せせらぎ
水のサラサラと流れる音にまじり時たま小鳥のさせずりが聞こえた。
リリーは、小川のせせらぎに突き出した大きな丸石に飛び乗ると腰かけて足を投げ出した。
ヒヤリとした冷気が下半身まで伝わってきた。
つま先を川面に近づけると、チョンチョンとおっかなびっくり足の指先で清水の様子を探った。
ムーと眉根を寄せると、意を決したようにチャポンと両足を水につけた。
「ひゃぁ~、冷たいっ!」
ジーンと痺れにも似た感覚に襲われるが、目をギュッと瞑って我慢して足はつけっぱなし。
グレーのプリーツスカートから伸びた白い太腿の先で、右と左の膝小僧をくっつけた。
リリーは足の裏でふくらはぎや足の甲の部分を交互に擦り合わせた。
山道を裸足で駆けたせいで脚についた汚れを清水で洗い落としていたのだ。
しばらくして、きれいになった足を水からあげた。
石の上で胡坐をかいて足の状態を確認する。
両足とも下草で軽く擦った程度でたいして傷は見当たらないようだった。
捲れたスカートからは太腿からつま先まで足が丸見えになっていた。
だれにも見られる心配はなかった。
「スバルったら心配性なんだから……、だから大丈夫だって言ったのに。山道といっても苔が多くてフカフカだったもんね」
スバルは怪我に効く野草を採りに行ってしまったのだ。
それにしても――とリリーはスバルのことを思った。
……魔法で召喚したのは間違いないはずなんだけど、全然、自覚がないのよね。
妖魔に追い詰められて、焦りまくって唱えた呪文は失敗したとばかり思っていたのに、スバルが現れた。
彼がまとっていた旋風は魔力の塊だった。
あんな高濃度の魔素でできた旋風なんて、人に操れるものではない……。
「まるで神業かぁ。きっと火事場の馬鹿力が出たに違いないわ。もしかして、過呼吸で潜在魔力でも開放されたの?」
リリーは石の上で寝転ぶと手のひらをお腹に置いた。
目を瞑ると、荒れた息遣いでスバルを召喚した魔法を使った時の呼吸を再現しようとした。
胸いっぱいに息を吸い込むと、鼻から勢いよく空気を吸ったり、唇を蕾めて息を吐いた。
「ハァー。フゥ―。ハァハッハッハァー。フッフゥッフー……」
魔力の高ぶりは全然起きなかった。
――もっと乱れた呼吸だったかも。あの時は死にそうだったんだし――
リリーは呼吸の激しさを増した。
「ヒッホッヒッィー、フッフゥーッ。フウッ、ホッ、ホーッ、コーッ!」
「おいっ! リリー、しっかりしろっ!」
いつの間にかスバルが薬草の採集から戻っていた。
悶えるリリーの肩に手を回すと強引に抱き起した。
驚いて目を見開いたリリーは恥ずかしさで真っ赤になった。
「わぁっ! ――だっ大丈夫だから。変な時に戻って来るんだから~」
「まさか傷口から入った毒が頭にまわったんじゃないのか!?」
「失礼ね、違うわよぉ。呼吸法の練習をしてたの! ほら見て、足には怪我なんてひとつもなかったんだから、スベスベでしょ」
「本当かよ?」
怪訝そうな顔をするスバルに、リリーは膝を曲げて脚を上げるとひょいとスバルの前に差し出した。
スバルは足首を掴まえるとクイッと持ち上げた。
鼻先までリリーの足に顔を近づけて、つま先から太腿の部分までを丹念に調べにかかった。
「チョッ、近すぎるって!」
視線に対してリリーは悲鳴のような抗議の声をあげた。
真面目に診察している素振りのスバルは、どこか神妙な顔つきをするとぼそりと呟いた。
「……ケがあるんだな、女の子にも……」
「ん? たいしたケガはなかったはずよ。まぁ、細かく見れば、裸足で走ったんだから、少しくらいならケガがあっても仕方ないんじゃない?」
「いや、すまん。個人差というか体質もあるからな。スネにケなんて輝姫にはないからびっくりしてしまったんだ。なんだ普通のことなのか」
「なに言ってるのよ? 輝姫さまの脚と私のケガになんの関係もないじゃない。――で、どこがケガしてるの?」
「ほらここ、スネに毛が生えてるだろ」
「はぁ? 怪我じゃなくて毛が? スネ――ゲッ!?」
手で締まった足首と膝を持ったスバルの目と鼻の先にリリーのスネがあった。
白い肌のところどころにブラウンの糸くずのような毛が付いているのが見えた。
「肝心のケガの方は――」
言いかけたスバルの鼻にボカンッとリリーの右踵の蹴りがクリーンヒットした。
唸りをあげて円を描くように回った左足の甲が、スバルの延髄を刈り取った。
スバルがバランスを崩してよろめく間にリリーは立ち上がっていた。
「バ、バッ、バカじゃないの!? スネ毛なんて生えてないッたら! 変なこと言わないでよ!!」
「……ウウッ、だって見ただろ。確かにスネに生えてたじゃないか。俺も驚いたんだよ……」
「コノォ、まだ言うかーッ!! 黙りやがれー!」
あまりの恥ずかしさに顔を真っ赤にしてリリーは大声で叫んでいた。
なんでスルーしてくれなかったのか、とスバルのデリカシーのなさに腹が立った。
リリーは蹴り倒したスバルの上を力の限りストンピングして裸足でガシガシ踏みつけた。
「コンニャロメ、ショックで忘れさせてやるッ! 見た記憶を失くせーっ!!」
「止めろってば、赤茶色のスネ毛を見られたくらいで暴れるなって!」
「わぁーんっ!! もう生きていけない! 馬鹿スバルを封印して証拠を隠滅してやるんだーッ!!」
手にしたロッドを振りまわし怪しげな呪文を唱えるが、気ばかり焦るし怒りのあまり口がわなわなと震えて舌が上手くまわらず魔法が発動しなかった。
自分の思うようにいかず涙ながらに両方の手足をジタバタするリリーはまるで駄々っ子のようだった。
たまらずスバルは暴れ続けるリリーに飛びつきタックルして掴まえると両手で足を押さえこんだ。
リリーは必死になって力を入れて抵抗したが、彼の腕力の前に石の上で身動きを取れなくされていた。
それでも彼女は渾身の力を振り絞ると腰を捻って何とか抜け出そうとした。
「――あれ? ちょっと待て! これって――」
「クソォ、放せったらぁ! あんたを殺して私も死ぬー!!」
「やっぱり、ひげ根だな。草木の細かい根っこの屑がスネにくっついていただけじゃないか! 走ったひょうしに跳ね上げたんだろ」
「エッ、嘘……?」
泣き止み、力が抜けてピタリと動きを止めたリリーの足をスバルが手で掃った。
付着していたひげ根の屑がリリーのスネからポロポロと落ちていった。
グレーのプリーツスカートからは、汚れない真っ白い脚がすらりと伸びていた。
「きれいになったぞ」
「ホント? まだ付いてないかちゃんと見てよ。さっき川の水で洗い流したはずだったのに……」
リリーはスカートの裾を指でつまむと、スバルの目の前で持ち上げてみせた。
座り直したスバルは、リリーのつま先から細く少女らしい太腿まで丹念に調べあげた。
透き通ったような肌には、草木の屑どころか気にしていた怪我の方もどこにも見当たらなかった。
「擦り傷ひとつ付いてないよ。安心しな」
「それならいいんだけど……。ところで、さっき輝姫さまの脚を見たことがあるような口ぶりじゃなかった?」
「――そんなこと言いましたっけ?」
「確かに聞いたわ! それもお姫さまのスネを見たってどういうことよ?」
まじまじとリリーはスバルを見つめた。
あいまいな返事をしたスバルは、リリーに蹴られて赤くなった鼻をさすった。
15年以上も前の懐かしい昔話だったのだが、つい口を滑らせてしまったことにスバルは後悔した。
今さら苦し紛れの言い訳をしたところで既に言ってしまったことはなくならないのだが、面倒は避けたかった。
「それはだな……、輝姫の脚ならツルツルだろうなぁ、というただの妄想だ。アハハ、ハ、ハッ……」
「どうも怪しいわね~。もしかして、あなた、前の妖魔戦争の時に一緒に戦っていた――」
スバルはギクリとしたが、もはや手遅れだと悟った。
白状するしかない、とスバルは勇者隊に戻った時に落ちるであろう妹ミーシャの雷に打たれる覚悟をした。
「ああそうだとも。もう言い逃れはしないさ。俺が勇者の」
「――輝姫さまの召喚した人型ゴーレムなのね! ううん、武闘妖精かもしれない。たぶん戦後もずっとご禁制の森に配備されたままだったんだわ!」
「おい、人の話を……。いや、えっと、じ、実はそうなんですよ……」
「やっぱりね! 私の魔力だけで召喚できるわけないんだもの。おかしいと思ったのよ。でもね、私の家は子爵家でしょ。家系をたどっていくと、輝姫さまとは遠い親戚にあたるわけ。だからピンチの時に似た波動の私の魔力に呼応して助けてくれたんだわ!」
「……そうですね……」
「ああっ、ありがとう、輝姫さま~」
勝手に思い込みの輪を広げると、リリーは愛くるしい目を輝かせて喜び舞い踊っていた。
スバルはあえて真実を教えるような無粋な真似はしなかった。
――少女のはかない夢を壊してどうする。お姫さまに叩き出された勇者って今の立場はしゃれにならない――
これからお屋敷に戻って一刻も早く輝姫の誤解を解かなければならないのだ。
「そういうわけで俺は帰るから。魔法学院までは目と鼻の先だけど気をつけてな」
「ちょっと待って! 私をほっぽり出してひとりでどこに行く気よ?」
「えーと、お屋敷の方角からして、たぶん森の奥の方だけど……」
「ゴーレムを管理する責任は召喚した術者が最期まで負わなきゃいけないの。だから、スバルは私と一緒にいなきゃダメ!」
ムーッとリリーは頬を膨らませた。
「そんな決まりあったっけ?」
「こ、この間できたばかりの法規なのよ! 長い間、封印されていたスバルが知らないのは当然よね。ちゃんと学校で習った出来立てのホヤホヤなんだからッ!」
リリーは赤い髪を振り乱して回り込むと、両手を広げて立ちふさがっていた。
「こんな格好で学院内まで立ち入るわけにはいかないだろう? ここでお別れだ」
スバルは親指で自分の寝間着を指さした。
「いい考えがあるわ!」
あきらめるどころか、リリーはロッドを振るって魔法をはなった。
光の粒がスバルの身体を取り巻き弾けると、ナイトゴーレムが立っていた。
「――鎧じゃないか」
カシャンとガントレットの指先がヘッドバイザーを開けた。
ナイトゴーレムの鎧を、今はスバルが身に着けていたのだ。
「ナイトゴーレムのアーマーだけを召喚してスバルに被せたのよ。外見からは、本物のナイトゴーレムと見分けがつかないでしょ!」
「しかしだな、俺にもやるべきことが――」
「ほらほら、先を急ぎましょうよ。それとも、素足で困った女の子を放置してどこかに行っちゃうほど甲斐性なしなの?」
ウーン、と唸り困るスバルの背中にリリーは飛びついた。
「いっそのこと、魔法で自分の履くブーツでも出せばよかったんじゃないのか……」
「理屈っぽい細かな男はモテないわよ! いつまでこうしているつもり? さあ、行きましょう!」
「しょうがない、乗り掛かった舟だ。最後まで面倒見てやるよ」
どうせ魔法学院までリリーを送り届けるだけの話なのだ。
お屋敷にとんぼ返りするよりも冷却期間を置いた方が得策かもしれない、とスバルは考え直すことにした。
「そういえば、せっかく採ってきた薬草が無駄になっちまったな」
「そんなことないわよ。ほらこっち向いて」
薬草を受け取ると、リリーはつま先立ちになり背伸びをした。
手を伸ばすと、リリーに蹴られて赤くなっていたスバルの鼻に、彼女は薬草を張り付けたのだった。
どこか諦めたようにスバルは溜息をつくと、リリーをおぶって学院へと向かった。




