プロローグ ~そして少女は神と出会う
死にたいと、願った。
「この女、アストリッドを魔女と認定し、火刑に処すものとする!」
男の言葉に民衆が歓喜する。丸太に縛られ、後は火がくべられるのを待つのみとなった魔女に、罵声と石を投げつける。そんな民衆の無邪気さに、魔女はうっすらと笑みを浮かべた。民衆はそのおぞましさにより一層強く石を投げつけ、声を張り上げ嫌悪感を露わにする。
魔女は悪である。魔女は神に逆らい世を乱す存在である。魔女は人の姿を模し、人を惑わす悪魔である。故に罵声や石を人に投げつけることを神が禁じていても、相手が魔女である限りは許されるのである。
魔女の足元に広がる薪に火がつけられた。民衆が歓声を上げる。火はすぐに魔女の足に届いた。民衆は魔女が苦しむ様を見逃すまいと目を見開く。火が魔女の身体を舐めるように這い上がっていく。民衆はいい気味だと口々に罵る。
それでも魔女は、うっすらと笑みを浮かべるだけだった。
――ああ、これでやっと一人になれる。
魔女は一人きりになることを望んでいた。それが己の死を以てして叶うのであれば本望だ。口煩い民衆が自分の目の前から消えてくれるのであれば、その方法は何でもいい。
ほう。手段は問わないのか。
「……?」
魔女の口角が下がる。誰かの声が、はっきりと耳元に届いた。民衆の歓声よりも、炎の燃える音よりも、鮮明に。
こうは思わないかね。不信心者どもこそが焼かれるべきだ、と。
「…………」
魔女は考えあぐねた。姿の見えない男の声は、村人の誰のものでもない。湖の底の底から湧き出るような低く深い声など初めて聴いた。そもそも両親が死んでから、自分に好意的に接してきた人などいない。己に向けられる声には全て負の感情が混ざっていた。しかしこの声にはそれが感じられない。
ははは。それはそうだろう。私が君に負の感情を押し付ける理由が無いのだから。
どうして。と魔女が心の中で問うと、男の声は柔らかに語り始めた。
私は君に感謝しているのだよ。私の国を荒し、私の国を奪い、私の国を滅ぼした愚かな人間どもの子孫でありながら、彼らにとっての正しい歴史に疑問を持ち、知識を欲し、己が手で調べ、私に辿り着いた君に。
それじゃあ、あなたは。
そうとも。君が辿り着いた答え。君が求める力。君が望む世界を与える者。それが私だ。
「………………」
魔女は深く息を吸った。炎は既に全身を覆っている。焼かれているのがただの人であれば悶え苦しみ泣き叫び、犯してもいない己の罪を自供しお願いだから助けてくれと懇願しているところである。しかし魔女は平然と呼吸をしている。魔女が魔女であるが故に。
さあ、本当の願いを口にしたまえ。君にはその権利がある。――生きたいのだろう?
「……………………」
死にたいと、願ったはずだった。
これでやっと一人になれると、安堵したはずだった。
でもそれは、
さあ、世界に見せつけてやりたまえ。君の生き様を。
本心ではなかった。
魔女は唇を湿らせると、ゆっくりと小さな声で願いを口にした。
「……生きたい。私は生きたい。代わりにあの人たちを地獄に送って。私をここから連れ出して。――エイリク」
「承知した」
この国において口に出すことを禁じられた悪魔の名を、かつてこの地で栄えた国の神の御名を、魔女が、少女アストリッドが紡ぐと、彼女に纏わりついていた炎が瞬時に燃え広がった。魔女を地獄へと送るはずだった炎が侵略者の子供たちを焼く。かつて彼らの先祖がこの地の人々にそうしたように。
アストリッドの前に黒衣の男が忽然と現れた。少女に背を向けて立つ彼は、両腕を広げると呵々と笑った。
「ごきげんよう、諸君! 火に炙られる感触はどうだね。熱いか。痛いか。苦しいか。他者にこの苦しみを味わわせることに貴卿らの良心は痛まなかったのかね? 何とも嘆かわしいことだ。その身を以て貴卿らの犯した罪の重さを味わうがよい」
黒衣の男の言葉に耳を傾けているのはアストリッドしかいない。炎に身を包まれた民衆たちは泣き喚くばかりで、男の出現に気づいた者の方が少ない。気づいていても、既にまともに話を聞ける状態ではない。男が現れたことの意味を理解する暇もなく、四肢が焼け焦げ、命の灯火が吹き消されるのみ。
少女の願いが達成されるのに掛かった時間は、星の瞬きほどの短さだった。
黒衣の男が緩慢な動作で少女と向き合う。アストリッドの瞳が映したのは、まるで夜の国から訪れたかのような男の姿だった。新月の夜空を切り取った分厚い外套。盗み取った一番星の襟飾り。夜中にさざ波を立てる湖面の如き波打つ灰色の髪。
そして何よりも特徴的なのが、両の側頭部より生える捻じれた形の黒い角。そして皺の刻まれた顔に浮かぶ二つの月。遍く人々の真の姿を照らし出す、慈愛と狂気に満ちた月の光がそこに灯っていた。
両の月が細められる。
「君かね、私を呼んだのは」
アストリッドは月光に魅入られながら頷いた。夜の男は愉快そうに唇を持ち上げる。
「君のように聡明な子に必要とされるとは嬉しい限りだ。名乗りは不要だろうが、ここはやはり礼儀としてすべきであろう。私はかつてこの地に栄えた国で崇められし夜を支配する神。人々を眠りに誘う者。月の簒奪者、エイリクである」
夜の男エイリクは、アストリッドを迎え入れるように手を差し伸べた。
「さあ、君の名前も教えてくれたまえ。それで契約は完了する」
少女はエイリクの手をじっと見つめた。節くれだった大きな手は、これから私をどこへ誘ってくれるのか。久しく芽生えていなかった期待と好奇心、待ち受ける未知への幾ばくかの不安を抱え己の手を伸ばす。
「私はアストリッド。私は、――っ!?」
エイリクがアストリッドの手を掴んで彼女の身体ごと引き寄せた。たったそれだけで彼女を縛っていた縄がするすると解け、囚われの魔女が自由の身となる。
アストリッドは外套に隠されるようにエイリクに抱き留められた。何事か言いかけたアストリッドの口を、彼は空いた手の人差し指で塞ぐ。
「名前だけで結構。君が何者であるか? それはこれから君自身が選択していくことだ。ここで転がっている者たちに定められた唾棄すべき運命を受け入れる気かね? そうではないだろう、君の求めるものは」
男の口が三日月のような笑みを形作る。
「君は確かに魔女だ。だが彼らの言う〝魔女〟とは訳が違う。人に仇なし厄災を振りまく悪しき存在。そのようなものは、彼らにとって都合の悪いものを魔女という幻想に押しつけているだけにすぎない」
アストリッドの唇から指が離される。
「知りたくはないかね。神がこの世を支配していた遥か昔。魔女がどのような役割を担っていたのかを。神々と魔女の関係を」
アストリッドの身体が地面に下ろされた。
「さあ、物語を始めよう。君の旅と、私の昔話を。安心したまえ。どちらも長いのだから、すぐに尽きることはない」




