幻想の格闘と話の続き
銃弾が放たれた瞬間、それをきっかけに世界が歪みだした。銃弾は霞のように消え去り、周りがぼうっと暗くなり、銃弾の通った場所に亀裂が入って、空間同士でずれが生じた。次第に曖昧になり、相田も監視員も距離感が分からなくなって、ぐらりと二人とも転んだ。突然周りは道路の灰色に覆われ、それがぐるりと回転するように消滅し、真っ暗の虚空へ飛んだ。そこは水のごとく、地面に足をついてもないが落ちてもない。もがいても無駄である。ぎああと監視員は無音で叫んだ。さっきから監視員の意識が相田の所に流れていく。
『息ができない…息が』『恐い恐い恐い』『世界が崩壊なんて、認めたくない、これは夢だ』『夢だ夢だ』『あっはははは、もはやどうでもいいわ』『生きている…でもなにもできない』『あははははは』『どらりべずそぐらりのずかりぶどぶりぶ』
相田は次第に、監視員が銃を向けたのは政府方針ではなく、監視員自身が恐怖に満たされたからと知った。ではあの情報は政府は許可しているのだろうか。でもそれは混乱を招くのでは。妙だ…
『くだりぬだりあははははははぐなりずだりぬふふふふふふ』
ゲシュタルトが崩壊し、訳の分からないうわ言を述べている監視員はそのうち自分自身が歪みだした。顔が上下にひっくり返りながら歯茎を見せて彼は無音でけらけら笑った。右腕はひっくり返った首の後ろに、左腕は体の前に伸び、脚は組み、そのまま体は雑巾のように捻り、今度は顎を外れんばかりに笑い、体が膨らみだした。どんどん虚空の中で膨らみ、相田の体の数百倍ほどになった。だんだん笑い声は響いてきた。
『あはははははは、ははははははは、はははは』
パン、と音を立てて監視員は破裂した。いつの間にか相田は時計塔の前にいた。リタはいつものように周りを見渡しながら子供のように人々に挨拶し、会話していた。人々はそれを微笑ましく思っていた。
相田はリタに話しかける。
「今晩は。リタさん。」
「今晩は。今朝もお会いしましたね。」
相田はやはり実際にあったのだと一瞬ぞっとした。相田は訊ねた。
「リタさん、今朝会った時ここで何かありました?」
「シュトケイン博士の学説を話しましたが、しかし、途中からなぜか意識を失って分かりません。」
「そうか…」
その夜、自分は、リタから良からぬ情報を聞いたので“雷神船”に殺されるのではないか、と相田は怯えた。町中に盗聴器があった事を彼はあの時すっかり忘れていたのだ。
ブオオオオンと、雷神船の汽笛が鳴る。相田はビクビクしながら布団にうずくまった。やがて相田の住む国民集合住宅のあたりに接近した時、相田の恐怖は最高潮に達した。
雷神船から閃光がきらめいた。
相田は思わずぎゃっと悲鳴を上げそうになったがなんとか堪えた。雷神船はそのまま集合住宅から去っていった。今夜、一人殺されたが相田ではないみたいだ。助かったと安堵し、ますますなぜあの情報を政府が許したのだろうと疑問に思い、しかし怯え疲れたので相田はそのまま眠った。
夢でリタが登場した。だがアンドロイドであるリタの形ではない。ただの“存在”でありながらそれはリタなのだ。リタは言う。
「…んに過ぎないではないか、と言う批判がありますが、これ以外に妥当な説明はありません。そう言うわけですから、時計塔、すなわち先人たちの過ちにより、低迷、混乱、混沌を深めたこの世界を正す必要があります。」
これは今朝の、リタが監視員に意識を失わされて中断された話の続きだ、と相田は悟った。ではリタは現実において意識を失って、その意識は、時を超えて、今の自分の意識に現れてしまったのだろうか、と相田は考えた。話は続く。
「ですから、そのために、なにを、すべきか、私は、わかっ、て、い…ま……す……………リタは霞み、代わりに別の風景が。またあの、永遠の階段だ。世界達がふわふわ浮かぶ。相田は透明な階段を登りながら暗黒の空を見上げた。ふと空からなにかがゆっくりとこちらにやってくるのが見えた。それはちぎれている。何かの断片みたいだ。相田は立ち止まってそれを注視した。やがてそれはだんだんと接近して来る。それは笑っていた。嬉しいと言うよりも歪んだ笑い。笑い顔だ。いや、顔だ。違う、頭だ。頭がこちらに接近してくる。破裂した監視員のあた
「わああっ」
大声を上げて相田は目が覚めた。あまりの悪夢に彼は放心していた。しばらくして目覚まし時計の音に気づいた。
あの時以来、相田はリタとよく話すようになった。帰りによく時計塔に寄り、他愛もない話をした。
だがいつからかリタは妙な事を話すようになった。例えば相田が
「じゃあ、また明日」
と挨拶すると、
「ではさようなら。あの日までに。」
と答えた。リタは何度も「あの日」を強調していた。聞けば、他の人にもそれを言っていたらしい。何だろう、「あの日」とは。
世界は益々混迷を深めていった。空間がぐらりと傾くのはよくあったし、失踪者や発狂者も日に日に増えた。相田は怯えた。何よりこの状況に対し、独りぼっちである事が何よりも苦痛であった。相田は別居した妻に電話しようと思い立ち、番号を押した。呼び出し音が聞こえる。




