突然の来客
そのまましばらく動かなかったシンだったが、フウ、とため息をついたあと、私のほうに向き直った。
「そろそろ行かねえとだな。日が暮れちまう。タオル巻き直したか?」
「へい、バッチリ」
「へいってなんだよ、へいって。はあ、じゃあいくか」
今度は自然と、シンの手を握った。付き合いたての恋人の、甘酸っぱい感じの雰囲気をじわじわと感じながら、洞窟の入り口まで歩いていく。脱衣所で着替えを済ませ、船に乗り込む。あたりはすでに、夕焼けに包まれていた。
シンは船を操縦している間も、手を離してくれなかった。なんで離してくれないのか尋ねても、「いいだろ」としか言ってくれない。恥ずかしいような、くすぐったいような雰囲気に、なんだかそわそわしてしまう。
気を紛らわそうと、私は視線を船の外に移す。空に浮く城や海辺の町、そしてその奥にそびえる山脈が、夕日を浴びて、赤みを帯びている。こんな美しい風景を、好きな人と見られている状況に、胸がいっぱいになっている自分がいた。
船が桟橋に着き、陸に降り立った。少しよろよろするのは、しばらく船に乗っていたからかもしれない。家まで歩く間、シンが、愛おしそうに髪を撫でたり、急に立ち止まって抱きしめてきたりするおかげで、なかなか母屋までたどり着かなかった。
「好きな子と付き合えるって、こんなに嬉しいもんなんだな」
なんだか今日は、シンがかわいい。母性本能をくすぐるっていうのは、こういうことをいうのか。
(今晩……二人か……さっきのでもすごかったのに……もっとすごいことされちゃうの……)
先程の出来事を思いだして、顔から火が出そうだった。まもなく母屋につくというところで、シンが急に立ち止まった。
「ん……? どうしたの?」
険しい表情で前を見据えている。一体何があったというのか。
「なんで書記官共がうちに……?」
シンの視線の先をたどると、そこには――母屋の前に、部下と衛兵を連れ立ったエドワードがいた。
「おかえりなさい、ちえ。……と、シン、でしたかね? 仲睦まじい雰囲気のところ申し訳ないですが、ちえは、俺と一緒に来てもらいます」
「はあ? なんだってテメーに、ちえを渡さなきゃなんねんだよ。さっさと帰れ! ったく、人の家に大勢で押しかけやがって」
「テルメトスで、あなたがちえをここに連れて行ったと聞いたのでね。お二人からすると、突然のお誘いでしょうから――抵抗されることも考えて友人を連れてきました」
衛兵が腰に剣を携えているのが見て取れた。ここでシンがこれ以上突っかかれば、怪我をするかもしれない。
「エドワードさん、一体どういうことですか。いくらなんでも、説明なしに連行なんて、ひどすぎます。私がなにか罪を犯したんでしょうか」
「罪だなんて。今日は皇帝陛下の命令で参りました。皇帝陛下が、あなたを広報官としてご所望です」
耳慣れない「皇帝陛下」という言葉に、思考が止まった。
「え…なんで私を……?」
「詳しくは、王城でご説明します。――お友達を痛い目に合わせたくないなら――一緒に来ていただきましょうか」
いつもの柔和な雰囲気とは違う、圧を感じるエドワードの物言いに、本当にシンを傷つけるつもりだということが感じ取れた。
「……わかりました……。ご一緒しますから、シンには何もしないでください」
知らぬ間に後ろに回っていた衛兵が、シンの両腕を抑えていた。
「おい、ちえ、行く必要ねえって! 俺は大丈夫だから」
「シン、とりあえず行ってくる。暴れちゃだめだからね」
私はシンを諭すように言った。ここで暴れて逃げるのは、エドワードが高位の書記官であることを考えると得策ではないように思ったからだ。この国の皇帝がどんな人かは知らないが、抵抗することで反意があると取られるのは不本意だ。テルメトスの皆を始め、お世話になっている人たち皆に害が及ぶ可能性もある。
「馬車を用意しておりますので、ご案内します。では、シン、機会があればまた」
うしろ髪をひかれる気持ちで、エドワードの後ろをついていく。
私の名前をよぶシンの声を振り切るように、エドワードのあとについていった。
「よかったですね。大出世ですよ。今日は王城内のゲストルームをご用意いたします。服も化粧品も、身の回りで必要なものは全てご用意していますのでご心配なく」
「あとで……どういうことか……説明してください」
怒りを精一杯抑えた私の声に、ひるむこともなく、いつもの調子で彼は返す。
「そんなに怒らないでください。可愛い顔が台無しですよ」
テオの言葉が再び耳に響いた気がした。




