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不治のユラ~花屋のゆるふわ殺し屋お姉さんとの逃避行~  作者: 硝子玉の宇宙


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20/20

夜の海で

 船に乗って、二日ほど経った。


 出港したときは、部屋の中にいた。

 低い音が床から伝わり、机の上の水が揺れた。お姉さんと顔を見合わせて、それから、しばらく耳を澄ませた。


 外がどうなっているのかは、見えなかった。


 リヴィヤは約束どおり、食事を持ってきてくれた。

 水も、替えの布も。

 そのたびに先に名乗り、ぼくが鍵を開けるまで待っていた。


 ぼくたちは、部屋で過ごした。


 左手首の腫れは少し引いた。

 脇腹は、寝台から起き上がるときにまだ痛んだ。


 お姉さんは、ぼくの隣で服を繕ったり、うとうとしたりしていた。

 退屈ではないかと聞いたら、ぼくくんがいるから、と言った。


 ぼくも、嫌ではなかった。


 ただ、廊下を誰かが通るたび、話をやめる。

 足音が遠ざかるまで待って、さっき何を話していたか思い出す。


 そうしているうちに、二度目の夜になった。


 *


 ノックの音がした。


 ぼくは顔を上げた。

 お姉さんが寝台の上で、畳んでいた服から手を離す。


「開けろ」


 低い声だった。


 リヴィヤなら、先に名乗るはずだった。


 ぼくはお姉さんへ指を立てた。

 返事をしないで、と。


 がちゃがちゃと、ノブが回った。


「開けろ」


 ぼくは立ち上がった。


 ゆっくり、気配を消す。

 寝台を離れ、床の軋まない場所へ足を置いた。


 お姉さんが動きかけたので、手で止めた。


 扉の向こうで、金属の触れ合う音がした。


 鍵。


 ぼくは右手に魔力を集めた。


 逃げる場所はない。

 窓もない。出るには、あの扉を通るしかない。


 鍵が回った。


 短い魔力刃を作り、扉の脇へ身を寄せた。


 カチャッと、ノブが下がる。


 扉が開いた。


「俺でした」


 刃を止めた。


 リヴィヤの頬のすぐ横で、光が細く揺れた。

 あと少し動かせば、皮膚に触れる。


 リヴィヤは、目だけを刃へ向けた。


「おお」


 ぼくは息を止めたまま、その顔を見ていた。


 知っている顔だった。

 にやにやしていた。


「……入ってください」


 刃を消した。


 リヴィヤの袖を掴み、ゆっくり部屋へ入れた。

 廊下に誰もいないことを確かめる。


 扉を閉めた。

 鍵も掛けた。


 それから、振り返った。


「ころ、殺すところでしたけど!?」


「あっはっはっはっは!」


「笑わないでください!」


 声を抑えようとして、変なところに力が入った。

 右手が、まだ固まっていた。


「先に名乗るって、言いましたよね!?」


「言ったな」


「じゃあ、名乗ってくださいよ!」


「いい反応するなあ、おまえ」


「反応じゃないです! 本当に!」


 指を開いた。

 閉じた。

 刃はもうないのに、止めた場所が手に残っている。


 お姉さんも、寝台から身を乗り出した。


「もー! リヴィヤのいじわる!」


「悪い悪い。ちょっと驚かせようと思って」


「ちょっとじゃありません」


 リヴィヤは笑いを噛み殺していた。


 ほんとに。

 殺し屋って、こんなのばっかなの?


 ジェラーも変だし。


 どんなお姉さんでも大好きだとは言った。

 お姉さん以外が同じことをしても、許すとは言っていない。


「次は、止められないかもしれませんよ」


「わかった。次から名乗る」


「最初から、そういう約束でした」


「はい。すみませんでした」


 リヴィヤが両手を上げた。


 ぼくは睨んだまま、寝台の端へ戻った。

 お姉さんが右手を取って、指先を撫でてくれた。


「びっくりしたねえ」


「……しました」


 お姉さんが同じことをしても、やっぱり怒ると思う。


 リヴィヤは机へ腰を預けた。

 まだ、口元が笑っていた。


「なあ、俺、いま当直が終わったんだよ。少し、海でも見に行かね?」


「話、変えましたね」


「変えた」


 腹が立つ。


「船橋には次の当直がいるけど、ほかはだいたい休んでる。船仕事は身体が資本だからな」


「さっき、廊下に誰か来たらどうしたんですか」


「見てからやってるよ」


「ぼくには、わかりません」


「だから、悪かったって」


 リヴィヤは頭を掻いた。


「二日もここに籠もってたんだ。ちょっと風に当たるくらい、どうだ?」


 お姉さんの顔が上がった。


「行きたい」


 即答だった。


 ぼくはお姉さんを見た。


「……勝手に出ないって」


「勝手じゃないよ。誘ってもらったんだもん」


 リヴィヤが頷く。


「俺が連れてく。長居はなしだぞ」


「見つかりませんか」


「絶対とは言わねえ。移動中は、おまえの隠密を頼む。誰か来たら戻ろう」


 お姉さんが、ぼくの手を握ったまま覗き込んできた。


「ぼくくんは、見たくない?」


 見たかった。


 港で見た海の、その先。

 船が二日も進んだ場所がどうなっているのか、知りたかった。


「……少しだけなら」


「やった」


 お姉さんが立ち上がった。


「上着、着ろよ。風あるぞ」


「はあい」


 リヴィヤが壁の上着を取った。

 お姉さんへ渡して、それから、ぼくへ目を向ける。


「歩けるか?」


「歩けます」


「よし」


 普通に迎えに来れば、それで済んだのに。


 *


 廊下は静かだった。


 ぼくたちは姿を隠し、リヴィヤの後ろを歩いた。

 灯りの下を通るたび、壁や床に影が落ちていないか確かめた。


 階段の途中で、冷たい風が頬に触れた。


 先に上がったリヴィヤが扉を押さえる。

 お姉さんが通り、ぼくもその後へ続いた。


 空があった。


 足が止まった。


 部屋の天井に慣れていたせいか、頭の上に何もないことが、変な感じだった。

 暗い空に、星がいくつも見えた。


「こっちだ」


 リヴィヤが小さく呼んだ。


 甲板の端ではなく、船室の壁沿いを進む。

 積まれた用具の脇を抜けたところで、海が見えた。


 黒かった。


 港で見たときには、建物も、船も、岸もあった。

 いまは、向こうに何もない。


 波の上を月の光が細かく動いていた。

 船のそばでは、白い泡が次々に後ろへ流れていく。


「ここで少しだけな」


 リヴィヤが、手すりの内側を指した。


 ぼくは周りを確かめてから、隠密を解いた。


 お姉さんの髪が、風に持ち上がった。

 片手で押さえながら、海を見ている。


「わあ……」


 声が、そのまま風に混じった。


 ぼくも手すりへ近づいた。

 右手で掴むと、冷たかった。


「落ちんなよ」


「落ちません」


「ユラにも言ってる」


「落ちないよぉ」


 お姉さんは、少し伸ばしていた首を引っ込めた。


 リヴィヤが笑った。

 今度は、ぼくも少しだけ笑ってしまった。


「……リヴィヤさん」


「ん?」


「連れてきてくれて、ありがとうございます」


「おう」


「さっきのは、まだ怒ってます」


 リヴィヤが吹き出した。


「別勘定か」


「別です」


「わかったよ」


 リヴィヤは、船内へ続く通路のほうへ目を向けた。


「俺、そっちにいるから」


 親指で少し離れた壁際を示し、歩いていった。


 お姉さんと並んで、海へ向き直った。


 風が服を押す。

 床がゆっくり傾き、ぼくは手すりを握り直した。


「寒い?」


「少し」


 お姉さんが、風の来る側へ寄った。

 借りた上着の袖が、ぼくの肩に触れた。


「戻る?」


「まだ、いいです」


 お姉さんは頷いて、隣にいた。


 波の音が続いていた。

 手すりの下で白く崩れ、船から離れると、暗くて見えなくなった。


「もう、町は見えませんね」


「うん。ずいぶん遠くまで来たねえ」


 お姉さんも、海の向こうを見ていた。


 花屋へ通っていた頃、こんなところまで来るとは思わなかった。

 仕事が終わったら店へ行って、花を選ぶ。お姉さんが話しかけてくれる。

 次の日も、そうするつもりだった。


「……お姉さんと、海に来るなんて」


「思わなかった?」


「はい」


「わたしも」


 お姉さんが、小さく笑った。


「ぼくくん、お花を見て帰っちゃうんだもん」


「仕事の邪魔になるかと思って」


「もうちょっと、いてもよかったのに」


 ぼくは、お姉さんを見上げた。

 髪を耳に掛けて、また海を見ている。


 そう言ってくれれば、いたのに。

 でも、ぼくだって、もう少しいたいとは言わなかった。


 手すりを掴んでいた右手を離した。

 隣にある手に触れると、お姉さんの指が、ぼくの指の間へ入ってきた。


「いまは、一緒ですね」


「うん」


 それから、二人とも黙った。


 月の光が、遠くの波にも届いていた。

 ぼくはお姉さんの手を握ったまま、その先を眺めていた。

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