トンボ 2
江口と唯月は、その日は一度、戻ることとなった。
館長室を出て、職員駐車場に停めてあった公用車に乗り込んだ江口は、はぁ、と溜息をついてから唯月を横目で見る。
「勤務地にしては、結構やばそうだけど、イケそうかい?」
「……ソレが役目なら」
「そうそう。しっかしほんと、クズの吹き溜まりみたいなとこだな、ここ」
窓口に立つ臨時職員が可哀想になってくるほどだ。
唯月は、運転席に座っている江口に目配せをした。
「そんなに、ひどいのか」
「中で働くとまぁ感想は変わってくるんだろうが、文句言ってくる利用者の矢面に立ってるのは、言ってみればいつでも『切れる』駒だよ。
彼女たちが一生懸命に働いてるのは見ててわかるだけに、ほんと、見てらんないね」
「臨時職員?」
「ああ、キミは知らないんだっけ。言ってみれば、パートさんだよ。公務員じゃないの」
「えっ。市営図書館って、公務員だけがいると思ってた……」
絶句している唯月に、江口は笑う。
「そう思ってる人も多いし、実際そういう図書館もあるからね。でもま、ここはひどいな。
事務室、空いてる机とかあったでしょ?」
「え? あ、あぁ、えっと、公務員のほう?」
「そうそう。公務員は、ちょっとやそっとじゃクビにならないからね。あの空き席の職員は、連絡もなくもう二週間休んでるんだって」
「そんなこと、可能なのか!?」
クビになったっておかしくないではないか!
驚く唯月に、「まあね~」と江口はおどけてみせる。
「でもま、それでもクビにならないのが公務員なわけ。公務員が安泰っていうのは、こういうことしても、クビにならないって本人わかってるから」
「はあ!?」
「そりゃ休むよね~、平気で。生活かかってたら、そんなことできないもんね~、ふつうは」
「…………」
「聞いた話じゃ、ここ、ほんと姥捨て山みたいになってるんだって。優秀な人材はほんの2、3人。あとはみんな図書館業務知識は皆無さ」
「は?」
「1つか2つしかお仕事しないで、それでたくさん給料もらえてりゃ、そりゃ楽だわな~」
ハハハと笑う江口を、戦々恐々とした瞳で唯月は見ている。江口は笑みを止めた。
「あんなにがんばってる臨時職員の子たちは、いつ更新が切られるかってびくびくしてるのに、あいつら、なってないわ」
しかも、かなり薄給だしね。
「薄給? 臨時でも、職員じゃない、のか?」
「全然違うよー。だって『公務員じゃない』ってことなんだからさ。いわゆるパートさんかバイトなわけよ。
たぶん、これくらいじゃない?」
両手を広げる江口に、唯月は首を傾げてみせる。
「わかんないかぁ。この指の数くらいしか、お金もらえてないってこと」
「えっ」
「利用者の悪口散々受けて、できてない利用者の相手をして、散々体力使ってこれくらいって、悲しいだろ~?」
「安すぎないか、それ」
「安いんじゃない? まったく労働の代価に見合ってないし」
なら。
「なんで辞めないんだ、その人たち」
「まあ色々事情はあるんだろうけど、本が大好きなんだろうなぁ。この職業が好きだから、耐えれるのさ」
「ほかに、条件のいい図書館だって」
「残念だけど、『公務員』が牛耳ってるの、忘れてない?」
「あ」
「しかも、ここの図書館の公務員で、司書資格持ってるのは2名。やり手の人だけだね。
臨時職員も、3人くらいしか持ってないみたいだけど、さすがに毎日書架に出てるだけあって、経験に差が出るわな。慣れてるほうが、そりゃ優秀にもなるわ」
青ざめる唯月に、江口は相当面白かったようで吹き出している。
「じゃあさ、もっと面白いこと教えてあげよっか。
公務員ってさ、同じ勤務先にあんまり長いこといられないわけ」
「?」
「癒着してるって思われちゃうからの措置なんだけど、つまり図書館も例外じゃないんだよね~。
慣れた頃に異動かかっちゃう職員多いからね」
「じゃあどうやって……?」
「そこで出番がくるのが臨時職員の皆さんってわけ。彼女たちは公務員じゃないから、異動はないんだよね~」
あ、と唯月は納得する。長く勤める臨時職員たちがいるならば、上の頭がすげ変わろうが、表立ってはあまり変化がないように見えるはずだ。
「正直言っちゃうと、職員より、臨時職員のほうが『できる』よ?」
仕事がね。
「だけど、仕事ができて、よく働いてもお給料は全然あがらないし、更新いつ切られてもおかしくないし、ボーナスもない。
うーん、話せば話すほど、ほんと可哀想というか」
でもまぁ。
「諦めてるんだろうさ、そこは。諦めないと、やってられない職場なんて、ろくなもんじゃないけどね」
「……江口、ここが吹き溜まりだって言ったけど」
「ああ」
急に真面目な表情になる江口は、後部座席に置いていたビジネスバッグを引っ張って手元に持ってくると、中からファイルを取り出した。
「この間、『タカ』から報告がきてね」
タカ、と唯月が口の中で苦く呟く。
「たまたまだったんだけど、ある臨時職員の子の様子がおかしいって、気づいたみたいでさ」
「…………」
「調べたら、ひどい結果でさ……。顔がキライとか、それもう完全な八つ当たりじゃんっていう……」
「え?」
「いや、なんでもないよ。まぁなんつーか、ケアが必要なんだと思ってさ、この間接触したんだよ」
取り出したのは、履歴書のコピーだ。白黒のそれには、各務恵理子の証明写真もしっかりとうつっている。
「本人はまったく自覚してないだろうけど、ありゃあ〝バグ〟が出るぞ」
その単語に、唯月はさすがにいい顔をしない。無表情に近いそれに、不快さが少し混じった。『バグ』とは、つまり、『バグった』という意味だからだ。
わかってはいるが、だから唯月がここに配属される予定なのだが、それでも……良い気分にはならない。
江口は唯月のそんな些細な変化に気づいて、小さくニヤリとした。
「『お優しい』向井くんには、やっぱり何度経験しても嫌なものだろうね。知らないことも多いし」
「……何度『経験』しても、場所と時間が変わればただの蓄積データで、一から始める。だがそれを、面倒とは思わない」
「まっじめ~。ま、だから選ばれてるわけか、こういう『面倒な』図書館に」
「ツクモ、あまり貶めるな。ここで働いてる人たちが、嘆く」
江口はぎょろりと瞳を動かす。低く笑い、彼はのんびりと背もたれに体重をかけた。
「トンボの出番がないことを、祈るよ。……ま、無理だろうけど」
だけどまぁ。
「『嫌われない図書館』ね。つまりは、八方美人てことじゃん。勉強に集中したい利用者をとるようにするでもなく、家族連れをターゲットにするでもなく、結局はあいまいでぐだぐだ……。ひどいわこりゃ」
「あんまり言ってやるな、江口」
「だってそうじゃん。そんな図書館に誰が二度と来たがるわけ?」
「…………」
「静かに勉強したいのにうるさい子供を注意しない職員にいらいらしないヤツはいないでしょ。でもま、臨時の子たちは上から命じられてるから強く注意できないんだろうなぁ」
はは、と江口は小さく笑う。
「ほんと、クズい図書館だよね~」
***
あなたは、そこを訪れていた。
柚木市立図書館。
柚木市の中では、大きなその公共施設の、玄関ドアの前に立つ。
ぎゅ、と胸の前で拳を握り締めた。
それは決意でもあり、勇気でもあり、また、決別だった。
***
ぶーん、と羽音のようなものが聞こえた。虫でも飛んでいるのかと鈴音は不思議になって周囲を見回す。
「?」
どこにもそんなものの影は見えない。気のせいかもしれない。
貸出用のカウンターに座って、もう一つの席に座る恵理子を見遣った。恵理子は最近、元気がないように思える。
前をまっすぐ見て、凛とした姿勢を保つ恵理子は、ふいに目を細めた。そして立ち上がる。
「ごめん。ちょっとお手洗い」
「あ、いえ」
そんな短いやり取りのあと、返却の窓口に利用者がやってくる。
(あれ?)
ゆらり、と景色がゆれた。
まるで陽炎かと思うような光景に、鈴音は瞼を軽く手の甲で擦る。
瞬きを数度して、けれども先ほどのような光景はない。
逃げてしまった。
逃げてしまった。
女性用トイレの入り口からすぐのところで、座り込んでしまった恵理子はぶつぶつと繰り返している。
ゆらゆらと、彼女の影が蠢く。
(しっかりしないと)
恵理子は俯かせていた顔をあげて、ゆっくり立ち上がる。やけに体が重く感じた。
手洗いのほうへとのろのろと歩いて、鏡を見遣る。背後に立っている少女に気づかなかった。
赤い頭巾をかぶっている、金色のおさげ髪の少女の顔は、頭巾の陰で見えない。だが、口元だけははっきりと天井からの明かりによって見えた。
笑っている。
「壊しちゃえば?」
「……だめだよ、そんなの」
虚ろな声で応じる恵理子に、少女はくすくすと声をかける。
「いいじゃない。ひどいこと言われたんだもの。きっと本人は気づいてないわ。思い知らせてやりましょうよ」
「だめ……。それじゃあ、子供と同じ。子供の単純な仕返しじゃない……」
頭を緩く左右に振って、恵理子は否定の声を押し出すが、かなり辛そうだ。呼吸が荒くなっている。
「なにも気づいていないわ。あなたがひどく傷ついたこと。ばかなババア。あれじゃ、周囲の人たちも真剣になってくれないわ」
「…………」
「誰も助けてくれない事実に向き合うべきよ。他者を傷つけて『無傷で済む』なんて、思わせちゃだめ」
「……だめだって……」
「だめじゃないわ」
「私のこと、あのお客さんは知らないし……私も、あの人の私生活は知らない。お互い様だよ」
「見知らぬ相手だから、暴言を許せって?」
アハハと笑う少女の声が耳障りになったようで、恵理子は顔をしかめる。鏡越しに見る少女は、けらけらと笑う。
「エリコ、あんた我慢しすぎなのよ。こんなところ、本当はイライラして仕方がないんでしょ?」
「違う……」
「やっすい給料でこき使われて、客に散々文句ぶつけられて、報われる度合いが少なすぎるでしょ」
「やめて……」
「あたしが助けてあげる。あたしが、あなたの代わりになってあげる」
その囁きに恵理子の瞳が揺れた。救いを求めるように鏡越しに少女を凝視する。
「あのババアが来ても、あたしなら撃退できる。ねえ?」
「だめだって……。解雇されちゃうよ……」
「大丈夫。だって」
くすりと笑った次の瞬間、鏡の中の恵理子が妖艶に笑っていた。
「もう、そんなの意味ないもの」




