心臓に悪い夜
「それでは行ってきます」
そう言って朱莉ちゃんは学校の制服を着て出かけていった。ある日突然住みついてきた奇妙な娘だが普通に学生生活を送っている事に驚きだ。しかし更に驚いているのはこの生活にたった数日で馴染みつつある自分の順応性に対してである。
最初は得体が知れず警戒心バリバリだった私だが、彼女からはあまりこちらに干渉して来ることは無かった。そして向こうの申し出により家事全般を彼女が担当してくれることになると、ズボラな私としては追いだす理由も無くなったわけで、今では朝に彼女を見送ることが私の唯一の仕事である。なんだかヒモになったような生活ではあるが元々親に寄生して生きてきたのだから、パラサイトかヒモかの違いでしかない。私の精神的にはノーダメージだ。
……ロクな死に方しないだろうな。私は。
唯一の懸念は私が少女誘拐などの罪に問われないかどうかであるが、ここに住むための書類手続き等はしっかりしていると言っているし、近所からは年の離れたお姉さんと妹ぐらいに思われているかもしれない。外を出歩かないから分からないが。
ふと自分で散らかしたゴミを拾いゴミ箱に投げ入れる。ちょっとした気まぐれだ。少しは家事を手伝っておくか。私の家だし。お姉さんと言えるほどのことを何一つした事が無いことに焦りを覚えたわけではない。断じて。
私は家の中の整理を始めた。
「で、この惨状はなんですか? 日ノ枝さん」
窓から差し込む夕日を背負いながら、いつも無表情な朱莉ちゃんの目が凄い〝圧〟を放っている。私は蛇に睨まれた蛙のような心境で視線を逸らす。
ちょっと部屋の掃除をしようとしただけなんて、信じてもらえるだろうか。
普通に掃除機を掛けようとしたら部屋の蛍光灯や食器が爆散しただけなんて信じてもらえるだろうか。私の壊滅的生活スキルのなせる技か、自分でもショックを受けているところである。
「……はぁ」
年下が自分に対して吐く溜息。……傷つくなぁ。
「家事は私がやりますので、日ノ枝さんは……休んでいてくれて結構です」
言葉を選んだ!?
余計な事をするなと直接言われるのとどちらが辛いだろうか。
はい……。と私は肩を落として女子高生相手に頭を下げるのだった。
「……ん、…………よ」
深夜遅く、私は意識の浮上を覚えた。私の寝ている隣りで身動ぎと共にかすかな声が聞こえてきたからだ。
またか、と私は眉を下げた。いまだ見慣れない他人の布団がそこにはある。
朱莉ちゃんだ。
布団に潜るように寝ているため、白い山が僅かに揺れを作っている。呼吸による動きではない。寝苦しいのだろうか。ここに来た初日から彼女は布団に包まりサナギや繭のような格好で寝る妙な癖が合った。そしてその都度うなされるように寝言を零すのだ。寝苦しいなら顔を出して寝ればいいのに。寝顔を他人に見られるのが極端に嫌な人間なのかもしれない。しかし、その割に私のすぐ横に布団を敷いて私よりも早く寝ている所をみればそうでもないのかもしれない。どっちだ。
……あぁ、そうか。そんな彼女の様子を見て私は一つの記憶を掘り起こす。幼き日の事だ。親や友人から幽霊などの怪談話しを聞いた夜は必ず彼女のように布団に全身をすっぽり収めて寝たものだ。寝ている間に〝なにか〟に手や足を引かれないように。あの時は夜の静寂や闇が怖かったのだ。
今となっては夜が怖いどころか完全に夜型人間だけど。
口の端に苦笑いを浮かべ私は朱莉ちゃんの布団に手を掛ける。寝ているのならいいだろうと安易な考えを持って布団を捲る。
…………ほぉあ!?
私は大きな声が出そうになってなんとか喉元で押し留めた。今のは私の心の中での叫び声だ。けっして声に出ていないしビビってなどいないさ。
布団を開けると目が半開き状態の朱莉ちゃんの顔があった。
……いや、うん、白状するとかなりビビった。これが並の人間の顔なら笑い転げていただろうが、端正の顔立ちの女性が劇的な死を迎える寸前のような顔で固まっているのだから仕方ない。迫真という言葉がぴったり合う。
朱莉ちゃんの顔は暗がりでもわかるようにヤケに青白い。眉間に寄った皺は深く、日常的に作られていることがよくわかる。そして汗が多く浮かび、髪がべったりと額や頬に張り付き不気味さを増幅させている。いったいどんな夢を見ているのだろうか。
起こすべきか、少し迷う。うなされるぐらいなら起こした方が良いだろうか、しかし、夜が怖い人間を夜に起こすのもどうだろうか。迷いながら、私は朱莉ちゃんの口に掛かりそうになっている髪を指先で払う。頬の上ををツツツと滑らせ髪を首筋まで誘導する。
…………?
ツツツの先に何かが触れた。私の指先にだ。
それは冷たい感触だった。
それは触れたと同時に驚いたように離れた。
そう、何か意思を持ったようにソレは離れたのだ。
ネズミでもいたのだろうか。いや、古いアパートではあるが私は遭遇した事が無いし毛のような感触はなかった。一応念のため、私は手探りで朱莉ちゃんの首に傷が無いかを探った。
大丈夫だ。良かった……。
そこには噛まれたり引っ掻かれたような傷は無い。安心したついでに撫でまわしていると。
「ん……」
くすぐったかったのか吐息と共に朱莉ちゃんが身体を動かした。そして私は見てしまうのだ。明かりの少ない部屋で唯一の白さを持った朱莉ちゃんの喉元に赤い痣ができている事に。
……!
それは人の手形のようだった。
なに、これ……?
私の頭の中にいくつもの〝?〟マークが浮かび上がる。学校から帰って着替える時はそんな痣は無かった筈だ。凝視していたからわかる。
じゃあ何時誰によってできたのか。
私は意を決して朱莉ちゃんの布団を剥がした。
あ……。
目が合った。
ああああ
口と目を大きく開けた状態で固まる私を前に、ソレは、ソイツは、感情の籠らない目で私を見返していた。
ひどく荒れ、ぼさぼさの長い髪に濁りきった大きな瞳。塗りたくったような白塗りの肌に腐臭が漂ってきそうな暗い色の唇。
それは女だ。年は分からないが汚れた白いワンピースを着ている。だが明らかに生きた人間ではないと本能に悟らせた。全身の皮膚が粟立つのがわかる。これはいけないと。今すぐ〝目を逸らなくては〟とも〝目を逸らしたらダメだ〟とも脳が矛盾した指令を送り続けていた。
『あ、ああ、あ』
女の口が、表情筋が、おかしな動きを見せる。私は動く事ができない。
『アアアアア!!!!』
女がおぞましい叫び声を上げながら私に突如飛びかかってきた。腕や足よりも先に顔を全面に押し出しながら。
うわぁぁぁぁぁぁぁ!!
私は迫りくる女の顔を両手で挟み込み、身体から遠ざけようとするが、女の力は尋常ではなく押し切られそうになる。手の中の感触はとても冷たく粘土を冷蔵庫で冷やしておいたかのようだった。その感触はますます死人を連想させ私は気が狂いそうになる。
しかし、その攻防は長くは続かなかった。
メリメリと私の手の中で嫌な感触が湧き始めた。女が力任せに顔を突き出す度に頬肉が引っ張られ、おかしな音を立てる。そしてそれには限界があった。腐敗した女の頬がべリベリとグロテスクな音と共に剥がれ赤黒い肉と共に私の手をすり抜けてきたのだ。
やだやだやだやだやだ!
迫りくる顔を阻止しようと私はなんとか胸と腕で女の顔を挟みこむ。
だがそれは女の顔を間近で見ることになり……。
む、無理……。
腕の中で暴れるように動きながらも視線だけはしっかりと見据えてくる女に対し、私の恐怖は限界を迎え、意識が遠ざかるのを感じた。
もう、身体に力が入らない。このまま腕を緩めれば私はどうなってしまうのか。いっそのこともう楽になるべきだとも思う。
意識を失いそうな寸前、私は微かな寝言を聞いた。
「……やめて、よ。…………おかあさん」