はじまり
壁越しに鳴り響くは荘厳なクラシック音楽だった。
平凡な日常を特別なものに変えてくれるBGMのようにも聞こえるが、臼井千夏は鬱屈とした気持ちを吐き出すように溜め息をついていた。またか、と聞こえてきた音楽にうんざりとした様子で頭を抱える。
この家に引っ越してから、三ヶ月が経とうとしていた。最初の頃は穏やかに暮らしていたのだが、一ヶ月が経った頃から、このように大音量の音楽が隣室から聞こえるようになっていた。
今回はクラシックだが、その前はハードロック、シティ・ポップ、ジャズと音楽のジャンルは多岐に亘っていて、それら全てがスピーカーから壁の薄さも考えていない音量で流されていた。
平日の午前中のことだ。反対側の部屋の住人は外出しており、誰もいないのだろう。
だからこそ、遠慮なく音楽を流しているのかもしれないが、主婦である千夏からすれば、聞きたくもない音楽を聞かされ続けることは苦行でしかなかった。
掃除を始めようとしていた手を止めて、千夏は耳を塞ぐ。何日も何日も、聞きたくもない音楽を聞かされ、千夏の精神は限界を迎えかけていた。
耐えられない。そう感じた千夏は隣室に苦情を言いに行くことを決める。
とはいえ、それも既に何度も行っていることだ。何度もうるさいから音楽を小さくするように頼んでいるが、その翌日には忘れたように大音量の音楽が聞こえてくる。
だからこそ、千夏の怒りは日々膨らみ、苦情を言うために辿りついた隣室の扉の前で、激しく怒りを露わにするように千夏は声を荒げていた。
「すみません!?」
インターフォンを鳴らしながら、ドアをどんどんと叩きつける。すぐに中から聞こえていた音楽が止まり、その部屋の住人が顔を出した。
「何度言えば分かるんですか!? 音楽がうるさいって言っているでしょう!? いい加減にしてください!?」
千夏は怒りのままに捲し立てると、隣に住んでいる佐田外郎は申し訳なさそうに顔を伏せる。
「す、すみません……」
「毎回毎回、そうやって謝るだけ謝って、一向に改善されないじゃないですか!? どうせ、女だからって舐めてるんですよね!?」
「い、いえ、そういうことは……!?」
「とにかく、静かにしてください!」
叩きつけるようにそう言い放つと、謝罪する佐田を横目に見ながら、千夏は部屋へと戻っていく。流石に一度、抗議すれば、そこから再び音楽が聞こえてくることはなかった。
が、それもあくまで今日の話であり、明日の朝になったら、どうなっているかは分からない。そう思ったら、解決したはずの騒音が再び頭の中に鳴り始めて、千夏の気分はどんよりと重くなるのだった。
♪ ♪ ♪
夫である臼井哲平が帰宅したのは、夕方のことだった。小学校に通っていた息子の臼井一輝と、その弟である臼井瞬が帰ってきた一時間半後のことだ。
千夏は夕食の準備を進めながら、哲平に再び隣室から音楽が聞こえてきたことを話していた。
「苦情は言っているんだろう?」
「ええ、もちろん。それでも、次の日になったら、また聞こえてくるの。多分、鳥くらいの脳みそしかないんだわ」
千夏が怒り任せに呟くと、哲平が小さく笑う。
「やっぱり、管理人さんに相談するべきかもしれないね」
「ええ~? 引っ越してきたばっかりで、そんなことを相談したら、すぐにトラブルを起こす人って思われるでしょう? そんなの嫌よ」
「けど、何度注意しても直らないんなら、それしかないよ」
哲平は諭すようにそう言うが、千夏は不満そうに唇を尖らせる。哲平はそれほど近所の人達と関わりがないからいいかもしれないが、ずっと家にいる千夏はある程度の関係を保っていなければいけないのだ。
その身からすると、たとえこちらに非がないとしても、トラブルを外に出すことは避けたかった。
「ねえ、一回、貴方から言ってみてよ」
「ええ? 何で?」
「私が女だから舐められてるのかもしれないから。一回、貴方から言ったら変わるかも」
「そんなので変わるかな?」
「いいから、お願い」
千夏が振り返って頭を下げると、哲平は楽しそうに走り回る一輝と瞬を見守りながら、「考えておく」とだけ口にした。
こういう時、哲平は何もやってくれないことを千夏は知っていた。哲平の言う「考えておく」は「行けたら行く」と同義なのだ。
実際に何かをするつもりはないが、断ったら角が立つので考えてはみることにする。そういう意味合いだ。
そのことが分かり切っているから、千夏は溜め息をついて、再び夕食の準備に戻っていく。
やはり、管理人に相談するべきなのだろうか、とあまり好ましくない手段を考えつつ、明日は何もないことを祈るのだった。




