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トンボ 1

 憧れの職業だった。

 大好きな本を扱う、憧れの職業。

 学校の小さな図書室では満足できないけど、田舎の、しかも貧乏な私の家ではバスで遠出もできない。

 親に、叱られると怯えて、いつもお金がないことに悔しさを噛み締めていた。

「鈴音さん!」

 怒声に、昔のことが走馬灯のように脳内を駆けた。

 どうしようもない父。苦労ばかりするお人好しの母。夢想ばかりする……私。

 目の前には背中がある。学生服の彼は、私を庇うようにして立っている。

 何が、起こっているの。

 私は、私はただ…………本が好きなだけなのに。

 アア……羽虫の音がする。ぶぅんぶぅんと、耳障りな…………ちいさなちいさな、ムシのハネのオト。



 図書館へようこそ。

 きっとここにはあなたの求める本があるはず。

 ここになくても、ほかの図書館から取り寄せることも可能です。

 どのような本をお探しですか?

 そのジャンルの本でしたら、一番奥の壁際になります。

 ああ、こちらの本ですか?

 ただしこの『物語』は決して幸せな内容ではございませんのでお気をつけください。

 苦しむ人の出来事を垣間見ることでしょう。

 それは愛するがゆえに起こること。

 『人生』は『物語』とよく言われます。その主人公は『あなた』です。

 けれどもそこにかれらが現れたらよくよくをお気をつけください。

 彼らは本を愛する『あなた』を倒しに来る『悪者』なのです。

 そしてその『悪者』はとても強い。

 ですがご安心を。

 これは悪い夢でございます。

 ですので、次の夢はきっと良き夢になることでしょう。


***


 一時間に1本しかないバスに乗って、勤務先に出かける。

 降り立った停留所からも距離があるので、さらに歩く。やはり、幼い頃に比べると体が重い。単なる運動不足かもしれないけど。

 そう、三田村鈴音は思った。今年で24歳になるというのに、童顔すぎて高校生にしか見えない外見をしていた。

 背も低く、そのことに多少なりともコンプレックスを抱いている。坂道を荒い息を吐き出しながらのぼり、やっと見えてきたのは、鈴音が働いている職場だ。

 二階建てのコンクリートの建物は、多少古さを感じさせる。

 職員専用の裏口の扉を押し開け、中に入った。ひやりとしていて、外界との気温の差を感じる。

(寒いなぁ。やっぱり、上着はまだ必要なのかな)

 ここに勤めてから一年と少し経つ。

 慣れないことも多いが、鈴音の心を占めているのは大きな失望だ。……もっとも、勝手に期待していた自分が悪いのだから、無意味なものなのだが。

 現実は容赦しない。綺麗な職業などない。

 理想は理想でしかなく、憧れはやはり憧れのままだ。

 事務室に行く前にロッカーに寄って、荷物を入れる。ハンガーにかけてあるエプロンをとって、しばらく手が止まった。

 憧れの図書館員になれたと喜んだ頃が懐かしい。

 鈴音はエプロンをつけると、事務室へと向かうべく振り向く。そこに、学生服の少年が立っていた。

 彼はぎょっとしたように目を瞠っている。黒髪で、片目は眼帯をしていた。その眼帯を隠すようにそちら側だけ前髪が伸びている。大人しそうな雰囲気だというのに、彼はどこかむっとした顔だ。それが元々の表情だと知ったのはいつだっただろう?

「おはよう、向井くん」

「…………」

 すぅ、と目を細めた向井唯月は、すぐに視線を逸らしつつ「おはようございます」と小さく応じた。

 まだ17歳の彼がこうして図書館にバイトとして来ているのは特例中の特例だ。

 そういえば今日は祝日だ。

(やだなぁ、曜日感覚もおかしくなってるのかなぁ)

 落胆の溜息をつくと、唯月は不思議そうにこちらをうかがう。

「三田村さん、元気ない……ですね」

「そうかな? うん、まぁ」

 曖昧にすると、思わず目を伏せてしまう。

 鈴音が勤めている柚木市立中央図書館は、柚木町に点在する図書館でも一番大きいとされる図書館だ。

 図書館は本好きにはたまらない職場だと誰もが思うだろうが、現実はそんなに甘くない。

 事務室にのろのろと向かう鈴音に、彼はなにか言いかけたが、結局なにも声をかけなかった。

「おはようございます」

 一応声だけは大きくして、事務室の扉を開く。仕事が始まる前から疲労感を覚えるなんて、と不甲斐なさを覚えた。

「おっはよー」

 面倒そうに返してくるのは、自分より先に来ていた尾張真紀子だ。彼女はなにかするでもなく、席に座ったままでこちらを見ようともしない。必死に携帯をいじっているので、ゲームでもやっているのだろう。

 見回せば、職員の大半はもう来ている。

 鈴音は自分の席に腰掛けると、職員の証である名札を首からさげた。

「おはようございます」

 小さな声で入ってきた向井唯月を、一瞬だけだが全員がどこか異様な目で見ることも、もう慣れた。

 朝会が始まるまで、鈴音はぼんやりと今日のことを思う。どうか、どうか無事に1日が終わりますように。


***


 向井唯月というのは、仮名、であるらしい。

 彼がこの柚木市立中央図書館に『配属』されたのは、鈴音がまだこの仕事にやる気を見出していた、採用が決まってからの一ヶ月目だった。

 その頃は鈴音は『バグ』というものを知らなかったし、仕事に対して情熱的でもあった。

「『インセクト』が来てる!?」

 仰天の声が、ロッカー室から、階段を降りてそこに向かっていた鈴音の耳にも入った。

 声の主は真紀子だった。自分のロッカーからエプロンを取り出して、不愉快そうに眉をひそめていた。

「らしい。だってほら、職員駐車場、見た? 見覚えのない軽自動車あったじゃない?」

 真紀子に話しているのは、真紀子の一つ年上の、水原佐織だ。理知的な彼女の顔立ちも、曇っている。

(インセクト?)

 単純に考えれば、それは英語で「昆虫」のことである。だが、そんな意味合いではない気がした。

 鈴音は思わず、足を止めて耳を澄ませる。二人は会話に夢中で、鈴音がいることに気づいていないようだった。ちょうど死角に鈴音がいたせいもある。

「なにそれ。ソレって、うちの図書館に『バグ』が出るってこと!?」

「そういうふうに、見られてるんじゃないの」

 佐織に、真紀子はどこか悔しそうな表情を向ける。だがすぐにそれは消えた。

「そりゃそうか。うちの図書館、サイテーだもんね」

 自虐的にそう吐き出す真紀子の顔は醜く歪んでおり、鈴音は驚愕に目を見開くしかない。

 佐織も達観したように、小さく言う。

「最高の職場なんてどこにもないって、尾張ちゃん」

「……最高はなくても、その中間くらいはあっていいじゃん。いいとこあるって思いたいじゃん」

 真紀子の声は滲み、涙が零れてもおかしくない様子だ。

「でもさ、それってほとんどないじゃん、ここ。なにがサイテーって」

 言葉をそこで途切らせる。

 二人は微妙な視線を交わして、沈黙してしまった。

 しばらくして、会話が再開されたが、それは一番最初に口にしていた『インセクト』についてだった。

「そもそも、連中は何者なわけ。胡散臭すぎ」

「それは私も同意するかなー」

 ロッカーが閉じられて、そして死角から鈴音が一歩踏み出すのは同時だった。

「あ、三田村、オハヨー」

「おはよう、三田村ちゃん」

 二人が朗らかな、だがそれでいて特徴的な挨拶をしてくれる。先ほどまでの会話とは雲泥の、声音。

「おはようございます、尾張さん、水原さん」

 挨拶をする鈴音に手を軽く振って、二人は先に事務室に向かう。後ろ姿を見送ってから、鈴音はロッカー室に足を踏み入れた。

 自分の名札のついたロッカーを見上げて、ぼんやりと思う。

 いんせくと?

(あとでググってみようかな)

 直感だった。それはきっと、図書館所蔵の辞書には載っていない『事柄』だろう。

 だから、虚像と真実が混ざり合ったインターネットのほうが、きっと鈴音に、『答えらしきもの』を与えてくれるだろう。


 荷物を置いてから、館長室の前を通る。「使用中」の札が珍しくつけられ、ドアが閉じられていた。

 来客中だろうか?

(いんせくと、っていうのが来てるのかな)

 鈴音はじっと館長室のドアを見つめた。見透かすことなどできないというのに。

 三秒ほどで諦めて、鈴音は事務室のドアを開ける。

「おはようございます」

 いつもと変わらない朝だ。そう、思っていたのだ。だが、館長の席は空いたままで朝会が開始された。



「インセクトを?」

 館長である大林は、スーツの男性と、その連れである学生服の少年を見遣る。少年は右目を隠すように、治療用の眼帯をしていた。

 今頃、事務室では朝会が始まっているだろう。毎朝、つまらなくはあるが、とうとうと語るのが好きな大林にとってみれば、目の前の二人は一日のささやかな楽しみを奪った面倒な客人だ。

「彼が?」

 まさか、という意味合いを含んでの言葉に、スーツの男性……江口は笑った。

「そうです。若いですが、かなりの有望株です。なかなかに、ここの図書館は『荒れて』いらっしゃるようだ」

「…………」

「利用者のマナーがなっていないことで有名ですよ、うちではね」

 無言の大林に、江口は笑みを浮かべたまま告げる。

「貸出した本は決して無償ではないのに、窓口で金銭のやり取りがないから『タダ』だと思い込む利用者が多いって聞きますよ。

 現に、『傷んだ本が多すぎる』」

「……館内をこの間見学されたのは、そういう理由ですか」

 渋い声を出す大林に、江口は頷く。

「書庫も拝見しましたが、いやぁひどい。臨時で働いていらっしゃる方たちはみなさん女性で、本が好きで大切という精神はとてもとても伝わってきます。

 もうぼろぼろの本も大事に大事に修理されているのを、何十冊も見かけましたからね」

 最後をことさら強く言うのは、ぼろぼろにされるほど荒い扱いをする利用者の多さを強調してのことだ。

「ページ破損も多い。らくがきされた本も大量にある。いつから図書館は、自宅と同じ扱いになったんです?」

「っ」

 拳を固める大林だったが、利用者の意識が変わらなければ繰り返されるだけで、イタチごっこだとわかっている。

「甘いんじゃないですかね~。ペナルティを導入してる図書館もありますけど」

「でも、うちは市営ですから」

「そうですね。わかってます」

 表情を消して、江口は頷いた。

「べつにね、内偵のつもりじゃないんですよ。ただね、あまりに吹き溜まりすぎて、ひどいと思ったんですよね」

「〝バグ〟が出ると?」

「端的に言えば、そうですね。

 利用者を装って見学しましたけど、まぁひどいもんですね。図書館はいつからアスレチックパークになったんです?」

「…………」

「というか、分館はそれほどひどくないんですよね。客層の違いというより、もうここに来る利用者が『なってない』。

 本を大事にする気がある人はごく僅かで、ほかの人はただの害でしょ?」

「でも実際、本を借りていく利用者は……」

「正直言いますけど、ここの利用者、ほんとひどいですよ」

 さらりと。

 否定できない言葉を投げられて大林は言葉を詰まらせる。

「ああそうだ」

 わざとらしく江口が尋ねた。

「ここの図書館の『方向性』って、なんです?」

「方向性、ですか……。来館する市民に嫌われない図書館、ですかね」

 それを聞いた江口は「ほーう」と洩らしてからにっこり笑った。

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