第四章42 「大蜘蛛の成れの果て」
醜く、哀れで、怖ろしかった。
手とも足とも呼べぬどろどろした肉の棒を四肢に生やし、歪んだ頭頂部に広がった裂け目から覗く舌は異様に綺麗で。その異様な様は嫌悪感を抱かずにはいられない。
鼻腔を刺すのは腐敗の臭い。常に流動し形を歪ませる肉の全身は明らかに腐りきっている。
とても大蜘蛛には見えなかった。
「ナオヤ、下がって……!」
ジルさんが眼前に立ち、俺を守るように剣を引き抜く。ローレンさんもソレに続き、いつの間にかフィミアさんも隣に立っていた。
背後には聖獣が控えている。敵を前にしてか、先ほど感じた疲労は見えない。
「これは……、大蜘蛛と思われます。肉片でも残っていたのでしょう。……形を残すので精一杯のようですが」
「くううぅ、なおなおななお、やややややや」
フィミアさんが冷静に分析する中、大蜘蛛の成れの果ては不定形な足を引きずりながらゆっくりと近付いてくる。
不気味に呟くのは俺の名前だろう。本来の形を失ってもなお、逃げるのではなく俺を喰らいに来たのだ。凄まじい執念と狂気を感じずにはいられない。
「完全に壊れてやがる。……吐きそうだ」
腐臭にか、イカレ具合にか。ローレンさんは不快気に顔を歪ませる。
「狂っているのは元からよ。魔物なのだから。……ここで滅ぼす。今度こそ、肉片残さず」
そう言ったジルさんがフィミアさんへ目を向けた。
「私がしても?」
「……構いません。核である肉体全てを失えば魂の存在しない魔物は世界から消滅する。故に、目の前の肉塊を欠片も残さず消滅させれば大蜘蛛は死にます。本当の意味で」
「それは、燃やしても?」
「はい、問題ありません。魔物は灰から復活できないと、過去の文献にもありますので」
「ではそのように。万が一残るようでしたら、その時はお願いします」
フィミアさんの頷きを確認すると、ジルさんの左手のひらにボッと炎が出現する。丸い球体型ではなく、焚火のようにメラメラと燃える炎が激しく揺らめいていた。
それを五つほど魔法で生成し、彼女は無造作に手を振る。炎は緩やかに前方、大蜘蛛の醜い肉塊の適当な個所へ飛んでいく。
ーーゴウッ、と爆発したように燃え盛った。
そこまで距離を取っていなかったため、激しい熱気が肌を焼く。ジルさんの炎は、俺が予想していたよりも高威力だった。
「ーーぐえっ!?」
突如、首が締まる。いきなり服が引っ張られた。
後ろに引っ張られる勢いそのままに軽く宙ぶらりんで後退し、首が解放される感覚と共に尻もちをつく。
「げほっ、げほっ……」
少し咳き込みつつ気配を感じて上を見やれば、聖獣が俺を見つめていた。
どうやら、彼に服を引っ張られたようだ。
「フィミア様、これは……?」
何故か、ジルさんが険しい表情で炎を睨みつけ、剣先を向けて臨戦態勢を取っていた。
「……分かりません。私にも感知できない何かがいるとしか」
二人の会話を聞くに、今目の前で燃え盛る炎はジルさんが起こした火ではないということになる。意味は分かるが……、頭が追いつかない。
同じようにローレンさんも困惑した表情を浮かべていた。戸惑いながらも剣を構え、いつでも戦えるようにしている。
燃える大蜘蛛。強い熱気と、渇きからか光量からか微かに痛む目を細めて炎の中を見つめる。
腐食した肉体は良く燃えるようで、大蜘蛛の成れの果ては頭部を抱え苦し気に身悶えていた。体の端から次々と灰になっていく。その勢いはすさまじく、一分と経たない内に小人と称せるほど小さくなってしまう。
今にも燃え尽きる。その直後、大蜘蛛の肉体から炎が消失。そして、大蜘蛛は森の中へと消えていった。
いや、消えたというより、連れ去られたといった方が適切だろう。ーー大蜘蛛の肉体に巻き付いていた毒々しい紫色の触手によって。
「今の、触手は……」
「……俺が行きます」
「待ってください」
連れ去られた大蜘蛛を追いかけようとローレンさんが動こうとする。しかし、フィミアさんがそれを止めた。
「気配を気取らせず、大蜘蛛が瀕死になる時を待っていたかのような行動。先ほどの触手のようなモノを含め、明らかに普通ではありません。おそらく、別の魔物でしょう」
別の魔物……? それが事実だったら、最悪だ。大蜘蛛のような存在が今、ただでさえ疲弊しているフェルミアに猛威を振るえば……。
同じような想像をしたのか、ローレンさんが青褪める。
「……であるなら、ますます放ってはおけません」
「落ち着きなさい、ローレン。どんな魔物か分からず、何一つ情報の無い状態で行くのは危険です。そもそも、ここにいる全員、相当な疲労が溜まっています。追いついたとしても、勝てる可能性は限りなく低いでしょう」
……正論だ。フィミアさんはいまいち分からないが、ジルさんやローレンさんは間違いなく披露している。今までの戦いを振り返れば、疲れていない方がおかしい。
聖獣ロウも先ほどキツそうにしていた。あの様子では連戦は厳しいだろう。
「敵の狙いは大蜘蛛。何故かは分からない……。けれど、少なくとも私たちを狙ったわけじゃない。魔物は軍の方に任せて、私たちは民間人の守りに専念しましょう」
「……了解」
ジルさんの言葉にローレンさんは頷き、その場にどっかりと腰を下ろした。そして、盛大な溜息を吐く。
「はぁぁ――……。なんて厄日だ、まったく……」
「……ええ。本当に。でも、良かった。ナオヤが無事で。……本当に、良かった」
俺の傍らに腰を下ろしたジルさんが頭を撫でてくれる。……こそばゆく、胸の奥がくすぐったい。労わるような、慈しむような。優しい、優しい手つき。
この暖かさは、凝り固まった心を解きほぐしてくれているみたいで。いろいろなことが分からないし、不安も尽きないけれど……、生きていて良かったと芯から思えた。
南門の軍は既に瓦礫など(蜘蛛の死骸や人々の死体も含む)の撤去作業を開始していた。どうやら聖獣はフェルミア全域の活動していた蜘蛛を凍結、粉砕していたらしく、戦闘は終わっている。
聖獣という存在の規格外さを改めて実感した。
スノウさんとローレンさんが話し合っている。いつの間にか、フィミアさんと聖獣はいなくなっていた。
体が重たい……。疲れが来ているのだろう。頭が怠く、上手く思考が回らない……。視界がぼんやりして、なんだか眠く……。
泣き疲れて眠ってしまったネリスを膝枕で寝かせているフィオネは、不安と焦燥感に苛まれていた。安心を与える様にネリスの体に片手を置きつつ、堪える様に握りしめられたもう片手の拳と嚙み締めた下唇が、フィオネの置かれた心境を物語っている。
彼女らがいるのは大精霊の樹根元付近に存在する屋敷の一つ。緊急避難所と指定された場所だ。
邪神大戦時から改修を重ねながら存続されているそこは、いざという時の避難所として機能する。そのため、一般的なお屋敷のように入り組んだ作りではなく、畳張りの部屋をいくつも設置し障子を取っ払った単純かつ広々とした空間だ。
大規模な戦いや大勢の人が避難しなければならないほどの災害などは、時代の変化と自然に通じる大精霊の力で極端に減り避難所の規模は縮小している。だが、それでもなお常時三百人前後が手狭ながらも一時的生活空間を確保でき、ある程度の避難生活を過ごせる場所となっていた。
しかし、今そこは人で溢れている。屋内にいる人数はとっくに許容量を超え、一時は畳が見えないほど混乱した避難民がごった返していた。現在は守衛隊により整理され、フィオネとネリスが壁を背に座れるまで落ち着いている。……入りきらない人々が屋外に何人もいるが。
体力のない女子供、老人が優先して室内を使用できる。フィオネはネリスを連れていたおかげで室内にて休むことが出来ていた。
「お母さん……、ナオヤ……、みんな……」
祈るように呟かれたフィオネの呟きは、室内の至る所から聞こえてくる嗚咽や怒声、子供の泣き声にかき消されていく。
彼女は無力感に押し潰されそうだった。
「あっ、いたっ!!」
そんな声がどこからか聞こえる。しかしその言葉は短く、様々な感情を内包した声が渦巻く室内に一瞬で溶け消えた。フィオネ意識においても同様で。自身にかけられた言葉などと露ほどにも思わず、意識外へと消えてしまう。
「フィ―っ!!」
「ぇ……」
だが、聞きなれた自身の略称を大声で呼ばれ、思わずフィオネは顔を上げる。そして、人の間を器用に抜けて足り寄ってくる友人の姿を見た。
「マリ!?」
マリリンは止まることなくフィオネに抱きついた。もちろん、眠っているネリスに当たらないようにして。
「良かった! 無事だった! ううぅ、ほんとに無事で、よかったぁ……。ぐす……」
「マリ……。こっちの台詞よ、まったく……。……無事で良かった」
冷たくて、寂しさと悔しさで凍てついてしまいそうだったフィオネの心に微かな温かさが広がる。
その反動で思わず緩みそうだった涙腺を彼女は引き締めた。まだ全員と会えていないので、気を緩めるには早過ぎるから。……まあ、単に、友人の前で涙を流すのが気恥ずかしく、なけなしのプライドで耐えただけだが。
「お、いたか。探したぞ、フィオネ」
「ローレンさん!?」
マリに続き、守衛隊隊長であるローレンが現れた。今現在、外で蜘蛛どもの対処に追われているはずのローレンが目の前にいることにフィオネは少し驚く。そして、その意味を瞬時に察した。
「貴方がここにいるということは、……蜘蛛はもう?」
「察しが速いな。詳細の説明は……、まあ後でいいだろう。今は、お前が一番確認しときたい事を見よう。付いてきてくれ」
「……分かりました」
フィオネは頷き、未だに抱きついているマリリンを引き離し、ネリスを起こさないようゆっくりおぶった。そして、歩き出したローレンの背中を追いかける。
人々の隙間を進み、屋外へと出た。その間、三人とも喋ることなく足を進める。
ネリスと共に避難してから一度も外に出ていなかったフィオネは、雨が止んでいることに気が付く。けれど、空は未だ黒い雲が漂い、いつ雨がふ再び降り出してもおかしくない。
肌を這う冷気に寒さを感じながら、フィオネは淡々と歩く。
屋敷の外にいる避難者の間を進むこと数分。フィオネはローレンの進む先にいる、良く見知った人物に気が付いた。
心から待ち望んでいた人が、彼女の顔を見つめ微笑む。
「かあ、さん……」
「ただいま、フィオネ。……待たせてごめんなさい」
ジルが歩み寄り、フィオネをネリスごと抱きしめる。優しく、包むように。そっと、慈しむように。
「母さんっ……! 母さんっ……!」
「もう大丈夫。もう、大丈夫。よく頑張ったわね」
涙を流す愛娘を撫でながら、ジルは穏やかに声をかけ続けた。
彼女が泣き止むまで、ずっと。