第16話 イグニス
◆ side. リゼット
魔法名を唱えると、それだけでわたくしの全身を包むように炎が巻き起こる。
本来であれば、魔法名を唱える必要すらない。それだけ、この魔法とわたくしは密接な関係にある。
やがて炎の一部は、右手に持つ剣へ収束し、刃が灼熱を帯びた。
「忌々しい。結局、この魔法に頼るのね……」
わたくしの憤りを感じ取ったかのように、炎がメラメラとその熱を上げる。
わたくしが何の工夫もない横合いの一閃を繰り出すと、あれほど硬く感じたモンスターの身体をたやすく切り裂いた――。
火属性付与魔法、イグニス。
わたくしが、扱える唯一の魔法。そして、世界でわたくしだけが唯一扱える魔法でもある。
イグニスという名の魔法は、代々ベルナール公爵家の当主に相応しいとされる人間が継承する魔法だった。
しかし、数代前の当主から突然その継承が途絶え、久しく扱えるものがいない記録上の魔法として忘れ去られていた。
そのはずだった――。
十年前、まだわたくしが6歳の時だ。その時は、唐突に訪れた。
何の前触れもなく、わたくしの身体から炎が溢れ出し、屋敷でボヤ騒ぎを起こしてしまった。
初めは悪戯か何かだと思われていたが、当時わたくしの世話係をしていた年配のメイド、エマだけは、その現象がただ事ではないことを見抜いていた。
彼女は、わたくしが物心ついた頃から傍に仕え、厳格な父や母とは違い、唯一わたくしが心から気を許せる存在だった。
「お嬢様、落ち着いて。大丈夫、大丈夫ですから」
能力に覚醒してから、時折暴走する炎に怯えるわたくしを、彼女はいつも優しい声で宥め、震える身体を抱きしめてくれた。
しかし、その優しさが、最悪の悲劇を引き起こす。
わたくしの感情の高ぶりに呼応するように、炎はさらに勢いを増し、その牙が、わたくしを庇うエマを襲った。
「――ッ⁉」
悲鳴すら上げず、彼女はただ歯を食いしばり、わたくしを炎から遠ざけようとする。
焼け爛れる肉の匂いが、今でも忘れられない。パニックに陥ったわたくしには、ただエマの腕を焦がす炎を見つめることしかできなかった。
結局、彼女は命こそ取り留めたものの、その腕には生涯消えぬ火傷の痕が残り、わたくしの世話係を続けることはできなくなった。
屋敷を去る日、彼女は「これは事故です。お嬢様のせいでは決してございません」と、最後までわたくしを庇ってくれた。
けれど、わたくしは見てしまったのだ。
わたくしに向けられる、彼女の優しい瞳の奥に、一瞬だけよぎった、隠しきれない恐怖の色を。
この力は――わたくしは、人を傷つける。大切な人ほど、遠ざけなければならない。
その日から、この炎は、わたくしにとって祝福ではなく、誰にも理解されぬ呪いとなった。
呪いを受け入れた今はもう、炎を恐れて泣きじゃくる少女などいない。
意のままに烈焔を制し、剣に宿した灼熱は敵を灰燼に帰す。
目の前のモンスターを消滅させるのに、もはや技など不要。
わたくしは、ただひたすらに剣を振るうのみ。
「――――キュ」
短い断末魔の後、わたくしたちを苦しめた未知のモンスターは黒霧となって消えた。
あまりにも呆気ない最後。
これまで二人がかりで、あんなものに必死になっていたことが嗤えてくる。
「初めから、こうしていれば良かったのよ」
自分に言い聞かせるようにそう呟いた瞬間、フロアの奥で空気がざわめいた。
気配を感じた次の瞬間、十を超えるモンスターの群れが雲霞のごとく押し寄せる。
「「「グォォオ!」」」
奴らは、地に膝をつくあの子を最初の獲物と定め、蜂の巣をつついたように一斉に群れをなして襲いかかった。
けれど――今のわたくしが、それを許すはずもない。
「どうせなら、この階層の全てのモンスターを引き連れてくれば良かったのだわ。そうすれば、これから先の手間も省けたのに」
言葉が通じるはずもないモンスターに文句を言いながら、一振りごとにその存在を消滅させていった。
このフロアを狩場と勘違いしてやってきた愚かな魔獣どもを蹂躙する。
(わたくしが、最強だ。わたくしこそが、最凶だ)
イグニスはわたくしの感情に呼応してその気炎を激しくする。激化するほどに、わたくしの精神もその煽りを受けて気性が荒くなった。
こんな自分が嫌で、この魔法を使う事を避けて来た。
(でも、今はもうそんなことどうでもいい!)
思う存分に力を振るい、単身でモンスターの群れを崩壊させていく暴力の愉悦が、わたくしの口元を歪めた。
(平民、貴方との時間、そう悪いものでは無かったわ。でも、もう終わり――もう、お前は必要ない)
まだ、忘れられない。
あのときエマが見せた、わたくしを恐れる目。
目の前に居る怪物に畏怖する人間の気配。
肌で感じるのだ、わたくしを拒絶する弱者の内なる悲鳴を。
(この姿を見れば、お前もどうせ、わたくしを恐れる。わたくしの前から去っていく)
そして、いつの間にか全ての魔物を狩り尽くしたわたくしは、視界の端に見つけた平民の元へゆっくりと歩み寄る。
いったいどんな目でわたくしを見ているのだろうか。
何の期待もなく、ただ彼女の目を見た。
――あの子は、射殺さんばかりの眼力でわたくしを凝視していた。
大きな瞳に今にも溢れそうなほど涙を浮かべ、悔しそうに血を滲ませながら唇を噛み締めるその表情に、恐怖などというものは一切ない。
まるで屈辱に耐えるような悔しそうな目で、このわたくしをただ静かに睨んでいた。
その涙に濡れた瞳の奥には、紅焔が宿っている――。
(どうして、そんな顔をするの? 貴方は……わたくしを、恐れないの?)
わからない。何を考えているのか、全く見えてこない。
でも、あの子はこれまで出会ってきた誰とも違うのだと、わたくしは今この瞬間に理解した。




