第一話 花を見ない
失業した、と妻は思っている。
*
金曜の夜9時、玄関の鍵を回した。
「ただいま」
返事がない。
いつもなら廊下をスリッパの音が来て、鞄を受け取る手が伸びてくる。お疲れさま、の声もついてくる。
結婚したばかりの頃は、その足音が小走りだった。
今夜は廊下の明かりだけが、黙ってついていた。
「佳澄?」
奥のリビングから、返事の代わりに、誰かがスマホを置く音がした。
鞄を玄関の脇に置き、右手は背中に回したまま靴を脱ぐ。
包装紙を留めた輪ゴムが、指の関節に食いこんでいる。
記念日には花を買う。結婚してからの2年、一度も欠かしていない。
今日は記念日じゃない。それでも、記念日にしていい日だった。
同僚に飲みに誘われたのを断って、駅前の花屋に寄った。閉店間際で、店の人が残りの中から選んでくれた。
リビングのドアを開ける。
ソファに佳澄が座っていた。その横に結華が立っている。
「あ、帰ってきた」
言ったのは結華だった。佳澄は何も言わない。
結華は丈の短いジャケットを羽織ったまま、片方の脚に体重を預けていた。佳澄が昔、同じ売り場で働いていた相手で、うちには月に何度も来る。
テレビは消えていた。テーブルにはグラスもない。
二人とも、こっちを見ている。どちらも口を開かない。
「佳澄、これ」
背中から花を出した。秋の花を三種類、ざっくり束ねてある。
佳澄は花を見なかった。顔ごと、窓のほうへ向けた。
「へえ」
結華が鼻で笑う。
「やましいことがあると、男って花を買うのよね」
「花なんか買ってくる余裕、まだあるんだ」
この女は、会計のときに限ってスマホの電池が切れる。
「どういう意味だ」
「意味なんて、自分がいちばんわかってるでしょ」
「あんたに聞いてない。佳澄、何かあったのか」
佳澄がようやくこっちを向いた。目の縁が、少し赤い。
「会社で、人事があったでしょ」
「ああ。そのことなら――」
佳澄が立ち上がった。ニットのワンピースが、腰の線に沿ってすとんと落ちる。
その手が俺の手から花を取り、そのまま床へ落とした。
*
「隠してたでしょ」
「何を」
「失業したのよね。エルヴァント・ジャパンで、部がひとつ丸ごとなくなったって」
「半月も前から噂になってたのに、あなた、何も言わなかった」
「帰ってきても、スマホばっかり見て。様子がおかしいって、ずっと思ってた」
「仕事の連絡だ」
「そういうのも、全部嘘だったんじゃないの」
「結華が教えてくれなかったら、私、いつまで騙されてたの」
結華はスマホの画面に目を落としたまま言った。
「確かな筋よ。会社に友達がいるの」
画面を伏せて、また表に返す。俺が帰ってから、これで三度目だ。
「佳澄、聞いてくれ。実は今日――」
「聞かない」
「どうせ、心配させたくなかったとか言うんだから。そういうの、もういいの」
「そうじゃない。俺は」
「もういいって言ってるの」
佳澄はテーブルの下に手を入れた。
出てきたのは紙が二枚。上が離婚届で、下にホチキスで留めた数枚の束が重なっている。
束の表には、印刷の文字で『離婚協議書』とあった。
離婚届の妻の欄は、もう埋まっていた。証人の欄は空いている。
「証人は誰が書くんだ」
「そんなの、あとでどうにでもなるでしょ。今はあなたのサインの話」
「……冗談だろ」
「赤峰。冗談で、わざわざ紙まで用意すると思う?」
結華が先に答えた。
「失業した役立たずのくせに」
佳澄はペンのキャップを外し、離婚届の夫の欄の横に置いた。
言えば、この紙は引っ込むだろう。引っ込む紙なら、見ておきたかった。
俺はペンに手を伸ばさなかった。代わりに、ソファの向かいの椅子を引いた。
「座って話そう。理由を聞かせてくれ」
「座らない」
佳澄は立ったまま、腕を組んだ。
「理由なら、さっき言った。仕事がないの」
「仕事がないのは、離婚の理由になるのか」
「佳澄の口から聞きたい」
「なるわよ」
*
佳澄とは、取引先の人の紹介で知り合った。
半年付き合って結婚し、佳澄は仕事を辞めた。家のことは任せて、と言われて、俺はそのとおりにした。
「理由なんて決まってるでしょ」
答えたのは、また結華だった。
「稼ぎがなくなったら、佳澄をどうやって食べさせるの」
「次の仕事なら探す」
「探して、見つかるまで何か月? その間のローンは? 佳澄に我慢させるの?」
「私に、また働きに出ろって言うの?」
佳澄が結華の言葉に重ねた。
「結婚するとき、家にいていいって言ったのは、あなたじゃない」
「愛情でご飯は食べられないの。こういうのはね、損切りよ。早いほうがいいに決まってるでしょ」
「あんたの入れ知恵か」
「そうよ。佳澄のためを思って言ったの」
結華は顎を上げた。悪びれる様子は、どこにもない。
テーブルの端に、ティッシュの紙箱が載っていた。
俺はそれを取り上げて、結華の足元に落とした。
「ちょっと、何するの!」
結華は甲高い声を上げて、ソファの座面に跳び乗った。
佳澄が両腕を広げて、その前に立つ。
「やめて。友達に手を出さないで」
「出していない。箱を置いただけだ」
「見た? 佳澄」
ソファの上から、結華の声が降ってくる。
「この人、手が出るのよ。今のうちに別れなきゃ、そのうち佳澄が殴られる」
「出て行け」
「は?」
「ここは俺の家だ。出て行け」
「この家は半分、佳澄のものよ。親友の家にいて何が悪いの」
「佳澄、聞いた? 今のうちは私に言ってるけど、そのうち佳澄にも言うわよ。出て行けって」
佳澄の腕が、少しだけ高く上がった。
俺は結華を見るのをやめて、佳澄を見た。
「佳澄。2年だぞ」
「2年も、よ」
佳澄は即座に言い返した。
「本当に、この人の言うとおりにするのか」
「言うとおりじゃない」
佳澄は腕を下ろさなかった。
「離婚は結華の提案。でも、決めたのは私」
「男なら、さっさとサインして」
「あなたは今、何も持っていない。これ以上、私の若さを無駄にさせないで」
結華がソファから降りて、佳澄の肩に手を置いた。
「佳澄、泣かないの。泣くのは向こうなんだから」
二人は並んで、同じ側に立っている。俺の側には、テーブルの上の紙しかない。
床の花は、包装紙ごと横倒しになっていた。
「……わかった。離婚しよう」
鞄の中で、午後に受け取った辞令の角が折れていた。




