少女と少年/王女と兵士
船員たちが忙しなく廊下を行き来する様子と、時々迸る短く大きくてがさつな言葉の端々から、私が昏倒するように眠ってしまった後にももう一回、戦闘があったということの察しくらいはつく。
私が起きたとき、彼は私のそばにいなかった。彼は私の隣にいてくれなかった。彼は眠る私の頭をなで、肩をさすってくれなかった。
彼は軍人だ。戦闘があったとき、いくら陸上が主戦場だったとしても、仕事はあったのだろう。もしかしたら、彼はまた命の危険を冒して、戦っていたのかもしれない。
私のそばには死があった。そして彼は私のそばにはいなかった。
この船は、少し前まで死に包まれていた。優しく抱かれ、その唇にキスされようとしていた。
でも、死神は去った。いや、もしかしたら彼女らが死神を倒したのかもしれない。
だけれども、私はそれを知らなかった。彼らを死の顔を直視している間に、私は安穏たる祝福の中にいた。
目覚めることはなかったかもしれない。
そう考えると、私は頭の中が冷えていくのを感じた。腕に鳥肌が立ち、肩が震えだす。
私は死の腕の中で眠っていた。そのことがひどく恐ろしい。知らぬ間に彼女たちに重責を負わせた恐怖。死神の腕に抱かれていたという恐怖。そしてなにより、自分は知らぬ間に誰にも知られず、暗い太平洋の奥底で息絶えていた程度の人間だということに気づいたことが怖かった。
私は何もできない。ここだと、私は何の力も持っていないんだ。
王国にいた頃は自分にはどんな可能性でもあると思っていた。王室の一員としての誇りも、矜持も、義務感もあった。ハイスクールの成績は上位だったし、自分にできることはもっと沢山あると思っていた。
でも、そんなもの全て、ここでは役に立たない。自分の覚悟でさえ。
そのことが怖い。私は何でも無いただのタンパク質の塊として消えるのが怖い。
怖いよ、助けて。
「私は、こんなに小さいのに」
その時、個室のドアがノックされた。私はその音にすら怯えて、腕を抱えて背を丸めたまま、ドアを見上げる。
ゆっくりと、音を立てないように開けられたドアから彼が入ってきた瞬間、私は少しの救いを得たような気がした。
その時の私は、もしかした酷い顔をしていたのかもしれない。彼の意表を突かれたような顔が、なんだか嬉しかった。
「イオリさん……」
× × ×
このドアをノックするとき、少しの緊張を覚えた。たった13時間ぶりに会うというだけなのに、なぜだか、このドアをノックして良いのか、迷ってしまった。
しかし、先程の彼女の言葉を思い出し、一室だけ贅沢にも木製のドアに右手の甲を掛けた。
しかし、自分はそのドアを開けた瞬間に固まってしまった。驚きというよりも前に、疑問が、そしてなによりも美しいと思ってしまった。
彼女は自分に向かって微笑んでいた。か細い体をひしと抱きしめて、今にも泣きそうな目をしながら、自分を見て母を見つけた赤子のように頼りなく、すがるように微笑んでいた。
そして次に、彼女はなぜそのような顔をしたのか、という疑問が湧いてきた。
先の戦闘の時の音を、この艦の急機動を経験して恐怖を覚えたのだろうか。それとも、東京から脱出するときのことを思いだしてしまったのだろうか。それとも、先の戦闘で彼女をこの部屋に置いていってしまったことだろうか。
人のこんな顔を見るのは初めてで、しかも彼女がアリシア・アースリア・ルイーズであるということ、そしてアリシア・アシュリーであることが、自分をさらに動揺させてしまった。
「イオリさん……」
「は、はい」
震えた、小さい彼女の声に、上ずった声が出てしまう。
「っ、怖かった。怖かったです」
そう言って、彼女は自分の胸に飛び込んできた。その衝撃は軽かったが、なぜか自分はよろめいて後ずさってしまった。
「ひ、姫殿下……」
「私、怖かった。今までさっきまで眠ってて。その間にあなたたちは命をかけて戦っていたのに、私はそんなことも知らないで……。私、何も知らないで、何もできないで死んでたかもしれないって思うと、すごく怖くて……私、私、何もできないただの少女なんだって」
それは嗚咽混じりに、悲痛が混じった告解だった。
目の前にいるのは、気丈で、上品で、誇り高い王女様ではない。ただの、初めて見た戦闘に、初めて感じた本物の死の色香に怯えた、ただの少女でしかなかった。
いつもの印象と違う。だからこそ、今の自分はひたすらに困惑して声をかけられない。何か言わなくてはと思っても、外を向いた手の先が開いては握ることを繰り返すことしかできない。
自分の周りにはこの程度で泣く人間など、こんなに誰かにすがりついてくる人間などいなかった。
だから、彼女の弱さに困惑してしまう。当たり前の人間が持つ、当たり前の感情に、どうしていいのか分からない。
「こ、怖いのは……普通の、ことです」
なぜか緊張して声が上ずる。上手く言葉を引き出すことができない。英語という言語はここまで難しかっただろうか。
「でも、アマギさんは、あの時も怖がってなんかいませんでした……一人で敵の戦車に乗り移って……」
そう言って彼女はうつむく。東京から脱出する時、敵のGM3スパイダーの改造車に乗り移ってハッチの隙間から手榴弾を投げ込んだことを言っているのだろう。あれは、並みの兵士でも難しい。まず、両方弾が切れていたとは言え、乗り移れるほど敵の車両に接近することは恐怖心が抑え込むはずだ。
だが、自分がいるのはファントム大隊。世界から選りすぐられた兵士という自負が、培ってきた技術が、感覚が、度胸があるからこそできた。
元々、無いような生だ。あれくらいの無茶は何も考えないでできるのだろう。
だけど、今は目の前の彼女のために嘘をつくことにした。
「自分も、怖かったです」
「え……?」
彼女が潤んだ目で問うように見上げてくる。
「あれは、いつでもできることじゃありません。怖いですから」
怖いなどという言葉、ここにいる万人が聞いた瞬間に、自分を殴って居ただろう。だけど、彼女はここの人間では無い。外の人間は方便好きだと、アデルが言っていた。
「あれは、任務がありましたから」
「任務……」
「ええ、姫殿下、つまりあなたを護衛するという任務がありましたから。目の前の脅威は取り除くのが、自分に与えられた、任務です」
そう言うと、彼女はしばらく顔をうつむかせていた。それから、キッと自分を見上げる。
「任務だから、怖くても大丈夫だなんて、言わないでください」
そう、彼女は口を曲げながら言う。
強いお方だ、と素直にそう思った。さっきまで怖くて泣いていた少女は一瞬で吹き飛び、今の彼女は、どちらかと言えば気高い少女のようだった。
「アマギさんの命は、任務なんかで決められていいはずがありません」
「自分は、軍人ですから……」
「いいえ、あなたは人間なの。私は戦士を人間以下に扱いません」
「やめてください、姫様……」
不思議な少女だ。さっきまで泣いていたのに、今度はこちらが説教されている。やはり彼女は強い。気高くて、優しい。
なのに、真実を知っていて、しかもそれではつまらないからとそれを黙って自分を偽り、それに固執して彼女の言葉を方便で覆い潰そうとしている。そんな自分に嫌悪するとともに、彼女といる世界がはっきりと違うことを深く感じる。
「その姫という呼び方もやめてください。私はアリシアです。そう呼んでください。前にも言いました」
無理だ。できない。あなたと自分とでは住む世界が違いすぎる。交わってはいけない。そうしたら、両方の世界が壊れてしまう。
「ここには友人がいません。せめて、あなただけでも私の友人でいてください……お願いですから」
彼女は再び自分の胸に顔を預けていた。その表情は分からないが、その小さい肩を握ってやらなければ、その俯いた顔を上げてあげなければならない。そう、思った。
だけど、彼女は英国王室の王女で、自分はただの兵士。過度な交流は許されるはずもない。
だから、せめてこれくらいのことはしてあげなければいけないのだろう。
「分かりました……アシュリーさん」
「──! はい……ありがとう、ございます」
そう言って彼女は顔を上げて、笑った。この部屋に来た時とは違って、白百合のような高潔な少女の笑顔だった。




