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68.2/26 ボルダリング

もうそろそろ仕事も終わりにしようかという時間帯。

仕事も一区切りついて、次の仕事を確認しているとメッセンジャーが鳴った。

誰だろうと確認すればバイロンからだ。


「今なら、ボルダリング六人分予約取れそうだぞ」


この前のバスケの時に、みんなでやってみたいねと話していたことを覚えてくれていたんだろう。

それがなんとも嬉しくて頬が緩む。


「うまくできないかもだけど、もちろん参加で!」


返事と同時に予約も取って、運動着を持ってきていない私は、例のごとくストレッチパンツに着替えて待ち合わせ場所に向かった。



みんなで向かったボルダリングの施設はスポーツエリアから少しだけ離れた所にあった。

カラフルな突起が壁一面にデコボコと設置され、下には厚いマットが敷かれてある。見上げれば高い天上の上すれすれまで突起が続いていて、思っていたよりも高い。

垂直な壁もあれば、前後に傾いた壁もある。

というか、手前に傾いた壁なんて、どうやって体支えるの? 落ちるじゃん。

そんな素人丸出しな考えで頭がいっぱいになる。


「おぉ、思ったより本格的だな。」

「やりごたえありそうだ。」


バイロンとセルヒオはそんな余裕ある会話をしていて、全然怖がってはないようだ。

他の三人もゆったり会話をしていて、怖気付いているのはどうやら私だけのようだ。


「ねぇ、高くない? 怖いの私だけ?」

「まぁマットもあるし、命綱なして登れる高さってことだから、大丈夫でしょ。」


笑顔で応えるマリナに、「いや命綱なしでケガしたらどうなるの?」とか「そんなこと言っても怖いって」とか、場の空気を盛り下げる言葉をわざわざ返すのはやめて、私は曖昧に微笑んだ。


そうしているうちに、インストラクターの方が来て、初心者向けの説明から話始めてくれた。


同じ色の突起(ホールド)だけを使って、スタートのホールドからゴールのホールドまで登る。

基本は三点支持。両手足のうち、一つだけ離して、他の三つは壁から離さない。

ホールドを握る際には手のひら全体で。

動きの基準は足が先、手があと。

ホールドにはべったり足を乗せずに、つま先でバランスを取る。


他にも色々と説明してくれていたけど、基本はこれくらいのようだ。


「経験者の方はいらっしゃいますか?」


インストラクターさんの質問に、バイロンとセルヒオが手を上げた。


「何回かやったことがあります。」

「ほどほどに経験者です。」


「では、お二人から」とインストラクターさんが言って、使うホールドの色を指定した。

すると、二人がそろって無言になり、壁を見つめ始めた。


「え、どうしたの?」

「あ〜どう登るか頭で考えてるんだよ。」


そう答えてまた壁を見つめる二人を待っていると、セルヒオの方が先に「いけます」と返事をした。


「では、こちらのホールドからスタートです。」


インストラクターさんのゴーサインに、セルヒオは手足を突起に乗せて、一つのホールドを握った。

グンッと大きく伸びたかと思うと蜘蛛のように小さくなり、またグンッと伸びて次のホールドを掴む。

スルスルとあまり迷うこともなく、天井に向かっていくのはすごいとしか言いようがない。

大した時間もかからずに、彼にとってはとても短かったであろう高さのゴールを掴んだ。


「はい、お見事ですね。」


インストラクターさんがそういうのを待って、途中まで降りてきたセルヒオはポンッと軽く壁を蹴って地上に飛び降りてきた。


「すごいよ、セルヒオ!」

「早かったね!」


私とマリナがそう言って褒める。

バイロン含めて他の人も手を叩いているから、やっぱり上手いんだろう。


「じゃあ次は俺だな。」


バイロンが名乗り出て、スタートのホールドを握った。

セルヒオ程ではないけれど、それでもスムーズなスピードで上へ上へと登っていく。体格がいいバイロンがやっている後ろ姿はなんだか様になる。

みんなで見守っていると、そう時間もかからずに登りきった。


「わぁぁ!」


セルヒオの時と同じように拍手が起きて、バイロンも軽々と下に降りてきた。


「久々にやったら、腕が痛いわ。」


バイロンが手首をぶらぶら揺らしながら、首を回した。


「いや~すごかったよ。後ろ姿がかっこよかった!」

「お? 前から見てもいい男だろうがよ。」

「あはは! そうだね、間違いない。」


そんな軽口を叩く余裕がこの時の私にはあった。

その後にウィリアム、マリナ、アマンディーヌ、私の未経験組がチャレンジすることになった。


「では、初心者向けのホールドで行きましょう。」


インストラクターさんがさっきとは違う色のホールドを指定した。

「右足がここ、左手がここで⋯⋯」と先ほどの経験者組とは違って丁寧に教えてくれる。

まずはウィリアムから登り、迷い迷いではあるものの、順調に上まで登りきった。


「降りるときのほうが、見えなくて怖いね。」


下に降りながらそう言って、それでもスムーズに降りてきた。

続いたマリナ、アマンディーヌも、「右手をその斜め右上のホールドに⋯⋯」とアドバイスを時折受けながらも、なんとか登って降りてきた。


そして、ついに私の番が来た。

壁の前に立つと、インストラクターさんがさっきの三人の時と同じように丁寧に教えてくれた。


「はい、まずは右手をこちらに。右足はその下、左手はもう少し上ですね〜。そうそう、いいですよ!」

「こ、こうですか?」

「はい、バッチリです!」


言われたとおりに手足を配置して、なんとかスタートのポーズが完成した。

よし。ここまでは順調。

先ほどの三人のように、軽やかに登る自分を想像する。もちろん、セルヒオやバイロンのような経験者の動きは望むべくもないけれど、せめてスムーズに⋯⋯。

いや、今は余計なことを考えるのはやめよう。

目の前のホールドに集中だ。


まずは左足を次のホールドへ。

お腹側から壁を覗き込むようにして、足を上げる。つま先がうまく引っかかったのを確認してから、今度は右足を動かした。

そうすると、壁にひれ伏すような姿勢になる。

……なんだか、ものすごく低姿勢だ。

けれど、今は格好なんて気にしていられない。


「はい、そうしたら足を伸ばして立ち上がりましょう! 右腕を伸ばしますよ〜。」


インストラクターさんの声に従って、よいしょ、と足を伸ばそうとする。

ただ立ち上がるだけ。

ただ、それだけのはずなのに。


「んんん……っ!」


ふくらはぎの裏側が、ぷるぷると震えた。

つま先しかホールドにかかっていないので、足を伸ばして体を持ち上げるのが思いのほか難しい。地上なら何でもない動作なのに、壁に張りついた状態だと、ほんの少し体重を移動させるだけでも一苦労だ。


「が、頑張れ、私……!」


誰に言うでもなく、自分を励ます。

左手で次のホールドをつかみ、今度は右足から次のホールドへ。足の位置を確かめながら、少しずつ体を上へと運んでいく。

一つ進んだ。

もう一つ進んだ。

おお、意外といけるのでは?

そんな気持ちが芽生え始めたころ、ようやく中腹あたりまでたどり着いた。

そこで、ふと下が気になった。どれくらい登れたのだろう。軽い気持ちで振り返ってみる。


「……おぉ⋯⋯。」


思っていたよりも、ずっと高かった。

下には、私を見上げているみんなの姿が見える。もちろん、落ちたところでマットがあるし、スタッフもいる。危険がないように配慮されているのはわかっている。

それでも、実際に壁に張りついて下を見てみると、話は別だった。


「……結構怖いな、これ。」


思わず本音が漏れる。

さっきまで、次のホールドに手が届くかどうかで頭がいっぱいだった。高さなんて気にする余裕もなかったのだ。

それが、少し登れた途端にこれである。

人間、余計なことを考える余裕ができると、ろくなことを考えない。


私は慌てて前を向き直した。

よし。下を見るのはやめよう。

次のホールドをつかんで、さらに上へ。

右腕を伸ばし、目標のホールドに手を伸ばす。


……伸ばす。

……もうちょっと。

指先が、かすかに触れた。

けれど、つかめない。


「あれ?」


もう一度、腕を伸ばす。

やっぱり、届かない。


「……あれ? 届かないんだけど?」


指先は触れているのだ。ほんの少し、あと数センチというところまで来ている。なのに、手のひらでしっかりつかむには足りない。

腕をいっぱいに伸ばしてみる。

背伸びをするように体を伸ばしてみる。

それでも、届かない。


「え? ……え!?」


どういうことだ。

さっきまでは順調だったのに。

世界基準だからだろうか。それとも、私の腕が短すぎるのだろうか。

いや、さすがにボルダリングの壁が世界中の人の腕の長さを考慮せずに作られているとは思いたくない。でも、目の前のホールドは、どう考えても私に厳しい。

必死に腕を伸ばす。

あと少し。

本当に、あと少しなのに!


「え、ちょっと待って、届かない……!」


地上なら、つま先立ちでもすれば届きそうな距離だ。けれど、今の私は壁に張りついている。足を動かせば体勢が崩れそうだし、無理に体を伸ばすのも怖い。

どうすればいいのだろう。

一度戻る?

いや、戻るにしても、どこに足を置けばいい?

そもそも、ここからどうやって戻るんだ?

考えれば考えるほど、頭の中が混乱してくる。


「はーい、掴むホールドとは逆側を向いて腕を伸ばしてみましょう〜!」


そこへ、下からインストラクターさんの声が届いた。

……逆側?

一瞬、何を言われたのかわからなかった。

今、右手でつかもうとしているホールドがある。なら、右側を向いて手を伸ばすのではないのだろうか。

それなのに、逆側?

正直、よくわからない。

けれど、下から見ているインストラクターさんには、私の手が届いていないことも、私がどういう姿勢で困っているのかも見えているはずだ。

ここは素直に従おう。

私は壁に張りついたまま、体の向きを変えた。

左側を向いて、右腕を伸ばす。

すると。


「あっ!」


さっきまで指先しか触れなかったホールドに、手がかかった。

えっ、嘘!

私は慌てて右側を振り返り、ちゃんとつかめているか確認した。

つかめている。

指先だけではなく、ちゃんと手がかかっている!


「届いた〜!」


思わず叫んだ。


「はい、いいですよ〜! あとちょっとですからね〜! 頑張りましょ〜!」


インストラクターさんの明るい声が響く。


「サクラ、頑張れ!」

「あとちょっと!」


下からみんなの声も飛んできた。

振り返って確認したい気持ちはあったけれど、今度こそ下を見るのは我慢した。

せっかくつかめたのだ。ここで落ちるわけにはいかない。

私は右手に力を込め、次のホールドを探した。

あとちょっと。

あとちょっとでゴールだ。

そう自分に言い聞かせながら、震える足を伸ばす。つま先をホールドにかけ直し、体を持ち上げる。手を伸ばして、つかむ。足を動かして、また上へ。

腕も足も、さっきよりずっと重く感じた。

ふくらはぎは相変わらずぷるぷるしているし、手のひらにも力が入る。けれど、下から聞こえる応援が、不思議ともうひと踏ん張りする力をくれた。


「そうです、その調子〜!」


インストラクターさんの声。


「いけるぞ、サクラ!」


バイロンの声。


「もう少しよ!」


アマンディーヌとマリナの声も聞こえる。

セルヒオも何か言っている気がするけれど、今は聞き取る余裕がない。

とにかく、上へ。

一つ、また一つ。

そして、ついに。

ゴールのホールドに手が届いた。

両手でしっかりとつかんだ瞬間、インストラクターさんの声が響く。


「はい、ゴールです! おめでとうございます〜!」

「やったー!!」 


思いきり叫んだ。

登れた!

私、ちゃんと最後まで登れた!

途中で届かないと大騒ぎしたし、足はずっと震えていたし、決して格好よく登れたわけではない。

それでも、ゴールまでたどり着いたのだ。

十分すごい。少なくとも、今の私にとっては! 


「サクラ、やったな!」

「おめでとう!」


下から拍手が聞こえてくる。

私はゴールのホールドにつかまったまま、思わず笑顔になった。

途中でどうなることかと思った。

でも、楽しかった!

……まあ、今はそれ以上に、早く地上に戻って足を休ませたい気持ちのほうが強いけれど。


「はーい、それではゆっくり降りましょうね〜!」 


インストラクターさんに促され、私はようやく帰り道のことを考え始めた。

登ることばかり考えていて、降りることをすっかり忘れていた。

落ちる恐怖と戦いながら、全色のホールドを使ってカサカサとした動きで地上に降り立った私は、体のこわばりを感じてへたり込んだ。


「頑張ってたな!」


余裕そうにそう言って笑ったセルヒオが、次は前に倒れた壁をバイロンと共に登ろうとしているのを見ながら、私は明日の筋肉痛に震えていた。


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