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1.新たな人生

 佐藤裕樹、37歳。


 独身。彼女なし。結婚歴なし。


 つまり童貞である。


 勤続二十一年。役職は無し。年収は同年代の平均より少し下だろうか。


 健康診断では毎年のように運動不足を指摘され、最近は腹も出てきた。鏡を見ると、頭頂部の薄さが気になったりもする。


 まあ、どこにでもいる中年男だ。


 少なくとも、裕樹自身はそう思っていた。


「佐藤さん、これ、今日中にお願いできます?」


 午後六時四十二分。


 帰り支度を始めたところで、後輩の男性社員に声をかけられた。


 差し出されたのは、そこそこの厚みがある資料の束だった。


「……これ、明日じゃ駄目?」


「すみません。部長が朝一番で確認したいそうで」


「ああ……そう」


「お願いします!」


 彼は申し訳なさそうに笑って、自分の席へ戻っていった。


 裕樹は資料を机に置き、椅子に座り直した。


 断ればよかった。


 別に今日中にやらなくてもいい仕事だ。部長だって、朝一番と言いながら実際に確認するのは昼過ぎだろう。


 それでも断れなかった。


 嫌な顔をされたくなかったし、仕事のできない人間だと思われるのも嫌だった。


 いや、違うな。


 単純に、断るのが面倒だったのだ。


「……はぁ」


 ため息をついて、パソコンに向き直る。


 こんなことを15年も繰り返してきた。


 若い頃は、それなりに夢もあった。


 仕事で成功して、結婚して、子供ができて。


 休日には家族でどこかへ出かける。


 そんな、ありふれた人生。


 けれど四十三歳になった今、裕樹の手元には何もなかった。


 いや、何もないというのは言い過ぎか。


 それなりの給料があり、雨風をしのげる部屋があり、休日には好きなゲームをしたり、アニメを観たりできる。


 飢えることもなければ、借金に追われているわけでもない。


 世の中には、もっと苦労している人間がいくらでもいるだろう。


 だから、自分は不幸なのだと声高に叫ぶ気にもなれなかった。


 ただ。


 この先もずっと、こんな毎日が続くのだろうか。


 そう考えると、ひどく気が滅入った。


     ◇


 午後九時十三分。


 ようやく会社を出ると、外は雨だった。


「……最悪だ」


 折り畳み傘を開き、駅へ向かう。


 腹が減った。


 帰りにコンビニで弁当でも買おう。


 いや、今日はスーパーの半額惣菜が残っているかもしれない。


 そんなことを考えながら歩いていると、スマートフォンが震えた。


 母親からだった。


『元気にしてる? たまには顔見せなさいね』


 裕樹は画面を眺め、少し迷ってから返信した。


『元気だよ。また今度帰る』


 送信。


 その「また今度」がいつになるのか、自分でもわからない。


 母親はもう60を過ぎている。


 いつまでも元気でいてくれるわけではない。


 わかっている。


 わかっているのに、実家に帰るのは少し億劫だった。


 結婚はどうするのか。


 いい人はいないのか。


 仕事は順調なのか。


 親に悪気がないことくらいわかっている。


 だからこそ、余計につらかった。


「……情けねえなぁ」


 思わず呟く。


 何が情けないのか。


 37歳にもなって独り身なことか。


 まともな出世もできていないことか。


 それとも、母親に会うことさえ面倒に感じている自分自身か。


 たぶん、全部だ。


 裕樹はスマートフォンをポケットにしまった。


 信号が赤に変わる。


 横断歩道の手前で立ち止まり、ぼんやりと車の流れを眺めた。


 そのときだった。


「――あっ!」


 甲高い声がした。


 顔を上げる。


 横断歩道の途中で、小さな子供が転んでいた。


 黄色い傘が路面を転がっている。


 5歳か、6歳くらいだろうか。


 子供は泣きながら立ち上がろうとしていた。


 そして、その向こうから。


 大型トラックが近づいていた。


「おい……」


 誰かが叫んだ。


 ブレーキの音が響く。


 タイヤが濡れた路面を滑る。


 裕樹は動けなかった。


 いや、動かなかった。


 危ない。


 そう思った。


 誰か助けろよ、とも思った。


 けれど、誰も動かない。


 当たり前だ。


 あんなところへ飛び出したら、自分まで轢かれるかもしれない。


 そんなの、怖いに決まっている。


 裕樹だって怖かった。


 だから、動くつもりなんてなかった。


 なかった、はずだった。


「……くそっ!」


 気づけば、足が動いていた。


 傘を投げ捨て、横断歩道へ飛び出す。


 靴が滑る。


 肺が痛い。


 こんなに全力で走ったのは何年ぶりだろう。


 子供がこちらを見た。


 泣きじゃくった顔。


 震える小さな身体。


 裕樹はその肩をつかみ、思い切り歩道へ押し出した。


 間に合った。


 そう思った瞬間。


 視界いっぱいに、白い光が広がった。


     ◇


 痛い。


 とにかく、痛かった。


 何が起きたのか、よくわからない。


 ただ、身体が動かない。


 冷たい雨が顔に当たっている。


 耳元で誰かが叫んでいた。


 救急車。


 誰か、救急車を。


 そんな言葉が聞こえる。


(……ああ)


 裕樹はぼんやりと思った。


(俺、轢かれたのか)


 妙に冷静だった。


 いや、頭がまともに働いていないだけかもしれない。


 動こうとすると、胸の奥に激痛が走った。


(痛え……!)


 息ができない。


 怖い。


 死ぬ。


 その言葉が頭に浮かんだ瞬間、全身が震えた。


(やだ)


(待ってくれ)


(死にたくない)


 さっきまで、自分の人生なんて大したものじゃないと思っていた。


 この先も同じ毎日が続くだけなら、別にいつ終わったって構わない。


 そんなことさえ考えたことがあった。


 なのに。


(……嫌だ)


 死にたくなかった。


 まだ読み終わっていない小説がある。


 楽しみにしていたゲームの発売日も近い。


 来月は有給を取って、どこかへ旅行に行こうと思っていた。


 母親にも、また今度帰ると連絡したばかりだ。


 どれも大したことじゃない。


 それでも。


(まだ、やりたいこと……あったじゃねえか)


 情けない。


 37年も生きてきて、死ぬ間際になってそんなことに気づくなんて。


 こんなことなら、もっと好きなことをすればよかった。


 もっと誰かと話せばよかった。


 好きだったあの子に、告白くらいしておけばよかった。


 仕事なんて、嫌なら辞めればよかった。


 失敗したって、別によかったじゃないか。


(……馬鹿だな、俺)


 視界がぼやけていく。


 少し離れたところで、子供の泣き声が聞こえた。


 どうやら無事らしい。


 よかった。


 それだけは、本当によかった。


(……でも)


 もう一度、息を吸おうとした。


 できなかった。


(俺だって……生きたかったよ)


 そして、何も見えなくなった。


     ◇


『――もう一度、生きたいか』


 声がした。


 男とも女ともつかない、不思議な声だった。


(……誰だ?)


 裕樹は目を開けようとした。


 しかし、目があるのかどうかもわからない。


 どこまでも暗い。


 身体の感覚もなかった。


『もう一度、生きることを望むか』


(……生きる?)


 先ほどの事故を思い出す。


 トラック。


 子供。


 あの、どうしようもない痛み。


(俺……死んだのか?)


 返事はなかった。


 代わりに、同じ問いが繰り返された。


『もう一度、生きたいか』


 裕樹は迷わなかった。


(生きたい)


 今度こそ。


(……生きたいです)


 しばらく沈黙が続いた。


『何を望む』


 裕樹は考えた。


 金。


 地位。


 若さ。


 容姿。


 欲しいものなら、いくらでもあった。


 けれど、それ以上に。


(……才能が欲しい)


 自分には何もなかった。


 少なくとも、そう思って生きてきた。


 誰かに誇れるようなものが、ひとつもなかった。


(何か一つでいいんです)


(誰にも負けないものが、欲しい)


『ならば、与えよう』


 暗闇の中に、淡い光が浮かんだ。


 文字だった。


 裕樹のよく知る、日本語の文字。


 ――付与能力。


 【剣術:SS】


(……剣術?)


 思わず首を傾げそうになった。


 いや、首があるのかもわからないが。


(SSって、あれか? ゲームとかでよくある……)


 何やら、とんでもなく強そうではある。


 だが、剣術?


 剣なんて、修学旅行で買った木刀くらいしか握ったことがない。


(いや、待ってください。剣術ってことは、異世界とか――)


 問いかけようとした瞬間、光が弾けた。


 意識が遠ざかる。


(ちょ、ちょっと待っ――)


     ◇


「……ん」


 鳥の鳴き声がした。


 頬に当たる、柔らかな風。


 草の匂い。


 裕樹はゆっくりと目を開けた。


 青い空が広がっていた。


「…………は?」


 身体を起こす。


 周囲には、どこまでも続く草原。


 遠くには森があり、その向こうには山々が見える。


 見覚えのない景色だった。


「……どこだよ、ここ」


 声が出た。


 妙に高い。


 いや、高いというより、若い。


 裕樹は自分の手を見た。


 細い。


 しわもない。


 腕をまくる。


 肌に張りがある。


 そして、何より。


「……腹、引っ込んでる」


 思わず腹を触った。


 あの忌々しい中年腹がない。


 身体が軽い。


 肩も腰も痛くない。


 立ち上がってみる。


 膝が鳴らない。


「……マジか」


 近くに、小さな川が流れていた。


 裕樹はそこへ駆け寄る。


 水面を覗き込んだ。


 そこに映っていたのは、見知らぬ少年だった。


 柔らかな栗色の髪。


 澄んだ青灰色の瞳。


 整った鼻筋。


 どこか中性的な、美しい顔立ち。


 どう見ても十代半ば。


「…………誰?」


 少年が同じように口を動かした。


「いや、俺か?」


 頬をつねる。


 痛い。


 夢じゃない。


 もう一度、水面を覗き込む。


「……結構、イケメンじゃねえか」


 思わずニヤけた。


「いやいやいや……マジかよ!」


 若い。


 しかも、めちゃくちゃ格好いい。


 これはあれか。


 異世界転生ってやつか。


 散々読んできた小説の、あの展開なのか。


 裕樹は思わず両手を握りしめた。


「……よっしゃ!」


 第二の人生。


 若返った身体。


 イケメン。


 そして、剣術SS。


 これだけ揃っていれば、今度こそ何とかなるんじゃないか。


 いや、何とかなるどころか。


(……もしかして、俺、無双できるんじゃね?)


 そう思った。


 思ってしまった。


 それから数秒後。


 裕樹は、ふと気づいた。


「…………ん?」


 周囲を見渡す。


 草原。


 森。


 川。


 それだけだ。


 人はいない。


 家もない。


 財布もない。


 スマートフォンもない。


 もちろん、食べ物もない。


「…………」


 腹が鳴った。


 ぐう、と。


「……いや」


 裕樹はもう一度、周囲を見渡した。


「……これ、どうすんの?」


 返事をする者はいなかった。


 こうして、佐藤裕樹の第二の人生が始まった。

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