49.2/7 引きこもりデー
緩やかな揺れの中、薄く目を開けた。
カーテンの隙間から朝の柔らかな日の光が差し込んでいる。
ぼんやりと、その光の筋を目で追う。
ゆっくりと揺れるそれは、水の上にいることを思い出させるようで、どこか現実感が薄い。
ああ、今日は雨じゃないんだな。
そんなことを思いながら、もう一度目を閉じた。
波に合わせて身体がふわりと揺れる。
ベッドに沈み込むような心地よさに、意識はあっさりと遠のいた。
次に目を開けた時には、お昼前の燦々とした光が外を照らしていた。
さっきとは違う、しっかりとした明るさ。
カーテンの隙間から入り込む光は、もはや「朝」ではなく完全に「昼」だ。
まだ起きたくないような気もする。もう起きなきゃなという気もする。
ガサゴソと枕元からスマホを探し出すと、もう11時になろうという時間だった。
⋯⋯ちょっとお腹すいたな。
空腹に負けて、起きようと思った私は、そのままスマホをポチポチと触り始めた。
そして気づけば小一時間。
やってしまった、と思わなくはない。
すごく無駄な時間を使ってしまった気もする。
けれど、画面を閉じて、ぼんやりと天井を見上げたあとで、ふっと肩の力が抜けた。
『……まあ、いっか。』
船に乗って、もう一ヶ月半は過ぎた。
その間、ごはんを食べるだけでも服を整えて、顔を整えて、人と顔を合わせて。
楽しいことばかりだったけれど、知らないうちに、少しだけ気を張っていたのかもしれない。
仕事も、今日はしなくて大丈夫なように終わらせてある。
誰かと約束もしていない。
寝るもよし。
スマホ三昧もよし。
そう。今日は引きこもりデーにすることにしたのだ。
布団の中でぐーっと伸びをする。
固まっていた身体がゆっくりとほどけていく感じが気持ちいい。
……よし。
小さく気合いを入れて、もそもそと布団から這い出した。
床に足をつけると、ひんやりとした感触が伝わってくる。
部屋は静かで、遠くにかすかに聞こえるのは船の低い振動音だけ。
外の明るさとは対照的に、この空間は少しだけ切り離されたみたいに落ち着いている。
ベッド下に押し込んでいる食品箱を開けた。
カサカサと袋の音がする。
『何にしよっかな!』
覗き込みながら、ひとつひとつ確認していく。
お菓子、インスタント味噌汁、ちょっとした保存食。
どれも便利だけど、今日はなんとなく、ちゃんと温かいものが食べたい気分だった。
その中から取り出したのは、フリーズドライの鮭雑炊。
『これにしよ。』
軽く頷いて、袋を開け、無理やりコーヒーカップに押し込んだ。
ケトルでお湯を沸かしながら、ぼんやりと窓の方を見る。
カーテンの隙間から見える海は、相変わらず穏やかで、きらきらと光っていた。
今日は誰かに会う予定もなく、出かける予定も、仕事もない。
その事実が、じんわりと心に染みる。
ポコポコとお湯が沸く音がして、我に返る。
こぼさないように、入れすぎないように、熱いお湯を注ぐ。
ふわっと、優しい出汁の香りが立ち上った。
いい匂い!
思わず頬がゆるむ。
小さなスプーンで軽くかき混ぜて、少しだけ待つ。
その待つ時間すら、今日はなんだかゆったりしていて心地いい。
出来上がった雑炊を持って、ソファに腰を下ろす。
湯気の立つそれを一口すくって、口に運ぶ。
『あったかぁい。』
じんわりと身体に染みていく。
派手さはないけど、こういう優しい味が、今はちょうどよかった。
スプーンを口に運びながら、私は小さく息をついた。
『…こういう日も、いいな。』
ゆっくりとした時間が、静かに流れていった。
汁を飲み干す。
ほっと息をついたものの、ふとした物足りなさが残る。
……ちょっと足りないな。
まだご飯物はある。
でも、さっきの優しい味とは違う、もっとジャンクで、わかりやすく満たしてくれるものが欲しい。
少し考えて──
バリッ!
いい音をさせて、ポテチの袋を開けた。
『今日はいいよね〜』
自分に言い訳するように呟きながら、冷蔵庫を開ける。
ひんやりとした空気の中から取り出したのは、最近ずっと我慢していたコーラ。
プシュッ、と小気味いい音。
炭酸の弾ける気配に、自然と口元が緩む。
ベッドに戻って、袋に手を突っ込む。
パリッパリパリ!
ザクザクとした噛み応え。
塩気と油のコクが、一気に口の中に広がる。
あぁ、これこれ…!
さっきの雑炊とは真逆の、背徳的な満足感。
コーラで流し込めば、シュワッとした刺激がさらにそれを引き立てる。
完全に、だらけモードだ。
スマホを触ろうとして、ふと手を止める。
どうせなら、もう少し何もしない時間を楽しみたくなって、手元のテレビのリモコンを取り上げた。
ピッ。
画面が点いて、船内専用のチャンネルが映し出される。
オリジナル番組や、観光案内、イベントのダイジェストなんかが流れている。
適当にチャンネルを変えていく。
『んー……色々あるんだなぁ……』
サクサクとポテチをつまみながら、気のない手つきでボタンを押していると、ふと、手が止まった。
何事!?
画面に映っているのは
『……私?』
間違いなく、自分の顔だった。
思わず目を見開く。
リモコンを握ったまま、動きが止まる。
画面はスライドショーのように、ぱっ、ぱっ、と切り替わっていく。
どの写真も、見覚えがある。
「これ……ディナーのときの……」
少し緊張しながら料理を食べている自分。
次に映ったのは、みんなで並んで撮ってもらった記念写真。
その次は
「うわ、これ船長さんと!」
きっちりした姿勢で並んでいる写真に、思わず苦笑いが漏れる。
状況がよくわからないまま、慌てて画面の下に視線を落とす。
小さく表示されている説明文を読む。
「船内カメラマンが撮影した写真を、AIで分類し、個人に合わせて放映しています。詳細はメインカウンターまでお問い合わせください。ご購入お待ちしています!」
……なるほど……。
一応納得はする。するけど!
『いや、急に自分出てくるのびっくりするって!』
誰に言うでもなくツッコミを入れる。
でも、画面から目は離せない。
自分が知らない間に撮られていた写真も混ざっていた。
誰かと笑っている横顔。
食べ物を前に、ちょっと嬉しそうにしている瞬間。
大口で笑っている楽しそうな私。
自分では気づかなかった表情が、そこにはあった。
楽しそうで、ちょっと無防備で。
ちゃんと、この旅を楽しんでいる顔。
ポテチをつまむ手が、少しだけゆっくりになる。
『……なんか、いいな……』
コーラを一口飲みながら、ぼんやりと画面を見つめる。
次々に流れていく写真は、どれもこの一ヶ月半の欠片だ。
そのひとつひとつが、こうして形になって残っている。
……私、割引き券持ってたな。いくらなんだろ?
そんなことを考えながら、また一枚、また一枚と眺めていく。
自然体の写真が多くて、見ていて楽しい。
1回転したスライドショーは、また同じ写真を映し始めた。
中には恋人のツーショットの隅にいるだけで映された写真や、どこにいるかすら見つけられなかった写真もあった。
私もどこかのお部屋で知らない人の写真にお邪魔しているのかも知れないな。
⋯なんかやだな。
ふっと笑って、テレビを消した。
ベッドへまた戻り、お布団へ潜り込む。
ぼんやりと天井を見つめながら、さっきまでのスライドショーの余韻を引きずるように、クルーズの旅を思い返していた。
笑っている自分。
誰かと並んでいる自分。
その中に、自然と紛れ込んでくるひとつの姿。
──セルヒオ。
プールでふざけたときの、あの距離の近さ。
シャグビアでクジャを開いたとき、重なった手の温かさ。
「運搬」のときに、支えるように引き寄せられた腕の力強さ。
それから、ランタンに書いていた「恋人が欲しい」という願い事まで。
『セルヒオって、私のこと⋯』
そこまで口に出して
『キャーッ!』
思わず声を上げて、うつ伏せに倒れ込む。
バタバタと足を動かして、枕に顔を押し付ける。
『なに言ってんの私ぃ……!』
耳まで熱くなっているのが自分でもわかる。
でも、止まらない。
整った顔。
適度に筋肉のついた体。
少し低くて落ち着いた声で呼ばれる「サクラ」。
ふとしたときに見せる、やわらかい笑顔。
もし付き合ったら、なんて。
一緒に街を歩いて、くだらないことで笑って、
写真を撮って、またこうして並んで⋯
そこまで考えて、また枕に顔を押し付ける。
『むりむりむり……!』
しばらく、ひとりでじたばたして。
ようやく落ち着いて、ゆっくりと仰向けに戻る。
天井が、さっきと同じようにそこにある。
『……はぁ~ああ。』
現実に戻るために大きく息を吐いた。
わかってる。
たぶん、セルヒオにそんな気はない。
距離が近いのは、きっとあれだ。
外国人特有の、あのフレンドリーな距離感。
特別扱いされているわけじゃない。
決定的な好意を感じたことは、一度もない。
これで勘違いして、もし告白なんてしたら⋯
「ごめん、友達にしか見てない」
頭の中で、やけにリアルな声が再生される。
……うん、言いそう……。
苦笑いが漏れる。
仮に、もし。
万が一、OKされたとしても。
遠距離すぎる。
簡単に会える距離じゃない。
それに、
『言って、まだ、全然知らないしなぁ……』
ぽつりとこぼれる本音。
好きかもしれない、という気持ちはあっても、
その先を支えられるほどの確かな何かは、まだない。
付き合ったら。もう30歳だ。
その先に結婚を考えてしまう。
それが悪いことだとは思わないけど、軽く踏み出せる話でもない。
もし本当にそうなったら、
自分は彼の国に行けるのか。
今の生活を手放せるのか。
……無理じゃないけど……簡単じゃないよね……。
はぁ〜……と、もう一度息を吐いた。
静かな部屋に、その音だけが落ちる。
でも。
セルヒオだけじゃない。
マリナも。
アマンディーヌも。
バイロンも。
ウィリアムも。
この船で出会った人たちは、きっとクルーズが終われば、それぞれの場所に帰っていく。
今みたいに、当たり前に顔を合わせて、
一緒にごはんを食べて、笑って、過ごすことはなくなる。
連絡は、するだろうけど、年に何回かメッセージを送り合って、タイミングが合えば、数年に一度会えたらいい方。
それでも、それはすごく恵まれた縁なんだろう。
『……寂しいなぁ……。』
ぽつりと、本音がこぼれる。
天井を見つめたまま、手を伸ばしてみる。
当然、何も掴めない。
この時間は、ここだけのものだ。
特別で、楽しくて、
でも、ずっと続くわけじゃない。
だからこそ、こんなに大切で、少しだけ切ない。
『……今を楽しまないと、もったいないよね。』
自分に言い聞かせるように、小さく呟いた。
胸の奥にある、ふわふわした気持ちを抱えたまま、私はもう一度、目を閉じた。




