第二話「昨日よりは」
火をつける。
乾いた音が、小さく響いた。
最深層の空気は静かだ。魔力が濃すぎて、普通の人間なら立っているだけで吐く。けれど俺には、この重さの方が呼吸しやすかった。
壁際に置いていた鍋へ水を入れる。
保存していた干し肉を切って落とし、乾燥した草を少しだけ入れた。
簡単なスープだった。
後ろで、衣擦れの音がする。
振り返ると、子どもは入口の近くに立ったままだった。
逃げる準備をしている立ち方だった。
何かあれば、すぐ走れるように。
「……座れば」
言うと、肩が跳ねた。
それでも近づいては来ない。
少し迷ってから、壁際へしゃがみ込む。
距離は遠かった。
まあ、昨日会ったばかりだ。
鍋から湯気が上がり始める。
静かな音だった。
子どもは、その湯気を見ていた。
「腹、減ってるだろ」
返事はない。
ただ、視線だけが少し揺れた。
木椀へスープを注ぐ。
ついでに、自分の分も。
いつもの癖で、一つしか出しかけた手が止まった。
……二つ目を使うのは、いつぶりだろう。
覚えていない。
子どもの前へ椀を置く。
びくり、と身体が震えた。
「熱いから気をつけろ」
それだけ言って、俺は少し離れた場所へ座る。
すぐには手を伸ばさなかった。
毒でも警戒しているのかと思ったが、違った。
子どもは、俺と食器を交互に見ていた。
「……壊れ、ないのか」
掠れた声だった。
「何が」
「近くに、いると」
そこで言葉が止まる。
続きを言わなくても分かった。
魔道具が壊れる。
人が離れていく。
化け物を見る目をされる。
慣れている。
「壊れないよ」
スープを飲む。
少し塩気が強かった。
「お前の魔力じゃ、俺は壊れない」
子どもはしばらく動かなかった。
やがて、恐る恐る椀へ手を伸ばす。
指先から魔力が漏れた。
空気が揺れる。
けれど何も起きない。
椀も、床も、壊れなかった。
子どもは目を見開いていた。
一口、飲む。
それから、止まった。
「……あったかい」
小さな声だった。
俺は返事をしなかった。
こういう時、何を言えばいいのか分からない。
火が揺れる。
青白い結晶灯より、こっちの方が落ち着いた。
子どもは黙ってスープを飲み続ける。
途中から、少しだけ速くなった。
余程腹が減っていたらしい。
食べ終わる頃には、肩の力が少し抜けていた。
「そこ」
俺は部屋の奥を指した。
「魔力が一番安定してる。眠るなら、その辺がいい」
子どもは警戒したまま、ゆっくり移動する。
最初は壁際にいた。
けれど気づけば、俺の座っている場所に少し近い位置で止まる。
……無意識なんだろう。
魔力が落ち着く場所を、本能で選んでいる。
布を一枚投げる。
「使え」
子どもは布を抱えたまま、しばらく動かなかった。
「名前」
ぽつりと聞こえた。
「……え?」
「お前の」
名前。
そういえば、名乗っていなかった。
「シオン」
短く答える。
子どもは少し黙る。
「……俺は、リノ」
消えそうな声だった。
「そうか」
火が小さく鳴る。
それ以上、会話は続かなかった。
リノは布へ包まるように横になる。
最初は目を閉じても、何度も身体が跳ねていた。
眠ることに慣れていないみたいだった。
襲われると思っている人間の眠り方だ。
けれど時間が経つにつれて、呼吸が少しずつ深くなる。
魔力の揺れも静かになっていった。
俺はその様子を眺めながら、壁へ背を預ける。
誰かの寝息がある。
それだけで、空間の音が変わる。
妙な感じだった。
落ち着かない。
でも、不快ではない。
通路の奥で、魔物の気配が止まる。
境界線を避けるみたいに。
ダンジョンは静かだった。
……少なくとも、昨日よりは。
第二話「昨日よりは」了




