第三十話「継ぐ者として、歩き始める」
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夜、蓮は一人でいた。
宿の机の上に、三つのものを並べた。
老書物師から受け取った覚書。
地下水路の入り口から写し取った刻み文字の紙。
そして、昨日老女から書き取った言い伝えのノート。
三つを並べて、静かに見比べた。
バラバラに存在していたものが、少しずつ重なってきていた。
部屋は静かで、外の通りの音だけが、かすかに聞こえていた。
スミが、蓮の足元で丸くなっている。
いつもより早く眠ってしまったのか、穏やかな寝息を立てていた。
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覚書には、こう書かれていた。
「物語を繋ぐ者は、世界が忘れかけているものを、もう一度思い出させる」
刻み文字は、まだ全部は読めていない。だが、老書物師の字と同じ系統だということは、分かっていた。
老女の言い伝えには、こんな断片があった。
「忘れてはいけないということだけが、残っている」
「あなたが覚えていれば、消えなくて済む」
三つを並べると、一本の線が見えてきた気がした。
物語が消えていく。
それを止める方法は、誰かが語り、誰かが聞き、誰かが次へ繋ぐことだ。
ギフットの名前が、継承。
聞き書きライターだった自分が、理解を対価として力を受け取り、繋いでいく。
偶然にしては、できすぎていた。
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翌朝、ノエルとスミを連れて、蓮は地下水路に向かった。
ギルドへの正式な届け出なしに、一人で動くことは本来できない。
だが、誰かと大勢で来る必要はなかった。
あの扉の前に立ち、話しかけてみたかった。
調査というより、挨拶に行くような感覚だった。
水路の奥、塞がれた入り口の前に立つと、やはりあの引っかかりがあった。
地均しで壁に触れると、いつもの感触が返ってくる。
蓮は、その場に腰を下ろして、壁を静かに見続けた。
これまで依頼や調査で向き合ってきた多くの相手に対して、蓮がずっとやってきたことを、今ここでもやった。
急がず、急かさず、ただ、相手が語り始めるのを待つ。
何か劇的なことが起きたわけではない。
壁は開かず、声も聞こえず、何かが現れたわけでもない。
それでも、この場所に向き合い続けるうちに、蓮の中で、何かが静かに落ち着いた。
答えが出たのではなく、問いが整った、という感覚だった。
「ここに何かが残っている。忘れられないように、残された何かが」
ノエルが、隣に座りながら聞いた。
「読める? その刻み文字」
「全部じゃない。でも……たぶん、入ってはいけない、という意味じゃないと思う」
「じゃあ、何?」
「入れる者が来るまで、待っているという意味かもしれない」
ノエルは、しばらくその言葉を考えていた。
「入れる者って、あんたのこと?」
「そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。今の俺には、まだ分からない」
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水路を出て、外の光の中に戻ると、ノエルが言った。
「これから、どうするつもり?」
蓮は、少し考えてから答えた。
「今まで、この町を中心に動いてきた。でも、白い土の場所も、村の忘却も、地下水路も、全部ここだけの話じゃなかった。もっと広い範囲で、同じことが起きている」
「だから、この町を出るってこと?」
「調査窓口の仕事として、他の場所を見に行く必要がある。それと……」
蓮は、ノートを少し開いて、老女の言い伝えを見た。
「各地に残っている言い伝えや記録を、集めたい。老女が語ってくれたように、どこかの誰かがまだ覚えているものが、きっとある。それを聞き取っていくことが、今の俺にできることだと思う」
「ギフットを使う以外の方法で、ってこと?」
「ギフットと、聞き書きは、同じことをしている。どちらも、誰かを理解して、繋いでいくことだから」
ノエルは、少しの間黙っていた。
「……一緒に行くよ。どうせ、この町に縛られてる理由もないし」
「いいのか」
「さっきから、何を聞いてるのよ」
スミが、二人の前に出て、歩き始めた。
どこへ向かうか、決めたような足取りだった。
「スミ、知ってるのか」
「知らないでしょ。ただ、あんたたちが行くんだから、一緒に行くってだけじゃない?」
蓮は、小さく笑った。
そうかもしれない。
それで十分だった。
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町を出る前日の夜、蓮はもう一度老女の家を訪ねた。
「もし、旅の途中で似たような話を聞いたら、書き取って持って帰ります」
老女は、嬉しそうに頷いた。
「あなたがいれば、消えなくて済む話が、まだたくさんある。どうか、気をつけて」
蓮は、頭を下げた。
翌朝、三人は町を出た。
持ち物は、いつもと変わらない。
ただ、ノートが一冊増えていた。
これから行く場所で、誰かの話を聞き取るための、まだ白紙のノートが。
(第三十話・第一部 完)
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