7話 〜そして少女は見知らぬ村に辿り着く
道を北へと進んでいくと、途中で東に曲がりはしたが、その後緩やかに西へ向かっていった。このまま村へ戻ってしまうのではないかとアストリッドは一時不安になったものの、「もう少し進めば変化が訪れるかもしれない」というエイリクの言葉を信じて進んだところ、本当にその通りになったので安堵の笑みを浮かべた。
森の中とは違い、道は歩きやすい。木の根っこに躓く心配がほとんど無い。虫を踏んでしまう心配もだ。しかし他者とすれ違う心配がある。エイリクの「ここはよく馬車が通るのだろう」という話を聞いてから、アストリッドはもし誰かと出会ったら一体どうすればいいのだろうかと悩みだした。全く知らない人と出会ったら……。
「怒られちゃったら、どうしよう……」
「怒る? 君は何の心配をしているのかね?」
「だって、私、魔女だし……子供が勝手に村の外に出ちゃ、いけないし……」
通りかかった人が自分を魔女だと見抜いたら。村の外にいることを怒ってきたら……。そんな不安がアストリッドの中で渦巻く。たとえ今誰かと出会わなかったとしても、この先に存在しているであろう名も知らぬ村に着けば、嫌でもエイリクと二人きりではない状況に身を置くことになる。そのことにも気づいて、アストリッドの心は不安でいっぱいだった。
それに対しエイリクは、彼女の不安を吹き飛ばすように笑い声を上げた。
「今更そのような心配かね。安心したまえ。君の隣には私がいる。魔女よりも余程恐ろしい存在である私が」
「恐ろしい……?」
アストリッドが首を捻ると、エイリクはくつくつと笑う。
「悪魔だぞ悪魔。君がかっこいいと言ったこの角も、恐怖の象徴だ。罵声を浴びるのはまずこの私だろう。くくっ。相手にそれだけの勇気があればの話だがな」
「……?」
どうしてエイリクが先に罵られることになるのか、どうして相手に勇気が必要なのか。アストリッドにはいまいち理解ができなかった。
「君は私に好意的だから想像ができないのだろうが……まぁ、そうだな。乱暴に言えば君の感じた不安と似たようなものだ。今の時代の人間たちにとって、私は悪魔だ。悪魔は存在してはならない者だ。他者が私の姿を認めれば、あっちへ行けと追い払おうとする。これなら理解できるかね」
アストリッドは小さく頷き、そのまま俯いた。まるで村にいた時の私だ。そこにいるのにいないように扱われたり、邪魔だと目で言ってきたり――
「しかし悪魔は魔女以上の嫌われ者だ」
はっとアストリッドはエイリクを見上げた。エイリクの表情は陰になっていてよく見えなかったが、瞳だけは暗い光が灯っていた。
「悪魔は魔女に力を与える者だとも思われている。魔女は一応人間ではあるが、悪魔はそうではない。人智の及ばぬ力を使う厄介者。人を堕落へ誘う大悪党。それが目の前に現れてみたまえ。常人であれば泣き叫ぶか神に助けを乞うことくらいしかできなかろうよ。下手に刺激を与えれば己に返ってくることになりかねんからな」
「……」
アストリッドは何と返すべきか暫し迷い、悩み、エイリクの外套をきゅっと掴んで彼を見上げた。
「でも、エイリクが、神様だよ」
戸惑う彼女の瞳に何を思ったのか。古の神は微かに笑みを浮かべると、外套を掴む少女の手を取って跪いた。
「ありがとう、アストリッド。だが、わかっているだろう。今の私は君ただ一人のための神だ。他の者の神ではない。私のことを正しく理解している者が他にもいるのであれば話は別だが、そのような者は簡単には見つかるまい。それに――」
神はその御手に掴んだ小さな手を、己の口元にまで近づけた。
「私には君がいればそれで十分だ。君が傍にいてくれさえすればいい。……君もそうだろう、アストリッド」
「……うん」
自分を見つめる両の月に惑わされながら、アストリッドは頷いた。なんだか胸がざわざわする。どうしてだろうと考えるが、よくわからない。もしかしてエイリクを怒らせるようなことを言ってしまった? わからない。けれど、エイリクが立ち上がり様に「いい子だ」と言って頭を撫でてくれたから、そんな悩みもどうでもよくなった。
それからまた暫くはお喋りをしながら歩き続けた。エイリクは昔の食べ物についてあれこれ語った。彼やその仲間たちが神としてこの地を支配し始めた時は、木の実や果実をそのまま食べるか、捕らえた獲物の肉を捌いて焼いて食べる、といった簡素なものが多かったらしい。だが時代が進む毎に新たな調理方法が発明され、料理の種類も格段に増えていった。同時に食べ物を保存する方法も徐々に確立されていき、冬場に餓死した人が前年よりも一人でも減ると神様たちで喜び合った。しかし年によっては不作で食糧を十分に貯えることができなかったり、流行り病のせいで死者が増えたりと、必ずしも年を追う毎に改善されていったわけではなかった。だからこそ、長い冬を乗り越えた後は誰もが喜びを分かち合い、死んだ者たちを皆で悼んだ。
「……ああ、すまない。食べ物の話からだいぶ逸れてしまったね」
「ううん。知らない話をいっぱい聞けるの、嬉しい」
「そう言ってもらえると私も嬉しいよ。実に語り甲斐がある」
アストリッドにとって、エイリクの話は一人で本を読むのとは全く別の面白味があった。当たり前だと思っていたことの成り立ちを知ることができたり、彼が経験したことが彼自身の口から語られるので実感が伴っているし、何よりもわからないことがあればすぐに尋ねることができて、尚且つすぐにその返答がくる。これは本ではできないことだ。
村に着いたらどんな料理が食べたいかを交代で挙げながら進んでいると、やがて遠くの方に建物の屋根と思しきものが見えてきた。人里が近づいてきた証拠だ。煙の出ている煙突もいくつもある。
アストリッドはまた不安になって、エイリクに近づいて彼の背に隠れるようにしながら外套を掴んだ。知らない村、知らない人たち。誰にどんなことを言われるのかもわからない……。ある意味森よりも未知に溢れ、そこかしこに恐怖が待ち受けているように感じる。
エイリクも、ただ言葉を並べ立てて安心させようとするだけでは無意味だと理解しているのだろう。彼女の手を外套からゆっくり離すと、逆にその内側へと招き入れた。外套の中にすっぽり収まったアストリッドは、その温もりで不安が少しずつ解けていくのを感じた。
アストリッドの小さな背中に、エイリクの大きな手のひらが添えられる。
「大丈夫だ。君は一人ではない」
「うん」
「では行こうか。温かい食事でも食べに」
「うん」
ゆっくりと、一歩ずつ。二人は未知へと進んでいく。
次第に木々が少なくなり、代わりに畑が見えてきた。収穫されるのを待ち望む野菜たちの葉が風に靡かれる姿は、どこか気持ちよさそうに見える。畑仕事に精を出す人たちもいるが、少し距離があるためか気づかれることもなく、幸いにも騒ぎにならずに済んだ。
しかしそれもこの場限りのこと。
二人が家々の立ち並ぶ区画まで行けば、当然ながらこの村に住まう人々が道を行き交っており、二人の姿を――特にエイリクの頭に生えているものを認めた村人たちが絶叫を上げ始めた。
「歓待にしては喧しいな」
ある者は泣き、ある者は叫び、ある者は神に助けを求め、ある者は許しを請い、背中に隠れたアストリッドが顔を歪め耳を塞ぐ中、喧騒の原因たるエイリクは悠然と笑みを浮かべた。
「彼女が怯えているようなのでね。少々静かにしてくれたまえ」
パチン――
目の覚めるような音がしたかと思うと、途端に静寂が訪れた。風に乗ってどこからか鳥の歌声が聴こえてくる程度で、先程までの騒がしさが嘘のように消え去った。
「何をしたの?」
外套の中から恐る恐る顔を出しながらアストリッドが訊ねた。騒いでいた村人たちの口は、縫い付けられたかのように塞がっている。
「見ての通りだ、アストリッド。宴の席ならば構わないのだが、そうではない時に騒がれるのは耳障りなだけなのでね。静かにしてもらったのだよ。君もうるさいのは好まないだろう?」
「うん」
アストリッドはエイリクに向けて頷いて、また村人たちの姿を見た。彼らは口を塞がれているだけではなく、身体の動かし方を忘れてしまったかのように、騒いでいた時の格好のまま固まっている。ただし顔だけは皆一様に恐怖の色を浮かべていた。
その異様さを見つめながら、アストリッドはちょっと怖いなと感じた。誰も喋ってはいないのに、誰も彼もが非難めいた視線を寄越すのだ。静かなのに、うるさい。
――しんじゃえばいいのに。
アストリッドは沸き立つ怒りを抑え込み、早くここを離れたい一心で泰然自若としているエイリクを急かした。
「エイリク。お腹、空いた」
「ああ、すまない。そうだな。まずは食事だ。食堂へ行くとしよう。……そこの君、少しいいかね」
エイリクが近くにいた青年に話し掛けた。青年は恐怖の色を一層濃くさせ、開くことができない口の代わりに鼻息を荒くして呼吸をしていた。
「食堂の場所を教えてくれたまえ」
「二つ目の十字路を右に曲がった先にある、赤い屋根の建物」
エイリクが尋ねると、青年は先程まで口が塞がり恐怖していたのが嘘かのようにするすると場所を答えた。そのことにアストリッドも驚いたが、青年自身が一番驚き、今起きたことが信じられないとでも言うように目を見開いていた。
「貴卿の協力に感謝しよう。さて、行こうかアストリッド」
しかしそれ以上はやはり喋ることができなかった。青年の口はまた塞がり、今しがた教えた道をゆっくりと歩いていく招かれざるべき者たちの姿を横目で見ることしかできなかった。
この場にいた村人たちが再度身体も口も動かせるようになったのは、二人の来訪者が食堂の中へと姿を消した後だった。また、その時には「旅人たちに食堂までの道のりを教えた」という事実のみが村人たちの記憶に残り、彼らはまたいつも通りの日常を過ごし始めた。




