夜の海で
船に乗って、二日ほど経った。
出港したときは、部屋の中にいた。
低い音が床から伝わり、机の上の水が揺れた。お姉さんと顔を見合わせて、それから、しばらく耳を澄ませた。
外がどうなっているのかは、見えなかった。
リヴィヤは約束どおり、食事を持ってきてくれた。
水も、替えの布も。
そのたびに先に名乗り、ぼくが鍵を開けるまで待っていた。
ぼくたちは、部屋で過ごした。
左手首の腫れは少し引いた。
脇腹は、寝台から起き上がるときにまだ痛んだ。
お姉さんは、ぼくの隣で服を繕ったり、うとうとしたりしていた。
退屈ではないかと聞いたら、ぼくくんがいるから、と言った。
ぼくも、嫌ではなかった。
ただ、廊下を誰かが通るたび、話をやめる。
足音が遠ざかるまで待って、さっき何を話していたか思い出す。
そうしているうちに、二度目の夜になった。
*
ノックの音がした。
ぼくは顔を上げた。
お姉さんが寝台の上で、畳んでいた服から手を離す。
「開けろ」
低い声だった。
リヴィヤなら、先に名乗るはずだった。
ぼくはお姉さんへ指を立てた。
返事をしないで、と。
がちゃがちゃと、ノブが回った。
「開けろ」
ぼくは立ち上がった。
ゆっくり、気配を消す。
寝台を離れ、床の軋まない場所へ足を置いた。
お姉さんが動きかけたので、手で止めた。
扉の向こうで、金属の触れ合う音がした。
鍵。
ぼくは右手に魔力を集めた。
逃げる場所はない。
窓もない。出るには、あの扉を通るしかない。
鍵が回った。
短い魔力刃を作り、扉の脇へ身を寄せた。
カチャッと、ノブが下がる。
扉が開いた。
「俺でした」
刃を止めた。
リヴィヤの頬のすぐ横で、光が細く揺れた。
あと少し動かせば、皮膚に触れる。
リヴィヤは、目だけを刃へ向けた。
「おお」
ぼくは息を止めたまま、その顔を見ていた。
知っている顔だった。
にやにやしていた。
「……入ってください」
刃を消した。
リヴィヤの袖を掴み、ゆっくり部屋へ入れた。
廊下に誰もいないことを確かめる。
扉を閉めた。
鍵も掛けた。
それから、振り返った。
「ころ、殺すところでしたけど!?」
「あっはっはっはっは!」
「笑わないでください!」
声を抑えようとして、変なところに力が入った。
右手が、まだ固まっていた。
「先に名乗るって、言いましたよね!?」
「言ったな」
「じゃあ、名乗ってくださいよ!」
「いい反応するなあ、おまえ」
「反応じゃないです! 本当に!」
指を開いた。
閉じた。
刃はもうないのに、止めた場所が手に残っている。
お姉さんも、寝台から身を乗り出した。
「もー! リヴィヤのいじわる!」
「悪い悪い。ちょっと驚かせようと思って」
「ちょっとじゃありません」
リヴィヤは笑いを噛み殺していた。
ほんとに。
殺し屋って、こんなのばっかなの?
ジェラーも変だし。
どんなお姉さんでも大好きだとは言った。
お姉さん以外が同じことをしても、許すとは言っていない。
「次は、止められないかもしれませんよ」
「わかった。次から名乗る」
「最初から、そういう約束でした」
「はい。すみませんでした」
リヴィヤが両手を上げた。
ぼくは睨んだまま、寝台の端へ戻った。
お姉さんが右手を取って、指先を撫でてくれた。
「びっくりしたねえ」
「……しました」
お姉さんが同じことをしても、やっぱり怒ると思う。
リヴィヤは机へ腰を預けた。
まだ、口元が笑っていた。
「なあ、俺、いま当直が終わったんだよ。少し、海でも見に行かね?」
「話、変えましたね」
「変えた」
腹が立つ。
「船橋には次の当直がいるけど、ほかはだいたい休んでる。船仕事は身体が資本だからな」
「さっき、廊下に誰か来たらどうしたんですか」
「見てからやってるよ」
「ぼくには、わかりません」
「だから、悪かったって」
リヴィヤは頭を掻いた。
「二日もここに籠もってたんだ。ちょっと風に当たるくらい、どうだ?」
お姉さんの顔が上がった。
「行きたい」
即答だった。
ぼくはお姉さんを見た。
「……勝手に出ないって」
「勝手じゃないよ。誘ってもらったんだもん」
リヴィヤが頷く。
「俺が連れてく。長居はなしだぞ」
「見つかりませんか」
「絶対とは言わねえ。移動中は、おまえの隠密を頼む。誰か来たら戻ろう」
お姉さんが、ぼくの手を握ったまま覗き込んできた。
「ぼくくんは、見たくない?」
見たかった。
港で見た海の、その先。
船が二日も進んだ場所がどうなっているのか、知りたかった。
「……少しだけなら」
「やった」
お姉さんが立ち上がった。
「上着、着ろよ。風あるぞ」
「はあい」
リヴィヤが壁の上着を取った。
お姉さんへ渡して、それから、ぼくへ目を向ける。
「歩けるか?」
「歩けます」
「よし」
普通に迎えに来れば、それで済んだのに。
*
廊下は静かだった。
ぼくたちは姿を隠し、リヴィヤの後ろを歩いた。
灯りの下を通るたび、壁や床に影が落ちていないか確かめた。
階段の途中で、冷たい風が頬に触れた。
先に上がったリヴィヤが扉を押さえる。
お姉さんが通り、ぼくもその後へ続いた。
空があった。
足が止まった。
部屋の天井に慣れていたせいか、頭の上に何もないことが、変な感じだった。
暗い空に、星がいくつも見えた。
「こっちだ」
リヴィヤが小さく呼んだ。
甲板の端ではなく、船室の壁沿いを進む。
積まれた用具の脇を抜けたところで、海が見えた。
黒かった。
港で見たときには、建物も、船も、岸もあった。
いまは、向こうに何もない。
波の上を月の光が細かく動いていた。
船のそばでは、白い泡が次々に後ろへ流れていく。
「ここで少しだけな」
リヴィヤが、手すりの内側を指した。
ぼくは周りを確かめてから、隠密を解いた。
お姉さんの髪が、風に持ち上がった。
片手で押さえながら、海を見ている。
「わあ……」
声が、そのまま風に混じった。
ぼくも手すりへ近づいた。
右手で掴むと、冷たかった。
「落ちんなよ」
「落ちません」
「ユラにも言ってる」
「落ちないよぉ」
お姉さんは、少し伸ばしていた首を引っ込めた。
リヴィヤが笑った。
今度は、ぼくも少しだけ笑ってしまった。
「……リヴィヤさん」
「ん?」
「連れてきてくれて、ありがとうございます」
「おう」
「さっきのは、まだ怒ってます」
リヴィヤが吹き出した。
「別勘定か」
「別です」
「わかったよ」
リヴィヤは、船内へ続く通路のほうへ目を向けた。
「俺、そっちにいるから」
親指で少し離れた壁際を示し、歩いていった。
お姉さんと並んで、海へ向き直った。
風が服を押す。
床がゆっくり傾き、ぼくは手すりを握り直した。
「寒い?」
「少し」
お姉さんが、風の来る側へ寄った。
借りた上着の袖が、ぼくの肩に触れた。
「戻る?」
「まだ、いいです」
お姉さんは頷いて、隣にいた。
波の音が続いていた。
手すりの下で白く崩れ、船から離れると、暗くて見えなくなった。
「もう、町は見えませんね」
「うん。ずいぶん遠くまで来たねえ」
お姉さんも、海の向こうを見ていた。
花屋へ通っていた頃、こんなところまで来るとは思わなかった。
仕事が終わったら店へ行って、花を選ぶ。お姉さんが話しかけてくれる。
次の日も、そうするつもりだった。
「……お姉さんと、海に来るなんて」
「思わなかった?」
「はい」
「わたしも」
お姉さんが、小さく笑った。
「ぼくくん、お花を見て帰っちゃうんだもん」
「仕事の邪魔になるかと思って」
「もうちょっと、いてもよかったのに」
ぼくは、お姉さんを見上げた。
髪を耳に掛けて、また海を見ている。
そう言ってくれれば、いたのに。
でも、ぼくだって、もう少しいたいとは言わなかった。
手すりを掴んでいた右手を離した。
隣にある手に触れると、お姉さんの指が、ぼくの指の間へ入ってきた。
「いまは、一緒ですね」
「うん」
それから、二人とも黙った。
月の光が、遠くの波にも届いていた。
ぼくはお姉さんの手を握ったまま、その先を眺めていた。




