22、悪魔の闘い
レドの声だった。彼は私のすぐ真横にいた。まるで今までずっとそこにいたように。いったいどこから現れたのか。いや、そんなことより……
「レド。それ、」
光に照らされて、彼が真っ黒な影を手で握りしめていることがわかった。
ぬるぬるとした液体が次々とレドの掌から溢れだし、床に滴り落ちていく。真っ黒な影は私を襲いかけた醜い悪魔のもので、流れ出る血は美しい悪魔のもの。
レドの血だった。
「レド」
自分の声がひどく震えていることに気づく。怖い。彼が傷ついていること。これ以上ひどくなったら……
「落ち着け、ミシェル」
「でも……」
「大丈夫だ。これくらい何ともない」
レドは手の中にある影を見てうっすらと笑みを浮かべた。楽しそうで、心底腹が立っている表情だった。
「格下の雑魚が。ミシェルに手を出すとは、いい度胸じゃねえか」
影をぎりぎりと握りしめていくと共に、悪魔の断末魔が部屋に響き渡る。そしてそれはなぜか妹の声にも聞こえた。
ガタンと音がして、何かが近づいてくる気配がした。また醜い悪魔だろうかと身構えるも、正体は椅子から立ち上がった妹だった。彼女はふらふらと歩み寄ってきて、レドに助けを請うように縋りついた。
「ねえ、あなたは私が召喚した悪魔なんでしょう? だったら願いを叶えてよ。私のお姉さまを返して。命でも魂でも、何でもあげるから!」
妹が、叫ぶように言った。レドがゆっくりと妹の方へ目を向ける。冗談だろう、と悪魔は嗤った。
「お前の薄汚れた魂なんていらねえよ。悪魔が見境なしに何でも欲しがるって思ってんなら大間違いだな」
「何ですって?」
「それにお前が欲しがってるもんは、俺が欲しくてたまらないものだ」
ぐしゃりと、掌の中の影が弾けた。赤い背景に、黒い血飛沫が映し出され、ぎゃあああっという悲鳴が聞こえたかと思うと、妹がゆっくりと倒れていく。
「マーガレット!」
手を伸ばし、妹を助けようとするも、間に合わない。照らされていた光が消え、妹の身体は闇の中へ消えていった。
「まだ終わってない」
追いかけようとした私を、レドの腕が引き止めて、もがく私の耳元にそっと事実を告げる。
「黒幕のご登場だ」
動いてはいけない。人間である私は、ただの足手まといだ。叫び出したい不安を必死で押し留め、支えてくれるレドの手を握りしめた。彼は大丈夫だといように握り返すと、すうと深く息を吸い、暗闇に向かって大声で言った。
「おい、出て来いよ。手下がやられたのに、王サマは逃げるっていうのかよ!」
「――手下だと思っていたのは、彼らの意思だよ」
光が、美しい男を照らしだす。天使のような容姿をしている彼は、壁に背中を預け、私たちに微笑みかけた。後ろに映る影は、今のところ普通の人間の形に見えるが、彼の正体は決して人間ではない。美しい悪魔だった。
「あれがお前の手下じゃないっていうなら、何だって言うんだ」
「ぼくが彼らをそんなふうに思ったことは、一度もないね。むしろ厄介払いできてよかったと思っているくらいさ」
穏やかな口調で、どこまでも残酷な事実を彼は述べる。
「それより、よく逃げ出せてきたね」
せっかくきみを楽しませてあげようと思ったのに。
「逃げてねえよ。きっちり地獄に送り返してここまで来たんだ」
「そう。どちらにせよ、けっこうな数だったと思うけど」
「はっ。あんな雑魚、俺の敵じゃねえよ」
「そうか。だったら役立たずだね。殺られて当然だ」
なんてことのないようにスピアは言った。レドはその答えに顔をしかめる。私は彼らの言っていることを正確に理解しているわけではないけれど……レドにとっては敵でも、スピアにとっては仲間ではないのか。
「けっ、いけ好かないやつだな」
「ふふ。それ、ぼくにとっては褒め言葉だよ」
スピアの影が、ひとりでに動き出した。優雅な足取りで、いかにも気取った様子である。
「きみみたいな強い悪魔と殺りあうのは久しぶりかな」
ポケットにつっこんでいた手を出して、パチリと指を鳴らす動きを影がした。それを合図に、むくむくとスピアの影が膨らんでいく。その手には、物語の勇者が手にするような立派な剣が握られていた。
「すぐ終わらせるから、そこで待っとけよ」
レドの声が耳元で聞こえ、存在が消えたかと思うと、壁にもう一つの影が加わった。それは狼のような獣の姿に見えた。レドの影だ、と私が理解すると同時に、その影が大きく跳躍した。スピアの影がふるりと震え、指先を真っ直ぐとレドに向ける。
「串刺しにしろ」
すると指先から、鋭く尖った矢が雨のように次々と狼の影へと降りかかってゆくではないか。
「レド!」
だが心配は無用だった。
飛んでくる矢を巧みに狼の影……レドは避けていき、敵の喉笛に喰らいつかんと距離を一気に詰めていくではないか。あと少し、あと少しで――
だがスピアの影は器用に剣を振りかざし、狼の影を近づけまいとする。
私が今ここにいる場所は、果たしてどこだろうか。
まるで筒状の底の真ん中にぽつんと私という存在を置かれ、ぐるぐると筒を回されているような気がした。壁に映し出される影絵は、絵本のような挿絵にも見えるが、間違いなく悪魔の闘いだった。
レドの影が、執拗にスピアの影を追いかけていく。普通ならば容易く決着がつきそうだが、スピアはするりとレドの影を躱していく。
それはまるで飼い主が犬とじゃれているような陽気さがあった。
「ああ、こういうのは久しぶりだ」
スピアの声が、楽しそうに響き渡る。
生きるか死ぬかの戦いなのに、まるでそんな緊迫した雰囲気は彼にはない。そしてそれは、レドにも言えたことだった。
悪魔は死など恐れない。死ぬことよりもずっと恐ろしいことを彼らは己の手で下してきたのだから。
「きみにぼくを殺せるかな? ねえ、レド」
「気安く呼ぶんじゃねえ!」
「もうずっと退屈なんだ。あの日から、ずうっと。だから、楽しませてよ。殺してもいいよ」
「そうかよ。だったらお望み通りに殺してやるよ!」
高く、高く、狼の影が飛びあがった。それは光が当たっていた箇所を飛び越え、闇と一体化してしまう。
どこへ行った。消え去ったのか。
スピアの影が一瞬怯む。
それがレドの狙いだった。後ろから襲いかかり、馬乗りになる。大剣はスピアの手から放れ、もうどうにもできない。
スピアの無防備に晒されてしまった喉元が、狼の鋭い歯で喰いちぎられるだけだ。もう、スピアは逃げられない。私も、レドも、これで終わりだと思っていた。
だが次の瞬間、スピアの手が槍のように鋭く変形し、狼の胴体を貫いたのだった。唸るような悲鳴、ドサッという音を立てて、狼は、――レドは無惨に叩きつけられてしまう。
「だめだよ、最期まで油断しちゃ。相手は悪魔なんだから」
スピアの手には、大剣はない。代わりに鋭い槍が握られていた。
「さあ、最後の仕上げだ」
狼の影は一歩一歩近づいてくるスピアの影に対して、ぴくりとも動かない。止めを刺すべく、スピアが槍を振り上げる。あの鋭い切っ先で、レドの命を今度こそ――
「やめて」
一瞬の静寂と、影が揺れるのが目に入る。
おや、といった様子で人間の姿をしたスピアが振り返った。端正な顔が私を捉えている。私の目に映る彼は、赤い血で汚れていた。悪夢のようで、現実の出来事。
「どうして止めるんだい? これからがいいところじゃなか」
ねえ、と彼はうつむいて誰かに呼びかけた。光がそこへ当たる。
彼の足元にいるのは、血まみれのレドだった。辛うじて生きているようだが、今にもその命を絶えようとしている。
レドが、死ぬ。
気づいたら、私はすっと自身の両腕をスピアに向けて伸ばしていた。まるで自分の身を差し出すように。
私の考えを察したのか、スピアの目が三日月型になる。
「きみのその潔さは嫌いじゃない」
悪魔がゆっくりと近づいてきて、距離が縮まる。もどかしい私は自分から彼に抱きついた。スピアは積極的だね、と楽しそうに言った。
「魂をあげる気になったかい?」
ええ、と体を少し離してスピアの青い目を見つめる。
「――でも、あなたにではないわ」
頬に手を添えて、まるで口づけでもするように彼の顔をぐいっと上へ向かせた。
スピアの目が見開かれた瞬間、ものすごい勢いで何かに体当たりされた。
私は後ろに吹き飛ばされるようにして、床に尻餅をついた。痛みに耐えながら顔を上げると、真っ黒な獣が白い喉笛に今度こそ確実に喰らいついていた。
人と狼の影が合わさり、黒い血が噴き出す様が壁へと映し出される。
「……あーあ。やられたなあ」
話せないはずなのに、床に倒れたスピアの声はいつも通りだった。
赤い光ではなく、頼りない弱々しい光が彼の最期を映し出す。
きれいな青い目が、私をとらえていた。いつ見てもやっぱりガラス玉のような目だと思う。天使のようにきれいな悪魔は、こんなときでも微笑んでみせた。
「やっぱりきみみたいな人間は嫌いだな」
自分を殺そうとした人間はたしかに憎いだろう。けれどああしなければ、レドがスピアに殺されていた。そして私は魂を奪われていた。だから、後悔はない。言い訳もしない。
黙っている私を、スピアはつまらなさそうに見ていたが、やがてくすりと笑った。
「まあ、いいや。暇つぶし程度にはなったしね。ああ、彼女の半分はもらっていくよ」
半分。その意味を考えるより早く、砂のようにスピアの身体は消えていく。彼は何かを、人の名を呟いたようだったが、レドの忌々しそうな舌打ちでかき消されて聞き取ることはできなかった。
部屋は、もうよく見慣れたいつもの部屋だった。だがどこもかしこも赤黒く、血の臭いが充満していた。おまけにテーブルの上の食器や料理もひどい有様である。お義母さまや使用人が知ったら泣いて失神するかもしれない。
妹は、床に倒れ伏していた。私は頭がずきずき痛みながらも、妹の所へふらふらと歩いていき、その心臓に耳を当てた。
弱々しくも、確かに聞こえる鼓動。妹は生きている。無事であった。
安堵すると共に疲労がどっと押し寄せ、その場に座り込む。するとどたどたと騒がしい音が聞こえ、バンと扉が開けられた。
はあはあと息を切らせたクロード神父だった。彼はこの部屋で何が起こったのか一目で判断し、まず私の所へ駆け寄ってきた。
「大丈夫か?」
私は大丈夫だと答え、妹の方を先に診て欲しいと頼んだ。
神父はわずかに逡巡したが、気を失っている妹を優先するべきだと判断したのだろう。すぐに彼女を抱え、部屋を出て行った。
ひどく実感のわかない、奇妙な心地だった。魂が抜けたような、ぼんやりとした状態。
「ミシェル」
どれくらいそうしていただろうか。声が聞こえ、のろのろと顔を上げる。真ん丸と見開かれた金色の目が、こちらを覗き込んでいた。
レドはひどく慌てふためいた様子で、大丈夫かと聞いてきた。怪我している手で、血のついた手で、私の頬に触れようとしてくる。
「レド……」
私は泣いていた。
「ミシェル」
もう一度呼ばれた名に、私はレドの首にすがりついていた。おい、とレドは身を引こうとしたが、私は構わず彼を引き寄せた。
血のにおいと、レドの匂いがして、胸がいっぱいになる。
「レド、レド……」
おろおろと行き場を失っていた腕で、彼は不器用に私を抱きしめ返してくれた。
「もう、大丈夫だ」
その言葉に、ひどく安心する。そして今まで抑え込んでいた感情が次々とあふれてくる。
怖かった。殺されるかと思った。何より一歩間違えば、この男は死んでいたかもしれない。
そう思うと、突如狂おしいほどの痛みが全身を襲う。
この男を失いたくない。
どこにも行かないでほしい。
ずっとそばにいてほしい。
「――あなたが、欲しい」
囁くような声はレドにしっかりと届いており、その証拠に彼の体が小さく震えた。
そして彼は私を強引に引き離すと、どうしたのかと思う暇もなく、貪欲に私の唇にかぶりついてきた。息することすら奪うような、荒々しい口づけだった。
開かれた金色の瞳は、もはや私だけを欲している。奪われる恐怖の中に、喜びを感じていることを私は見逃さなかった。
――好きだ。私はこの悪魔が好きなんだ。愛しているんだ。
不器用に、彼の口づけにこたえていく。息も耐え耐えに、やっと離れた私たちは、お互いに呼吸が乱れていた。
「レド……」
彼は答える代わりに私をきつく抱きしめた。髪に顔を埋め、やっと手に入った、と悪魔はしみじみとつぶやいたのだった。




