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タイル工が異世界転生して鏝一本で世界の崩壊を防ぎ、現場に帰ってきた話  作者: もしものべりすと


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第一章 替えの利く手元

足場の上、午前六時半。


 コテを握る指の腹に、コンクリートの冷たさが滲んだ。


「お前なんざ、明日にでも替えが来るんだよ」


 番頭の権藤の声が、また背中を打つ。


 俺は何も答えなかった。答えたところで、口論にしかならない。


 タイル工四年目。石田拓海、二十八歳。


 今日もまたいつもの現場の朝だった。


 権藤は俺たち職人を見下している。本人は鏝を握ったことすら、ろくにない。書類を書いて、写真を撮って、それで現場を「仕切っている」つもりでいる男だ。


 俺はモルタル袋を肩に担ぎ直し、足場の梯子を昇った。


 今日の作業は外壁タイルの打診検査と、剥離箇所の補修。地味な仕事だ。剣も魔法もない、ただの壁仕事。


 でも俺はこの仕事が嫌いじゃなかった。


 打診ハンマーを腰から抜く。


 壁面を、コロ、コロ、と転がす。


 澄んだ高音が連続する間に、ふと濁った音が混じる。


 ポコ。


「ここ、浮いてる」


 俺は無意識に呟いた。


 チョークで印をつけ、ポケットから手のひらサイズのノートを取り出す。


 四年前、見習いの時に始めた癖だ。


 日付、現場名、位置、音の種類、深さの推定。


 誰に頼まれたわけでもない。ただ自分の耳が拾った音を、書き留めておきたかった。


「拓海、何やってんだ」


 下から権藤の声が飛んできた。


「打診です」


「全部叩いてたら日が暮れんだろうが。だいたい目視でわかんだろ、剥離なんて。要領よくやれ、要領よく」


 俺は黙って手を止めなかった。


 目視でわかる剥離は、もう剥がれかけているということだ。


 本当に怖いのは、表面にひびもないのに、中身だけ浮いている奴。


 あれは、ある日突然塊で落ちる。


 高所から人の頭の上に。


「おい聞いてんのか、拓海!」


「……すみません」


 俺は曖昧に頷いて、壁から少し離れた。


 ノートをポケットに戻す。


 権藤は舌打ちして、現場事務所の方へ戻っていった。


 今朝、職長から聞いた話だと、権藤は最近、別の現場で施工写真の使い回しをしているらしいと噂になっている。


 打診検査の写真を、過去の現場のものとすり替えて、検査を実際にはやらないで報告書を上げている、と。


 本当だとしたら、剥離が見逃されたまま、人が住む建物の壁になる。


 いつか、誰かが死ぬ。


 俺はそう思っているが、立場上、口に出すわけにはいかない。


 仕事を干される。


 俺は鏝でモルタルを掬い、欠損部分を埋め始めた。


 水湿しは朝のうちに済ませてある。下地はちょうどいい湿り気だ。


 ドライアウトは起こさない。可使時間は、あと四十分。


 集中する。


 手だけが動く。


 頭は、職人の手に任せている時、不思議と静かになる。


 昼休み、俺は足場の隅で弁当を広げていた。


 飯を口に運びながら、ふと空を見上げる。


 春先の薄曇り。


 風がゆるく流れていて、現場の砂埃を遠くへ運んでいた。


「拓海さんよ」


 隣に来たのは、二回り上のベテラン職人の田島さんだ。


「お前の打診ノート、いいな」


「いや、ただの癖ですよ」


「癖でも、やる奴とやらない奴がいる。お前のは、貯まってる」


 田島さんは俺の手元を覗き込む。


「それ、十年続けたらな、目で見えないものが見えるようになる」


「そうですかね」


「そうなんだよ」


 田島さんは煙草の煙を細く吐いた。


「番頭にバカにされても、続けろ」


 俺は何も言わず頷いた。


 昼休みが終わって、俺は再び足場に戻った。


 午後の作業は、外壁の上層部分の打診。


 位置的に、ちょうど建物の角だ。出隅の役物やくものタイルの納まりを確認しながら、慎重に進めていく。


 その、最中だった。


 ぐらり。


 足場が、揺れた。


「うわっ」


 反射的に手すりを掴もうとしたが、その手すりが、ない。


 昨日、別班の作業で外したまま、戻されていない。


 権藤が「効率」と言って、戻させなかったのだ。


 体が、宙に投げ出された。


 地面が遠かった。


 不思議と、痛みは予想していなかった。


 ただ思った。


「ああ、俺の手のノート、まだ書ききってないな」


 その間抜けな思いが、最後だった。


 視界が、白く落ちた。




 ……。


 誰かが、俺の手を握っている。


 細い、指だった。


 まぶたを開けると、フレスコ画の天井が見えた。


 知らない天井だ。


 現場じゃない。


 病院でもない。


 古い、石造りの天井に、女神らしき絵が描かれていた。


「目を覚まされた」


 声がした。


 女の声だ。


 顔を、ゆっくり横に向ける。


 白い祭服に、銀色の髪の少女が、俺の手を握って、泣いていた。


「ああ、神よ……ありがとうございます」


 涙ぐむ少女に、俺は声を絞り出した。


「……あんた、誰」


 少女は、震える唇で、こう言った。


目地メジが、腐っているのです」


 俺は、聞き間違えたかと思った。


 だが彼女の口は、確かにそう動いていた。


 目地が、腐っている。


 俺の業界用語が、なぜ、こんな知らない天井の下で、聞こえるのか。


「あなたが、最後の壁の守人まもりびとなのですか」


 少女は俺の手を、両手で握り直した。


 その指は冷たくて震えていた。

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