3_3. 初恋
「いらっしゃい、芙美ちゃん。ひさしぶりだねぇ」
土鍋を片手に歩くことニ十分、本で紹介されそうなほど立派な日本家屋の前で凌くんパパが出迎えてくれた。
温和で力持ち、そのイメージのまま歳を重ねた姿を目にして自然と口元がほころぶ。最後に会ったのは高校生のときだったはずだけど、いまでも若々しくて素敵なパパさんのままだ。
……うちとは大違い。日に日に生気が抜けていく父の目がよぎったが、凌くんパパが「綺麗になって」といった褒め言葉をかけてくれたので持ち直せた。
ひさしぶりの玄関でいささか緊張しながら靴を脱ぎ、向こうの家ほど馴染みはない廊下を通って台所へ。
ありがたいことにクレープはもう生地を焼くだけの状態にしてあった。メロンもカット済みで、冷え冷えのパンナコッタまで用意されている。高まる期待にそわそわしていると、こういうのをつくろうと思ってと凌くんパパがスクショを見せてくれた。そこに写っていたのはクレープの上にプリンとフルーツが飾られたアシェットデセールで、軽く越えられた期待が甲高い声となってのどからもれる。
メロンが一玉あるので凌くんと私に食べさせたいと思ってくれた凌くんパパは、おしゃれなデザートを検索してこれを見つけたそう。私も含まれていて嬉しい。
さっそく三人でつくりはじめることにしたが、作業台に置かれた円形の鉄板はお店仕様のため大人になったいま見てもだいぶ大きい。子供のころトライして、うっすいペリッペリの皮しかつくれなかったことを思い出す。あれは食べたくないねと凌くんと意見が一致したので、あのころと同じく焼きは凌くんパパにおまかせする。
飯テロで再生されたイメージそのまま、熱くなった鉄板に生地がジュウゥゥと広がっていく。生地の色がうっすら変化していく様子を凌くんと並んで眺めていると、「懐かしいな~」という声が聞こえ、視線を上げると凌くんパパがこちらを見ながら微笑んでいた。
「父さん、クレープから目離さないで」
「はい!」
「焼きすぎないでね」
「そろそろかな~……」
「あ、それと俺みいと結婚するからさ、あとで証人欄にサインして」
「うん。……は!? えっ、けっ」
「「いまじゃない!?」」
経験値の高さか、凌くんパパは慌てながらも綺麗にクレープを裏返した。数秒焼いたら再度裏返し、パタンと半分に折る。さらにパタンパタンと折り重ねて二等辺三角形をつくり、それを真っ白な平皿に移せばベースは完成。これだけでも十分おいしそうだ。私も家のフライパンで挑戦してみたことがあるけど、サイズの問題なのか、どうにもそそられない見た目のものしかつくれなかった。やっぱり凌くんパパはすごい。
「結婚……するの? 凌と、芙美ちゃんが?」
クレープの出来栄えに感心していると、向かいから戸惑った声が聞こえた。そういえば凌くんが合間に報告したんだった。凌くんに合わせてこっくりとうなずくと、凌くんパパは凌くんママの名前を叫びながら廊下に飛び出していった。
その背中に凌くんが「仕事の邪魔したら怒られるよ~」と声をかけるが、届かなかったようなので二人だけで二枚目に取りかかる。結果は予想どおりの大失敗、大きく均一に伸ばすのが難しくて穴まで開いてしまった。でもこれと似た状態ものを二十年前にもつくった覚えがあるので、再現できた自分たちをすごいと称えあう。
笑いながらあちこちに散らばった細かなパリパリを片付けていると、ゆらりと凌くんパパが戻ってきた。「怒られた……」としくしく言う凌くんパパを慰めながら三枚目の、いや二枚目(本番)の準備を整える。くるりとトンボを操っていとも簡単に大きな円をつくる凌くんパパに声援を送りつつ、腕の動きを真似してみるが差がまったくわからない。わからないので次もお願いし、そのあいだに一皿目を映えるように盛りつけていく。ちなみに幻の二枚目はパンナコッタの土台として活用した。
「二人が結婚か~、……いつから付き合ってたかと聞いちゃダメ? これハラスメント?」
「「……今日?」」
「は?」
「じゃなかったらゼロ日婚。再会したの一昨日だし」
メンタルが復活してきた凌くんパパが当然の疑問を口にしたが、そもそも付き合っていないので答えようがない。凌くんと顔を見合わせながら一応回答したがご納得いただけなかった。当然か。
ゼロ日婚と追加回答した凌くんになるほどと相槌を打っていると、眉を寄せた凌くんパパが体全体を使って凌くんを台所から押し出した。
「プロポーズはしたんだよな? ちゃんとした? 観覧車とか乗った?」
「したけど、観覧車は乗ってない」
「こんなときくらいロマンチックしなさいっ、なんでこっちに来たの!」
「父さんがクレープ焼くって言うから、みいも食べたいって」
「ごめぇん……」
開いた戸口で話しているので丸聞こえである。そのあとも夜景はどうかと続いたので、三皿目を盛りつけ終わると同時に「できた~」と声を張った。いまからでもできそうなロマンチックイベントの提案に乙女心はときめくが、目と鼻の先で相談されるのはとってもこそばゆいので中断させてもらう。嬉しいんだけどごめんね、凌くんパパ。
簡単に片付けを済ませてから客間に移動し、懐かしい顔ぶれでおやつタイムがスタートした。大好きだったスズラン柄のティーカップでいただく紅茶は、子供のころもいまも私をお嬢様気分に浸らせてくれる。
金色の華奢なスプーン、銀色のボタニカルな装飾が施されたフォークとナイフ、一リットル近く入る大きな陶器のティーポット。実家のプラスチック製の食器にはない重みや質感が扱いづらくも特別で、それを使えるこの時間も、使わせてくれる凌くんパパも大好きだった。
もちろんおやつも。クレープなら私はパリパリ系よりもちょっと厚めのもっちり系が好みで、凌くんパパのがまさにそれだ。「おいしい~」と凌くんと声をそろえる。
「そういえば証人欄のサインだけど婚姻届あるの? ダウンロードしてこようか?」
「あるある、来る前にもらってきた」
封筒ごと届を渡しながら役所で拍手された話をしていると廊下から声がかかった。凌くんママだ。
「いらっしゃい、芙美さん。ひさしぶりですね」
「おひさしぶりです。お邪魔しています」
シャキッと背筋を伸ばしてから深々とお辞儀をする。凌くんママと会うときは昔からちょっとだけ緊張する。これといって怒られた記憶もないんだけど、このひとの前では失敗してはならないという気持ちに私が勝手になってしまう。
私の向かいに着席するなり、「芙美さんがお嫁に来てくれるって、さっきこのひとが騒いでいたんですけど……」と切り出されて再び背筋が伸びる。
「はいっ、あの……」
「はーい、みいと結婚しま~す」
つっかえる私に代わって凌くんがゆるゆるな口調で肯定した。
大丈夫かな、怒られないかな。もしかしたら反対される? 凌くん長子だし、顔立ちも母親似だから、凌くんママの愛着も人一倍かも……
「まぁまぁ、おめでたいこと。凌さんも初恋が叶ってよかったですね」
「ね~、よかったよかった」
脳内を一瞬で駆け巡った不安は即刻回収された。というか初恋って、私の? 親バレはちょっと、いやだいぶいたたまれない……
「ハツコイ」
「ええ、小さいころはいつも芙美さんにチュッチュチュッチュしていたでしょう」
「いや~、あれはブチュッて感じだったよ……。何回注意しても目を離した隙にするし、お父さんは気が気じゃありませんでした!」
「え、スミマセン……?」
この会話における初恋のベクトルが凌くんから私に向いているような気がするのは気のせいだろうか。凌くんに「覚えてる?」と聞かれたので首を横に振る。チュウってほっぺにチュウ? 言い切れないけど、した覚えもされた覚えもないと思う。
凌くんパパの見解によると、帰り際にすることが多かったからあいさつ代わりか、もしくは私に帰らないでほしいから結婚しようと考えたんじゃないかとのこと。それは数時間前に聞いたプロポーズの理由と同じで、凌くんもそう思ったのか両手で顔を覆っている。
「~~っ、さっき似たようなこと言ったぁ! 同じこと昨日ずっと考えてたし、なに、俺が成長してないって言いたいの!?」
「三つ子の魂かしら。芙美さんと出会ったのもそのくらいでしたし」
「もう百まで一緒にいてもらいなさい。凌は芙美ちゃんがいないと食事もろくに取らなくなるんだから。おやつだって今日みたいな反応全然してくれなくなってお父さんは寂しかったです」
ごはんをあまり食べないと聞き、本当なのかと目で尋ねると凌くんは即否定した。
「違う。父さんも普段はこんなに気合の入ったものつくらないし、食事も山菜とかクセあるものばっかり食べさせようとするから」
「ばっかりは嫌だねぇ」
「凌が量食べないからっ、栄養素や滋養があるものをって!」
父の愛を叫ぶ凌くんパパは微笑ましいけど、私は凌くんの味方なので眉を下げた表情をキープする。ごめんね、凌くんパパは凌くんママに慰めてもらってね。
凌くんがスンとしながら話を戻してサインを催促したので、念のためスマホで記入例を調べて画面が見えるようにテーブルに置いた。あれ、押印が任意になってる。
調べたところデジタル化推進の一環で変わったそうで、割と前から任意になっていた。戸籍関連ということは復氏届も死亡届も対象だったのか。……でもほかの提出書類もいろいろある中でそれだけ任意になってもなぁ。
過去を振り返っているうちに自分の印鑑が縁起悪そうなものに思えてきた。凌くんの名前と同じ並びにそんなものを残したくないので押さなくていいなら押したくない。しかし隣から記念に押したそうな空気を感じる……、どうしよう。新しいものをつくるにしても間に合うかな。そういえば名字だけの印鑑って……、ともんもんとしていると凌くんママに話しかけられた。
「……芙美さん、指輪は今日つけていないだけ?」
「あ~、まだあげてない」
私の左手を見ながらされた質問に凌くんが答えると、凌くんママの目が険しくなった。ひぇ。
凌くんパパが「一昨日再会して、今日プロポーズしたんだって」と補足するとさらに眉間が寄った。ひぃっ。
「順序は守りなさいな。命の危機でもない限り、疎かにしていいものではありません」
「みいが帰っちゃうのは俺にとって命の危機です、サインください」
「どうどう。サインはするよ、するけど~……、ほら指輪もさ、婚約指輪が一番輝くのはやっぱり婚約期間でしょ。一週間だけでも……」
そのあとも交互に「女の子は婚約指輪に浸りたい期間があるものです」「思い出が一個減ることになるよ」と説得され、最後は凌くんが折れた。隣で私がパパママの言い分に反応したからかな、ありがとう。
少し口を尖らせた凌くんに「今月中には結婚しようね」と言われたので、左の小指を伸ばして繋ぎにいく。
「巳上の印鑑って頼むお店決まってる?」
「あ、それも必要か。えーっと?」
「用意しておくよ~」
名前だけの印鑑も新調したい旨を伝えると、ありがたいことに実印も含めて一式を結婚祝いに贈ってもらえることになった。なんでも印鑑や名刺といったものはシンプルなほど吉相らしい。デザイン性のあるものは苦労を背負いやすくなり、特に材質を間違えると病気や短命になると言われているそうだ。
病気ときいて思わず凌くんに目を向けた。薬で治らない病気が存在する以上、担げる験は担いでおいたほうがいい派なので三つ指をついてお願いする。いま言ってよかった。デジタル化が進めばいつかは不要になるんだろうけど、令和のあいだは必要になるだろうからいいものを持っておきたい。
婚姻届は私の印鑑と一緒に渡してくれるということで、だいだい二週間ほど凌くんの婚約者として過ごすことになった。凌くんの婚約者……、また頭の中にヒヨコが出現してきてぴよぴよである。
凌くんママが日取りについても真剣に考えてくれているが、大安くらいしか思いつかないのでぴよぴよが増えていく。吉日の話についていけないのは凌くんも同じで、「花瓶は今日無理かもね」と言われたのでうなずいた。
「芙美さんはほかになにかありますか?」
気になることをひととおり確認し終えた凌くんママから話を振られた。その質問に、大学時代に参加するだけはした就活セミナーを思い出して唾をのむ。
たしかこの最終質問は入社する意欲をアピールするためのもので、つまりいまに当てはめると嫁ぐにあたっての覚悟のほどを……!? どうしよう、お決まりな台詞しか浮かんでこない、でもなにか言わなきゃ!!
「あ、あの……、む、息子さんをっ、必ず幸せにします! のでっ、どうか私……に……?」
……違うな、これだと凌くんをお嫁さんにほしいみたいだ。え、お嫁さん側って……、あっ、ふつつかのほうか。いやでも大切な息子をふつつか者に渡したくなくない? 様式美的な言い回しだとしても、もっとこう……
好印象なことを言いたくて、浮かれていた頭を捻るもまったくなにも出てこない。横では男性陣が「続けて!」「聞かせて!」と小声で囃し立ててくる。続けてって凌くん……、間違えたら一緒に怒られてね?
「息子さんを、私に……、ちょうだいできませんでしょうか……」
すみませんすみません本当にすみません、せめて「ください」を丁寧に言ってみたけどアウトでしょうか……
萎縮する私に対し、「あげちゃうよ~!」「もらってぇ~」と凌くんたちはとても楽しそうだ。その雰囲気に後押しされて、そろりと凌くんママのほうをうかがうと「もちろんですよ」と微笑んでくれた。え、ゴウカク?
「ふつつかな息子でございますが、どうか末永くよろしくお願いいたします」
横にずれて深く頭を下げた凌くんママに、私も額づく勢いでお辞儀をして口上を真似て返した。よろしくって言ってもらえた、よかった……、やったよ凌くん!
振り向くと、さっきまではしゃいでいたはずの凌くんパパが号泣していた。
「りょ、凌はほんと難儀な子でぇ……、でも、芙美ちゃんと一緒だと元気で……」
だから最後まで見捨てないであげて、とぐしぐし泣く凌くんパパの横で、凌くんママがお皿を寄せてパンナコッタを黙々と口に運んでいる。凌くんもまったく同じ表情で残りを平らげていて、私にも食べさせようとしてくる。されるがままにもぐもぐしていると、「みんな聞いて!?」と凌くんパパがプンプンしながら泣き止んだ。
その口に凌くんママがクレープを押しつける。私も自分の手で残りを食べて、数分後には全部のお皿が空になった。ごちそうさまをしたあと、これから出かけるからと凌くんが切り出したので本日はこれでお開き。
お暇する前にお皿を片付けていると、どこからかリィン……という鈴の音が聞こえた。風鈴だろうか。
「どうかした?」
「いま……、あっ、ヘビさん!」
「「「え?」」」
「わぁ、ひさしぶり~、どうして食器棚にいるの~?」
風鈴にしては時期が、と思いながら台所を見回していると、食器棚の中に懐かしい置物を見つけた。丸い玉の上に小さな蛇が乗っているその置物、通称ヘビさんは凌くんがおじいさんから受け継いだお守り的なものらしい。
昔は凌くんの部屋に置いてあって、蛇といってもかわいらしい姿をしているので、ぬいぐるみ感覚でよく話しかけていたものだ。それにしても形見ともいえるヘビさんがどうして台所にいるんだろう。
「あ~……、きっと芙美ちゃんに会いたくて来ちゃったんだねぇ」
「あはっ、そうなのヘビさん? 私も会いたかったよ~」
「きっと昔みたく撫でたりお歌をうたったりしてほしいんでしょうねぇ」
「お歌!? ヘビさん、私そんなにうまくないの知ってるよね?」
凌くんが食器棚を開けてヘビさんをまじまじと観察している。よっぽど予想外な登場だったみたいだ。そこに置いたのが凌くんでも凌くんパパでもないなら、残るは弟くんだろうか。滅多に近寄ってこなかった人見知りの男の子をぼんやりと思い出していると、凌くんからヘビさんを手渡された。……歌えと?
ちょっと考えて、「校歌斉唱!」と小学校の校歌をセレクトした。いやだって親御さんの前で恋うたとか恥ずかしいし。だからって校歌もどうかと思うよ、でもほら凌くんも笑ってるけどすぐ参加してくれたし、歌詞だって全部すべるように出てくる。地声を張り上げても歌いやすい、校歌って実はすごいんだなと感心しながら凌くんとともに高らかに歌い上げた。ランララン!
笑い続けている凌くんに「チューリップとか想定してた」と言われてハッとする。童謡という選択肢があったか。いまさらな気付きとパパママの温かい目にじわじわと恥ずかしさが込み上げてくる。
とにもかくにも拍手はいただけたので、ヘビさんにお別れを言ってそそくさと玄関に向かった。隅の隅まで掃き清められた石畳の上で靴を履いていると、凌くんパパに「そうだ、二人とも」と声をかけられた。
「くれぐれも無茶はしないようにね。二人とも一人でいるときは大人しいけど、二人になると行動力すごいから無茶しないかちょっと心配」
そう言われて午前中のことが脳裏をよぎった。……なにか知られてる?
「「そんなことないモン」」
「すでに怪しい! いや無事ならなんだっていいんだけど……、いいんだけどぉ~~」
一瞬勘繰ってしまったが、そういえば昔もいまみたいに胸をさする凌くんパパに似たようなことを言われた覚えがある。凌くんママにも「ほどほどに」と言われてしまった、善処します……
私たちってそんなにアクティブな印象があるのだろうか、どこを切り取ってもインドアな幼少期だったと思うんだけど。首を傾げつつ、ではまたとあいさつをして門をくぐる。
駅に向かう道すがら、凌くんが口の端を持ち上げながら「無茶なんてしてないのにね」と言ったので大いに賛同する。全然まったく微塵もしてないのにね。
「したとしても、たま~にだよねぇ」
「たまのたま~にだよねぇ」
「「ね~」」
凌くんと二人、笑顔で軽口を叩きあう。この意地の悪さからくる笑顔は顰蹙ものだってことはわかってる。それでも笑顔は笑顔なので、どんどん楽しくなってくる。さっき凌くんパパに行動力がすごいと言われたけど、その原動力はきっとこれ、凌くんと一緒だと良くも悪くも笑顔になれるからだ。
悪くもってダメだよね、公序良俗に反してる。でも、私いま動けてるの。こうやって出歩けて、思ったことを言えて、なにより楽しいと感じられている。
「それにしてもクレープおいしかった~」
「おいしかった、めっちゃおいしかった。だけど気合い入りすぎだろ、あれ」
「ふふっ、たしかにシュガバタだけだと思ってた」
ちゃんと楽しいから、こういう良い方面の楽しさだって味わえている。
一昨日の私だったらきっと無理だった。クレープを食べても甘いだけで終わっただろうし、見た目もどうでもよかっただろう。破滅思考に囚われて、なにも手につかなくて、ばかみたいに泣いてるだけ。
そんな状態よりいまのほうがずっといい。午前中のあれは非難される行いに違いないけど、……ああ、やってよかったぁ。
「そういえば、俺の初恋みいだって言ってたね」
不意に言われて心臓が跳ねる。
あ、ウン、そんなことも言ってマシタネ? でも三、四歳のころなんて覚えてないし、そういう可能性もあるかもってことだろうから、えっと気にしないで……
「感情のベースが恋愛で形成されてたから気付けなかったのかな。その上に友愛とかの、友達としてひととしての愛情が乗っかっていまに至るってことか。……なんだ、よかったぁ。俺の底にみいへの恋愛感情が根付いてるなら夫婦愛も提供できると思うので、安心して俺をもらってください」
難しいっぽいことを凌くんが言ったので、脳内のイメージ処理が追い付かない。くるくる回る処理中のマークが止まるのを待っていると、左手を指を絡めるように繋がれた。次いで持ち上げられて、チュ。
「!??」
「あ、もらってほしいけど、名字はうちでお願い。"み" が多くなっちゃうけど許して」
みかみふみ。"み" が多いことなんてとっくに知ってる、何回妄想したと思ってるの。いやそれよりも恋愛って、夫婦愛って……
「あ、あい……」
「うん。みいにあげられる種類が増えてよかった~」
処理しきれないでいると、小さく「別れる心配も減ってよかった」とつぶやくように凌くんが続けた。
……別れないよ。手をギュッと握り返して、繋いだ先に届くように念じる。
凌くん、もらってって言ったよね? いままで凌くんにもらったもの、一個も捨ててないんだよ。全部宝箱にしまってあるの。その宝箱にしたお菓子缶も凌くんがくれたんだよ。私、もらったら捨てないよ。離さないよ。それを覚悟して、もらわれてね?
「……だいじに」
「うん?」
「大事にします!!」
「ははっ! うん、俺も~」
凌くんと再会して三日目、私は初恋の彼と結婚することになった。
……おかしい。たしか私は骨までしゃぶり尽くす醜悪な化け物に襲われている真っ最中のはずだ。こんな死にかけの状態で結婚って、どう編集したらそんな展開になるのか。
この程度ならどうとでもなる、そのくらい世界から見ればちっぽけな出来事だってことなのだろうか、……あんなに苦しかったのに。
時刻は夕暮れ時、けれども夏至前なので外はまだまだ明るい。優しい水色がどこまでも続く空は穏やかで、同時に私の身に降りかかった災難になどまるで無関心で。そんな他人事だと突き放すような空の下をこれからも歩いていかないといけないのか。
——でも。凌くんがこうして手を繋いでいてくれるなら、私はきっと千里の道も歩いていける。例え災難続きだろうと、凌くんと二人でなら絶対なんとかなる。うん、絶対大丈夫。
繋がれた手をたどって、凌くんの横顔を見つめる。
凌くん、大好きだよ。ずっと一緒にいてね。
- END -
後日談追加予定




