【22】
雲間から光が差した。風向きが変わる。
上空を旋回していたハーピーの内の一体がリオンに目をとめた。
「嫌な予感が……」
リオンは無駄と知りつつ、愛想笑いを浮かべた。
「お、お話しませんか? いい天気ですね」
ハーピーの顔立ちは人間女性のそれである。一見すると話が通じそうな相手にも思えるが、モンスターはあくまでモンスターでしかない。ハーピーは人語を解する種族でもなく、ただ吠え猛るのみ。大鷲のような翼を威嚇するように広げ、両足のかぎ爪を打ち鳴らした。
「まずい」
嫌な予感が的中した。
ハーピーが急降下して来る。
「う、うわっ!」
一直線に、リオンを狙って来る。
速い。少なくとも、避ける余裕がないぐらいには――。
ハーピーは他の冒険者たちが苦労する程度には強いモンスターである。縄張りを犯した相手には好戦的になるため、危険度も高い。冒険者のランクで云えば、B級以上が討伐適正となる。少なくとも、F級の新米冒険者にクエストが回される事は絶対にない。
リオンは肩書きこそS級冒険者であるものの、心持ちとしてはF級である。
F級の冒険者が受注できるクエストには、そもそも戦闘が必要なものは含まれない。F級はあくまで、冒険者の見習いである。危険性のまったくないクエストを通して、冒険者としての生活サイクル、心構え、世間との付き合い方を身に付けていく。
実の所、モンスターの討伐を任されるのはC級以上の冒険者となる。
F級を無事に卒業したとしても、モンスターと戦闘するにはまだまだ早いのだ。E級からD級にかけては、わかりやすく云えば修業期間である。モンスターに関わるクエストもあるにはあるが、情報収集であったり、上位の冒険者のサポート役であったりと、少なくとも一対一で正々堂々戦うようなクエストは受注できない。
冒険者のイメージとして、モンスターの討伐は一番わかりやすいものである事は間違いないだろう。だが、そのように華々しく活躍する冒険者になるためには、それなりの下積み期間が必要になる。場合によっては、地道に評価を稼ぎ続ける数年間を退屈と感じるかも知れない。だが、その期間は決して無駄な時間ではなかった。
なぜならば、モンスターとの戦闘は決して遊びではないからだ。
冒険者ギルドが無謀なクエストを斡旋するような事はないけれど、実戦である以上、敗北の可能性がゼロになることは絶対にない。モンスターにやられてしまえば、最悪待ち受けているものは死である。
冒険者ランクというステップアップ制度は、冒険者を守り、育てるために存在していた。
ハーピーとあちこちで戦闘を繰り広げている冒険者たちも、さながらギルドの教育とでも云うべきもののおかげで、こうしてモンスターに臆することなく堂々と渡り合えている。
云い換えるならば、リオンは基本ができていない。
F級という最初の一歩――。
E級、D級という準備の段階――。
何もかもをすっ飛ばして、今、文字通り、裸で戦場に立たされている。
「やっぱり無理です!」
戦わなければいけない、という気持ちはある。
気持ちはあるが、覚悟が足りない。
正面から突っ込んでくるハーピーに対して、リオンの絶望的なステータスでは咄嗟の回避は不可能である。ただし、それでも、マントの留め具を外すぐらいのわずかな動きならば間に合ったはずだ。迷いさえなければ、指先をほんの少し動かすだけで事足りるのだから。
だが、リオンは『戦う』という選択肢を選べなかった。
「ひ、必殺……」
震える声で、リオンは身構える。
結局、昔からの最終手段を無意識に選択していた。
「くらえ、【笑いキノコ】の粉末!」
いつぞや、ロウシャンの警備隊に思わぬ被害を与えてしまった【笑いキノコ】である。
田舎の村はずれで暮らしていた頃には、いじめっ子を追い払うための最終手段だった。
世界最弱と断言できる程のステータスであるリオン。さらに装備適正に至ってはマイナスである。貴族や有力商家の生まれには、本人自身の基礎ステータスは平均以下であるものの、レアリティの高い装備をたくさん買い込む事で実力者と見なされる者も少なくないそうだ。残念ながら、リオンにはそもそも高価な装備を買う金もないし、仮に買えたとしても、マイナスの装備適正のおかげで逆効果に終わってしまう。
だから、リオンはいつも『アイテム』を駆使してきた。
それしか生きる術がないのだから、昔から必死だ。
ちなみに、【笑いキノコ】とはリオンが勝手に命名したもの。鑑定系のスキルがないため、現在でも正式名称は不明のままである。村の少年たちには笑いがしばらく止まらなくなる程度の効果しか及ぼさなかったが、警備隊の女性には珍妙な効果があらわれていた。もちろん、ハーピーにどのような効果が出るかはわからない。
完全な撃退は無理だろう。せめて一瞬の足止めになればいい。
だが、リオンのささやかな願いは虚しく終わる。
狙ったようなタイミングで、突風が吹いた。
小袋から撒いた粉末が、でたらめな方向に吹き飛ばされていく。
「ああ……」
悲鳴も出ない。
リオンはただ、目を丸くする。
「……終わった」
打つ手なし。そう悟るのと、ハーピーのかぎ爪が顔面に迫るのとが同時で――。
思わず、リオンは目を閉ざしていた。ミンチにされる自分を想像し、内臓まで縮み上がる。
「はい、そこまで」
ライフにダメージは無く、身体に痛みもやって来なかった。
冷ややかな声は、アズクリッドのもの。
数秒待ってみたが、そのまま何も起きない。
少なくとも、やられなかったようだ。リオンは生きている。
恐るおそる目を開くと、目の前には、ミンチになったハーピーが倒れていた。
「わあっ!」
これはこれで、怖い。
よくよく見ると――ぐちゃぐちゃになったモンスターの死体なんて見たくなかったけれど、氷の飛礫で全身を叩き潰されたらしい。幸いにして、リオンが吐き気に口元を押さえている間に、ハーピーの死体は小さな光の粒子となって消え去った。
危ない所をアズクリッドの魔法に助けられたらしい。状況を理解するのは簡単だったけれど、リオンが落ち着くにはしばらくの時間を要した。




