間章 早まったかも知れないと悔いている ②
勇者がやってくる彼の世界の大気には、「魔素が存在しない」とは聞いていた。
我にその知識を与えたのは、あの勇者だったか。
確かに、現に向こう側の世界へと顔を突っ込んだ我には、欠片ほどの魔素も感じ取れんかった。
魔素の無い世界で、こちら側とは違う原理で、それなりに高い文明進度で、ヒト族どもが繁栄を謳歌していると言うておったな。
あの勇者が言うには、こちら側の世界の方が「文明が遅れている」のだそうだ。
とは言え、彼奴自身が見聞きしたものではなく、後から来た別の勇者から聞き出した話によれば、だそうだが。
彼奴がこちら側へ召喚されて来たのはヒト族と魔族が争っていた頃だから、もう500年は経つのか。
今さら向こう側の世界に帰る気は無いと言いながらも後から来た勇者どもに会うて、向こう側の話を聞き出しておったのだから、向こう側に未練は有ったのだろうにな。
矮小なヒト族の命の時間は短い。
ただ”生きる”だけでおれば、50年ほどでヒト族は死ぬ。
彼奴とて、もう生きてはおるまい。
魔素が無い―――、か。
魔素が満ちている世界に生きてきた我には想像もつかぬものだったが、己が目で確かめた以上、現実として受け入れるほか有るまい。
魔素を込めなければ、術式は発動しない。
現に、こちら側へと喚ばれたばかりの勇者は体内に魔素を持たず、まるで術式を使えぬらしい。
術式の行使とは、魔素の放出に他ならない。
よって、己が体内に魔素を持たぬ者に術式は使えぬ。
体外へ放出された魔素を統制し、意味と形を整えて、現象へと変換するのが術式なのだ。
もしも、向こう側へ行って「道」が閉じてしまえば、我は空も飛べぬし、生きておられぬのだろうな。
我が身は巨軀ゆえ、生来的に肉体を維持するため、常に身体を強化し続けておる。
魔素を得られず強化術式が消滅すれば、それは我が身の崩壊を意味する。
つまり、死だ。
今頃になって気付いたが、魔素の無い世界というものは、我にとって死地でしか無いということになる。
精霊種にとっても死地じゃな。
何せ、精霊種とは魔素そのものなのだから、己の存在を維持することも出来ずに崩壊するだろう。
そんな世界へ攻め込むなど無謀に過ぎる。
「穴」が閉じる前にこちら側へ戻ってこられたのは僥倖じゃったか。
我も含め、こちら側の動植物は、多寡は有れど、必ず体内に魔素を内包している。
魔素とは自然界に存在する生気体の一形態に過ぎぬ。
物質に変容したエーテルである、水なり、血肉なり、植物なり、を、体内で分解し、霊体や精神体や魔素に変換して生物は生きているのだ。
捕食するエーテルは高濃密であれば、あるほど良いし、濃い魔素を浴びて強い魔物へと変質した獣―――魔獣の血肉を喰らえば、さらに、物質的エーテルと共に得られる魔素は多く、エーテルから魔素へと変換する手間も無いので、非常に効率が良い。
精霊種に近い我ら龍族や、精霊種に近い他の種族の者どもは、霊体や幽体に変化した形状の生気体のことを総じて「魔素」と呼んでいる。
人間種や魔族種は魔素を”魔力”と呼んでいるのだったか。
だが、彼奴ら勇者もエーテルから作られた“器”たる肉体を持ち、アストラルもメンタルも持っておった。
今までに我が邂逅した勇者どもを、我がこの目で鑑たのだから間違いない。
向こう側の世界に、万物の素となるエーテルが存在しない、ということは無かろう。
むしろ、エーテルで形作られた肉体で、エーテルを、直接、消費して活動していると考えたほうが、しっくり来る。
そんな空っぽの肉体だけを持って魔素が溢れるこちら側の世界へと来たならば、なるほど、勇者となるヒト族が魔素を貯め込んで異常に強くなるわけだな。
それまでに触れることの無かった魔素という刺激を感じ取ることができたなら、鋭敏に魔素の振る舞いを知覚できることも頷ける。
生まれ落ちる前から母体の体内で魔素を得ていたこちら側の生物では考えられない速度で、勇者が強くなることにも説明がつく。
あれ・・・?
これ、とても不味いことなんじゃあ?
原石の時点で飛び抜けたイカレっぷりを見せたアレを思って、頭から一気に血の気が引いた。
我は、とんでもないモノを、喚び込んでしまったのではないか?
あのキチ〇イが、一端の勇者に育ったら、どれほどのイカレた勇者になるのか、想像もつかん。
逃げるか? どこへ!?
ヒト種の領域へ逃げても、〇チガイどもが来やすいだけじゃ?
魔族種の領域へ逃げても、喜んで軍勢を差し向けられることじゃろう。
森を越えた向こうの龍族の領域へ帰っても、ひっきりなしに序列戦を挑まれて気が休まることが無い。
塒のある山脈だけが、我に残された最後の安息の地だったのに、逃げ延びる先が無い。
絶望的な未来を予感して、翼から力が抜けそうになった。
よろよろと頼りなく飛びながら、ようやく、はっきりと黙視できるようになった塒の山へと、高度を落としてゆく。
我が牙の如く鋭い頂きを雲の上に覗かせた、この急峻こそが、ヒトも獣も魔も容易に寄せ付けぬ我が棲み家だ。
最後に大きく翼をはためかせ、数千年前に山が爆ぜたときに出来たらしい古い岩棚へと着地して、一息吐く。
岩棚に顎を開いた洞を抜けると、我の留守中に不遜な“ミミズ”が塒へ入り込んでいたので、問答無用で叩き出してやった。
またしても塒の床に大穴を掘り開けおって・・・。
あのバカ“ミミズ”は定期的に我へ挑みに来る面倒くさい奴なのじゃが、お前に構ってやる暇など無いわ。
まったく・・・、何故、あんな奴等ばかりが寄ってくるのか。
空間術式で消耗した魔素を回復せねばならんと言うのに、無駄な魔素を使わせおって。
床に空いた大穴を睨めば枯れ葉のような色の魔方陣が組み上げられ、土術式が発動した。
ズズズ、と低い地鳴りを響かせて、大穴が塞がる。
役目を終えた魔方陣が消え、静かになった塒に力無く蹲って溜息を吐く。
瞼を閉じて、精霊に祈る。
どうか、あのキチガ〇が来ませんように!!
間章②です。
※龍族の認識とヒト族の認識が完全に同一とは限りません!(種族が違いますので
次回、新章、第3章が始まります!