王妃との対面
平坦な街道を走り、いくつかの林を抜けた辺りで馬車は停まった。
おもむろにいずみが窓を覗くと、一点の曇りもない空を映す水鏡の湖と、そのほとりに佇む小さな城が目に入ってくる。
建てられてさほど年数は経っていないのか、乳白色の壁はまばゆく、とても真新しく見える。飾り気のない重厚感溢れる王城とはまったく正反対の、優美で温かみを感じる城だった。
ギィィ、と馬車の扉が開き、外の清々しい空気が入ってくる。少し肌寒さを感じたが、むしろ心地よかった。
先にイヴァンが馬車を降りたのを見計らい、いずみも後に続こうと腰を上げる。
と、目の前にイヴァンの大きな手が差し出され、思わずいずみは目を見張った。
(えっと……手を置けばいいのかしら?)
困惑しながら手を乗せると、イヴァンは面白げに口端を上げた。
「ナウムから、エレーナは何もない所でよく転ぶと聞いているぞ。気をつけて降りるんだ」
……ひどいわ水月。イヴァン様にそんなこと教えるなんて。
一気に顔を熱くしながら、いずみは水月を恨めしく思う。
きっと何か狙いがあって言っているのだろうが、そんな情けないところをイヴァンに知られたくなかった。
まさか他にも自分の情けないところを暴露されていたら……。
心の中で穴があったら入りたいと頭を抱えつつ、いずみはイヴァンの手を取って馬車から降りる。
外へ出ると、先にもう一台の馬車から降りたルカとトトが、こちらをジッと見つめていた。
トトはいつも通りのにこやかな顔――心なしか眼差しが普段よりも温かい。
そしてルカは、微笑みながら何か言いたげに目を細め、イヴァンに視線を送っていた。
ルカと目が合うと、イヴァンは一度こちらを見やる。
再び前を向きながら、小さなため息をついた。
「まったく……ルカの奴、後で俺をからかう気満々だな」
そう呟きながら歩き始め、ゆっくりと腕を下ろしていずみの手を離した。
ほのかな温もりが手の平から消えていく。
少しでも留めたくて、いずみは軽く手を握り込んだ。
城内へ入ると細身の侍女が出迎え、「どうぞこちらへ」と一行を奥へと案内してくれた。
美しく磨かれた大理石の床、壁に点々と飾られた風景画に新鮮な花々が生けられた花瓶……外観の清楚さを引き継いだ城内に、いずみの目は泳ぎそうになる。
が、いつの間にか背後についた初老の御者――変装したキリルの視線が気になり、見渡すことはできなかった。
突き当りの扉に辿りつくと、侍女が優しくノックした。
「王妃様、イヴァン様がご到着されました。そちらへお連れしても構いませんか?」
「ええ、大丈夫ですよ。お入りなさい」
扉の向こうから、物腰柔らかな声が聞こえてくる。トトたちから王妃は以前よりも弱ってきていると教えられていたが、その割には声に芯が通っていた。
先にイヴァンとルカが中へ入っていくのを見てから、トトがいずみに目配せして「じゃあ行こうか」と促す。
いずみは返事代わりに頷いてみせると、トトと並んで歩き出した。
大きな窓がいくつも並んだ部屋は、外の光をふんだんに取り入れ、明るく清々しい空気に満ちていた。
窓の向こうには手入れの行き届いた庭が広がり、ここから自由に行き来できるようになっていた。
トトが「あちらにいらっしゃるよ」と、左側を恭しく手で指し示す。
いずみが顔を向けると、そこには大きなベッドで上体を起こし、くつろぐ女性の姿があった。
長い髪を上で束ねた彼女は、少し頬がやつれているものの背筋はしゃんと伸び、その青く深みのある瞳からは生気が感じられた。
「母上、お加減はいかかですか?」
イヴァンがベッドの横に来て話しかけると、王妃は目に弧を描いてイヴァンを見上げた。
「ふふ……今日はいつになく気分が良いわ。だって、ずっとお礼を言いたかった人に会えるのですもの」
そう言って王妃はゆっくりと顔を前に向け直し、いずみに視線を定めた。
「いつも花束を作ってくれていたのは貴女かしら?」
穏やかに微笑むその顔は、気品がありながらも親しみを感じさせてくれる。
顔を合わせる度に息苦しく感じてしまうジェラルドとは真逆にいる人だった。
少し肩の力が抜けて、いずみは笑みを浮かべながら「はい」と頷く。
王妃はよりにこやかな顔になると、小さく手招きをした。
「もっと近くに来て、そこの椅子にお座りなさい。貴女の顔をよく見せて欲しいわ」
チラリと王妃が目配せすると、イヴァンは何も言わずに一歩下がる。そしていずみと目を合わせると短く頷いた。
求められるままにいずみは王妃の枕元に置かれた椅子まで行くと、「失礼します」と腰を下ろす。
遠目から見た王妃は若々しい印象だったが、間近になると目や口元の小ジワが分かり、美しい年の積み重ねが見受けられた。
王妃がわずかに体をこちらに向け、いずみの顔をジッと見つめた。
「今まで私のために花束を作ってくれて本当に感謝しているわ。貴女の花束にどれだけ心を慰められたことか……」
言いながら王妃は睫毛を伏せ、掛け布団の下にある己の足に視線を落とす。
トトの話では、十三年ほど前に馬上から落ちて骨折した際、その治療がうまくいかず骨が変形し、歩くことが困難になってしまったらしい。
いくら久遠の花でも、既に変わってしまった骨の形を元に戻すことはできない。自分のせいではないと分かっていても、いずみの胸は締め付けられた。
静かに瞼を閉じてひと息つくと、王妃は顔を上げて再び笑顔を見せた。