おわり
しかし、翌日のこと。
千夏の願いとは裏腹に、壁の向こうから大音量でロックサウンドが鳴り始めていた。甲高いギターの音やあまりに騒々しいドラムの音が鳴り響き、千夏はぎょっとする。
またか、とすら、もう思わなかった。あまりに大きな音で聞こえてくる音楽を耳にした途端、千夏の頭は沸騰したように怒りで満ち満ちていた。
すぐに部屋を飛び出し、千夏は隣室の前に駆けつけると、インターフォンを鳴らすことも忘れて、ドアを激しく叩いていた。
「ちょっと!? いい加減にしてください!? うるさいって言っているでしょう!?」
唇の端から唾を飛ばしながら、千夏はそのように抗議するが、佐田が顔を見せる様子も、中から流れてくる音楽が止まる様子もなかった。
「ちょっと聞いてますか!?」
千夏は激しく声を荒げ、拳を叩きつけるようにドアをノックするが、状況は変わらない。
その間も、千夏の苛立ちは溜まり続けていたが、冷静な部分もあった。ただドアをノックし、声をかけている状況に気がつくと、千夏はインターフォンに指を伸ばし、何度も繰り返して鳴らし始めていた。
「佐田さん!?」
しかし、千夏がどれだけ声を上げても、インターフォンを押しても、中から佐田が現れる様子はなかった。音楽も鳴り止むどころか、更なる盛り上がりを迎え、激しさを増している。
「おい!? うるさいって!? 聞けよ!?」
千夏は次第に取り繕うことをやめて、感情のままに言葉を発していた。ドアに叩きつける手は赤くなり、次第に痛みを伴っていたが、そのことに気づかないほど、千夏の頭には血が昇っていた。
「いい加減にしろ!?」
そう叫び、千夏が激しくドアを叩いた時のことだ。部屋の中から聞こえていた音楽がゆっくりと鳴り止んでいた。
そのことに気づいた千夏は顔を上げ、荒い呼吸のまま、静かになった扉を見つめる。
ようやく音楽を止めた。佐田が顔を出さないことは納得していなかったが、そのことには一定の満足感を得たので、千夏は落ちつきを取り戻すように息を吐いていた。
「もういい加減にしてくださいね!」
最後にそう声をかけて、千夏は再び自分の部屋に戻っていく。
その時になって、ドアを叩いていた手の痛みに気づき、千夏は少し顔を歪めながら、その手を労るように摩っていた。
♪ ♪ ♪
異変に気がついたのは、部屋に戻ってすぐのことだ。いつものように掃除を始めようとしたところで、カーテンがふわりと膨らみ、ベランダに通じる扉が開いていることに気づいた。
千夏の記憶が正しければ、鍵こそかけていなかったが、この扉は閉まっていたはずだ。
それが今は開いている。その事実に眉を顰めて、千夏はじっと少し開いた先に覗くベランダを見つめる。
近くに置いたモップを手に取り、千夏はゆっくりと息を整えていた。足音を立てないようにゆっくりと、静かな足取りでベランダに近づいていく。
臨戦態勢を整えるようにモップを構える。ベランダに何がいるかは分からないが、何かがいる可能性は高いと思っていた。
ゆっくりと息を止めて、ベランダを覗き込んでいく。死角に何がいるのか、気をつけながら確認しようとする。
その時だった。
千夏の背後から僅かな物音が聞こえ、千夏は動きを止めていた。ゆっくりと振り返り、微かな物音の聞こえた方に目を向ける。
そこにはクローゼットがあった。千夏は改めてモップを握り締めて、今度はそのクローゼットを目標に歩き出す。
唇が震えていた。声を発したかったが、恐怖が喉に張りついて、うまく声を作れなかった。
ゆっくりと静かな足取りのまま、クローゼットに近づいていく。
その途中で気がついた。
クローゼットの扉が僅かに開いていた。鼠一匹程度がようやく通れるほどの小さな隙間だが、千夏はどちらかと言えば几帳面であり、そのように少し開けたまま置いておくことなどなかった。
ゆっくりと息を止めて、千夏はクローゼットに顔を近づけていく。モップを力強く握り締めたまま、千夏はそこにできた隙間を覗き込んでいた。
クローゼットの中の暗闇。そこにゆっくりと光が射し込み、空間に輪郭が浮かび上がっていく。
そこで、目が合った。




