色の点滅が照らし出していたはずの、コンクリートの縁石がない。古びた「ポイ捨て禁止」の看板も消えている。
あるのは、現代の日本とは思えないほど太くねじくれたクヌギの原生林。あるいは、アスファルトではなく、背丈ほどもある雑草が伸び放題になった完全な獣道。
車の音すら、一切しなかった。
人工的な音が完全に排除された世界。窓を閉め切った車内は、耳が痛くなるほどの静寂に包まれている。
大声を出す気力すら湧かなかった。心臓の鼓動だけが、耳の奥の圧迫感に混じって激しく早鐘を打ち始める。
幻覚か。それとも一瞬でどこかの深い山奥にワープでもしたのか。
俺は手元のタブレットに目を落とした。画面は液晶の白い光を放ち、慣れ親しんだOSのインターフェースを表示しているが、開いたままのGoogleマップだけが異常だった。
現在地を示す青い丸は、糸島の山間部を指したままフリーズしている。そして、画面に映る現代の道路網の線が、まるでそこに存在しない道であるかのように、激しくチカチカと点滅を繰り返しているのだ。
「……GPSを掴んでないのか?」
ナビのバグを疑い、画面の最上部に視線を移したとき、奇妙な違和感に気づいた。
あるはずの電波の文字がない。代わりに、見覚えのある小さな【飛行機のアイコン】が静かに点灯していた。
「機内モード……?」
さっきスクロールしたときに、勝手に指が触れて設定が変わってしまったらしい。
だが、タブレットの通信を遮断しただけで、フロントガラスの向こうの景色が丸ごと変わるなんて、そんな馬鹿な話があるはずがない。
「……いや、まさかな」
背中に冷たい汗が流れるのを感じながら、俺は震える指先で画面の上部をスワイプした。コントロールセンターを引き出し、青く光る機内モードのアイコンを、恐る恐るタップする。
飛行機のマークが消え、Wi-Fiとモバイル通信の検索が始まった。
――ガクンッ。
その瞬間、再び耳の奥を強い気圧の変化が襲った。
視界が激しくブレたかと思うと、フロントガラスの向こうの鬱蒼とした原生林が、一瞬で「いつもの景色」に切り替わる。
ハザードランプのオレンジ色の光が、コンクリートの縁石と、見慣れた『ポイ捨て禁止』の看板を交互に照らし出している。遠くのバイパスを走るトラックの、低く重いロードノイズが車内に戻ってきた。スマホのナビが「電波が復帰しました」とポーンと音を立てる。
現代だ。元の駐車スペースに戻ってきた。
「はは、マジかよ……」
俺はダッシュボードに両手を突き、ハンドルに頭を埋めて荒い息を吐いた。
疲れたのか。気のせいだ。疲れたからって幻を見てしまうなんて、物語の中だけのこと。
そう自分に言い聞かせ、俺はN-VANのエンジンを吹かしてその場を離れた。何事もない日常の生活へと戻るために。




