トンボ 3
お手洗いから戻ってきた恵理子は、貸出の席に腰掛ける。鈴音が気遣うように眉を寄せてうかがった。
「あの、各務さ……」
「ん?」
顔をあげた恵理子は、いつも通りに見えた。
少しの違和感はあったが、彼女がいつも通りに振舞おうとしているのはわかるので、鈴音は首を振って「なんでもないです」と小さく呟く。
そう、その時はそれくらいしか思わなかったのだ。
大人になってから、踏み込んではならない領分があると痛いほど気づかされている。だから、土足で踏み込んではいけない。理解した気になるのも、いけない。
その日は何事もなく終わった。そう思っていたのは、鈴音だけではなかったのだ。
*
「やっぱりだめだ」
恵理子は途方に暮れたように呟く。
両手で顔を覆った。憔悴に、体がいつも以上に重く感じる。自分はいったい、何をしているのだろう?
(利用者の個人情報見て、自宅前まで来て……ほんと、バカじゃないの……!)
もちろん、恵理子だと気づかれないように顔を隠せるような大き目のパーカーを着ているが、やはり怪しいとは思う。自分でわかるのだから、周囲からはもっと奇異に見られている可能性が高かった。
彼女の背後には、幼い赤い頭巾の少女が立っている。
「だめじゃない。エリコ、わからせてあげましょう?」
「だめだよ……。だって、こんなことしたら、解雇になっちゃうよ」
顔を歪めて、首を左右に振る。だというのに、少女は恵理子の心に誘惑という名の小石を投げ込んでくる。
「いいじゃない。もう薬でも限界でしょ?」
「…………」
「わかってないババアに、目にもの見せてやりましょうよ!」
愉快そうに言う少女のほうを、恵理子は振り向いた。恵理子は大学を卒業してすぐに就職した先で、精神に病を負っていた。
同じように精神的な薬をもらっている尾張真紀子には話してるが、他の人には秘密にしていた。表立って言うには、抵抗がある。いつでも「切れる」臨時職員では、ただの弱みにしかならない。
一人暮らしをしていて、貯蓄も多くない恵理子にとっては、大好きな本に囲まれてできる、大好きな仕事なのだ。辞めたくない。
赤い頭巾の少女が夕闇の中、ぽつりと呟く。
「あのババアの言ったこと、忘れてないの?」
「っ」
喉が引きつった。あの時のことを思い出すと、胸の奥がぎゅうと、握り潰されたように感じた。知らず、拳が震える。
「『あなたの顔、嫌いなのよね』」
「やめて……!」
「『腰掛けで働けるあなたたちはいいわね』」
「やめて!」
「あのババア、苦情を言ってきて、上に伝えますって言ったあなたに、なんて言ったの? 忘れてないわよね?」
「やめてっ!」
「『やめてよ。そんなことされたら、あなたたちに八つ当たりできないじゃない』」
恵理子の体ががくがくと震えた。
「死ねばいいのよ、あんなババア。エリコがどれだけ苦労してきたか、なにも知らない……わかろうともしないなんて、無知で愚かで、生きる価値もない!」
「ち、がう。あの人だって、きっと……」
「どんな人生いきてきたって、自分よりも弱い立場の人間を見つけて、あんな言葉をぶつけてきて……のうのうと生きてるなんて許せる?」
「う、うぅ」
「言い返せないのわかってるからタチが余計に悪いじゃない。死ねばいいのよ!」
「…………」
歯を食いしばって耐える恵理子を、少女は面白くなさそうに見つめてから、持っているバスケットを揺らした。
「耐えるだけのあなたたち。可哀想な小鳥」
「…………」
「踏み躙られる気持ちを教えてやればいいじゃない。簡単なことよ。やられたんだから、やり返せばいいの」
恵理子の瞳から涙が零れた。両手で耳を塞いでも、彼女の言葉が沁みこんでくる。
動けない恵理子の背後で、少女はつまらなそうに笑った。
「しょうがないわね。じゃあ今日はここまでで許してあげる。ああ、でも快感ね」
「…………」
「クククッ。ちったあ警戒心持てってのよ。個人情報を完全に守ることなんてできないってこと、いい加減わかればいいのに」
「…………」
「恨みを買っちゃいけない相手もいるんだってこと、少しは考えればいいのに。短慮って、ほんと、やぁね~?」
口を開きかけた恵理子の前に、少女が立っている。いつの間に、移動したのだろう。
「恨みを買うようなこと、言わなきゃいいのに? ねえ?」
「……うん」
弱々しく頷く恵理子は、それでも足を踏ん張る。このままでは、彼女の誘惑に負けそうになる。
「ああ、でもポストに虫の死骸をいっぱい詰めたりとか、猫の死骸を詰め込むとか、やめておいたほうがいいわね。また、八つ当たりされちゃうもんね?」
「うん」
「気づけばいいのにね! あなたの自宅、知ってるのよ! どんな悪辣なことでもできるんですよって!」
げらげらと笑う赤い頭巾の少女は、ふいに真剣な表情になる。
「ほんと、気づけばいいのに。だから」
ねえ、と恵理子に手を差し出してくる。年齢に似合う、小さな掌だ。
「わたしの手を取って。幻なんかじゃない。わたしは『居る』」
麻薬のようだと思った。抵抗するのも疲れてきて、恵理子は力なく笑うしかない。
「直接的なやり返しはやめましょう。あのババア、ヒステリーちっくな癖に、変に頭がまわるもの」
「どう、するの?」
「そうね。わたしの手を取れば、『力』を貸してあげるわ」
目の前に、小さな掌がある。簡単じゃないかと、心のうちで声がする。眩暈がしてしまう。涙がまた零れた。
なんで私が。
(なんで私が)
理不尽だと思っているのは、世の中で自分だけなんて、そんなことは思わない。世界中のどこにだって、そう思っている人はいるだろう。
でも。
(どうしてあんな風に言われなきゃいけないの?)
顔が嫌いなんて。そんなこと言われたってどうにもできないじゃない!
整形しろっていうわけ? なんなの? そんなに利用者って偉いわけ? 税金おさめてるのはアンタだけじゃない! 私だって、少ない生活費から出してる! アンタに私が何をしたっていうの? そんなにひどいこと言われるほどのことをしたの? 相手の気持ちを考えて言ったの? アンタに私の何がわかるの!
唐突に、ばつん、と心の中で何かが焼き切れた。
耐えることが大人なんだと思ってた。我慢することが、いい大人だと思っていた。
相手の顔色をうかがって、ささやかな幸せを噛み締めて、小さくて狭い世界で生きていても、それでも…………大切な日常。
恵理子は少女の手を握っていた。まっすぐに見つめている。
赤い頭巾の少女は小さくわらった。
「いい子ね、エリコ」
ぽつんと立つ恵理子は、くるりと身をひるがえす。そのまま歩き出した。
「……少しは危機感持てば? ……傷つけられた人間が、弱いからって黙ってると、思わないことね」
くすりと笑って、軽い足取りで。
*
鈴音は「あ」と小さく呟いた。来館者の中の人物に、真紀子が顔を少ししかめて席を立ったからだ。その真紀子を、佐織が気遣うように見ていた。
六十代くらいの女性の姿がある。あの客は、この間真紀子に向けて「あなた冷たい人ね!」と言い放った利用者だ。
質問に端的に応じた真紀子に落ち度などないというのに、なんて心無い言葉だと思った。そもそも、何を求めているのだ、図書館職員に。
優しくされたければ、それ相応のお金を払えばいくらでも優しくしてもらえるのだ。鈴音とて、その現場を見ていて理不尽さに首を傾げてしまったほどだ。
なんて自分本位の人が多いのだろうと。
市立図書館の本は、市民のものだ。つまりは、自宅の、自分所有の本ではない。言ってみれば、税金をおさめている市民たちの財布から少しずつお金をもらって本を買っている場所なのだ。
共同購入した本、という意識がないためか、本を雑に扱う人が多くて辛い気持ちになったものだ。同じように、そこにいる職員たちにも当然の権利のようにひどい言いがかりをしてくる利用者が多い。
なぜ「耐えさせる」のかと……思う。
接客する職場だと思う。人間と人間のやり取りだとは思う。けれども、それは基本的に一方通行になることが多い。
耐えるばかりでは、いつかパンクしてしまう。なぜそれを、わかろうとしないのだろう。
あの女性客の名前を、鈴音は知らない。でも真紀子は知っているだろう。自分を傷つけた相手を、早々に回避して立ち去った彼女が知らないわけがない。
棚に本を戻す作業の者と交代して、真紀子は仕事に取り掛かる。棚で作業をしていれば、あの女性にまた難癖をつけられる確率はかなり落ちる。
「また来た~。いい加減、顔とか憶えられてんの気づけばいいのに」
さすがにいい顔をしない宇堂香奈の、若い娘ながらの露骨さに鈴音は苦笑してしまう。
憶えられていないとでも思っているのだろうか? 利用者の顔など、悪い印象があればすぐに憶えてしまうというのに。
「だいじょぶかなぁ、尾張さん……」
「え?」
「あ、そっか。三田村さんは知らないんですね。あのおばあちゃん、前に棚でも尾張さんに絡んできたんですよ。ったく、人間検索機じゃないってのに、アタマおかしいんじゃねーの」
小声で言っているが、香奈はかなり辛辣だ。驚く鈴音の表情に気づいて、苦い笑みを浮かべた。
「絡んできたって、この間が初ってわけじゃ……」
「イエイエ。前にも尾張さんに何度か絡んできてですね。すっごく難しいことを聞いてくるんです。自分で調べろっつーのよ」
図書館員には、利用者には『答え』を教えられないというルールがある。これは正式に法律で決められているのだが、知らない人が圧倒的に多い。
司書として専門性が高い職種ではあるが、利用者はまずは図書館がどういうところであるかを知らない人のほうが圧倒的に多いのだ。便利な無料貸し本屋くらいにしか思っていないだろう。
足し算の答えは教えられないが、足し算の『方法』が載っている本を紹介する、というアクションなら可能だ。それに、個人の持っている能力には限界がある。
鈴音も、棚に本を戻している作業中、若い男性利用者から「あの著者の本って、どこ?」と尋ねられ、すぐにはわからないと応じたら冷たく「なんだ、わからないの」と言われた経験はまだ生々しい。
所蔵しているすべての本の著者を憶えているとでも思うのだろうか? そんなことができる人間がいるなら、教えて欲しいくらいだ。機械なんて、いらなくなる。
「両手にいっぱい本を抱えてた尾張さんは、少し待っててくださいって言ったんですよ。そしたら、それも待てなかったらしくて、窓口まで来たんですよね、あの人」
「は?」
「もちろん、尾張さんは配架途中の本を持って戻ってきて、検索してたわけですけど~。でもまぁ、存在しない本は、紹介できませんし」
「……ああ、なるほど」
利用者の大半は、本屋と図書館には『思い描く本』がすべて揃っていると勘違いしている人が多いのだ。
出版されていない本を所蔵などできないのだが、自分が求めるものは必ず存在していると、頑固に信じる人があまりにも多い。
出版社も、売れない本を無闇やたらと出すわけがない。それくらい思いつきそうなものだが、自分で調べることを放棄している人たちの多くは、そのことに気づかないのだ。
図書館に行けば在る。
なんという、幻想だろう。
そして存在しなければ、その失意の捌け口はもれなく窓口にいる臨時職員相手に決まる。
「ないようです、すみませんって尾張さんは謝ったらしいんですけど、諦めきれないあのおばあちゃん、水原さんに同じこと訊いてきたんですよね」
「…………」
「ほら、水原さんて、温和に見えるし、尾張さんみたいにハキハキ言わないじゃないですか。優しい口調っていうか。で、水原さんもないですね、って言ったら、尾張さんの悪口言って帰ったらしいですよ」
さすがに、空いた口が塞がらなかった。それでは、真紀子が逃げるように書棚に行ってしまった気持ちがわかる。
真紀子はさっぱりした性格をしているし、口調はやや強めだが、利用者には親身に当たるようにしている臨時職員だ。あまりうまく笑えないと言っていた彼女は、それがコンプレックスのようで、せめて調べものの手伝いはと、尋ねてきた相手にはなんとかしようと躍起になることが多いのに。
「それは……ちょっとね」
言葉を濁す鈴音に、香奈は「ありえないですよね~」と唇を尖らせている。
接しているのは『人間』だというのに、利用者には職員がニンゲンに見えないのだろうか。