21、譲れない
私は妹にもう一度尋ねた。
「マーガレット。レドはどこにいるの」
「何をおっしゃっているの、お姉さま」
「マーガレット」
「せっかくのお料理が冷めてしまうわ。話だって面白いところだったじゃない。私、早く続きが聞きたくてたまらないの。だから、お姉さま」
それ以上その男の名を出さないで。
残念ながらその願いを聞いてやることはできない。妹が答えを持たないというならば、私がここを去るだけだ。レドを探しに行くだけだ。
「もう無理だよ、マーガレット」
ナプキンで口元を丁寧に拭ったスピアは席を立ち、扉の方へ向かった。わずかな隙間を許さないと、ぴったりと扉を閉め、その背にもたれかかって私の方を見つめる。
退路を断たれた。
「あなたたちは……あなたはレドの正体を知っているんですか?」
「ああ、知っているよ」
お上品よくスピアが微笑んだ。女性を虜にする笑みが今は不気味に思え、じっとりとした汗が全身に滲んでくる。
「彼が今どうしているのかも?」
「うん。きっと今頃、彼のお仲間がとびっきりのサプライズをプレゼントしているはずだよ」
悪魔のプレゼントなんて、きっとろくなものではない。だからこそ彼は今晩私の元へ来なかった。来ることができないのだ。
――レド。
大丈夫だろうか。じわじわと胸を支配する気持ちに私は息苦しくなる。同時に目の前の美しい青年に問いただしたかった。
「どうしてそんなことをしたんですか?」
「それはね、きみが――」
「お姉さまが悪いのよ」
スピアの言葉を妹が遮った。彼女の顔は真っ青で、唇はわなわなと震えている。
「お姉さまが悪いのよ。あの男を、譲って下さらないから」
同じ言葉を繰り返しながら、妹は私を責めた。
「マーガレット……」
そんなにレドが欲しかったのだろうか。でも彼は物じゃない。譲ってくれと言われても、はいそうですかとあげられるものではない。
「それはできないわ、マーガレット」
「嘘つき」
妹はいまや憎悪の感情を隠そうとせず、まっすぐと私を睨みつけた。
「私がお姉さまの婚約者を譲って欲しいとお願いした時も、お姉さまは譲ってくれましたわ。何の未練も愛着もなく、すんなりと。彼だって意志を持った、簡単に譲ってはいけないモノではありませんでしたの?」
私はどきりとした。
譲ってくれと、そう言われて私はいいよと快く承諾した。婚約関係にも関わらず、将来一緒になって欲しいと勇気を出して自分の気持ちを告白してくれた幼馴染の彼の心情など気にもせず。
妹が欲しいと言ったから。それが、彼女のためにも、彼のためにもなると思って。
けれど本当は、もっと話をするべきではなかったのか。
一時の気の迷いではないか、本当に妹と添い遂げる覚悟はあるのか。私をもう好きではないのか。――問いかけることも、必要だったはずだ。捨てられたことも事実だけど、私も彼を捨てたのだ。
「婚約者だけじゃありませんわ。昔仲良くなさっていたご友人も、お姉さまはあっさりと私に譲ってくれた」
そう。妹の言うとおりだった。親友と言ってくれたあの子も、私は妹に譲った。
それが妹の望みで、悪いことだとは微塵も思わなかった。彼女自身の気持ちなど、当時の私にはどうでもよかったのだ。
「いつも、いつも、私が欲しいと言えば、何でも譲ってくれました。それなのにお姉さまは、あの男だけは……あの悪魔だけは、だめだとおっしゃるの?」
「でも、それは……」
レドが拒んだから。俺はここにいると望んだから。だから仕方がない。
妹はくしゃりと顔を歪ませて笑った。それは今にも泣いてしまいそうな、ひどく辛そうな表情に見えた。
「今まで何でも手放してきたのに、あの男だけは違うんですね」
どうして、という声なき悲鳴が聞こえた。
妹が何を考えているのかわからない。私にどうして欲しかったのだろう。今までの私は妹の望むままに譲ってきた。それを私は正しいと思っていたけれど、もしかしたら間違っていたのかもしれない。
ずっと妹を傷つけてきたのかもしれない。
でも、今さら――
「今さら後悔したって遅いよ」
そうだろう、と後ろに突っ立っていたスピアがにっこり笑った。笑っているのに、目はちっとも笑っていない。きれいな青い瞳は、ガラス玉のように何の感情も宿していないのだ。
「言っただろう、マーガレット。きみが本当に欲しいものは、もう手に入らないんだ」
マーガレットはスピアの言葉が耳に入っていないようで、ただ私をひたと見つめている。
「お姉さま。もう一度言います。あの男を私に譲って下さい」
それはどこか懇願するような響きがあった。
こんなにも妹が欲しているのだ。どうして譲ってやらないのか。今までと同じように、あっさり手放せばいいじゃないか。
「お姉さま!」
――おい、ミシェル。
浮かんだのは、ぶっきらぼうな悪魔の顔。
――俺は、欲しいんだ。
あっさりと出て行って、また突然現れて、苦しそうな顔をした悪魔の顔。恋い焦がれるように、求める金色の目。
「――ごめんね。マーガレット」
妹の目が見開かれ、絶望に染まる。
「どうして」
「私にも、よくわからない。でも、そばにいて欲しいって思ったの」
妹は嫌々と駄々をこねるように首を振った。
「いや! 嫌よお姉さま! 譲って、譲ってよ!」
「ごめんね、マーガレット」
これだけは、譲れないの。
妹の目から涙がぽろぽろ溢れ出る。自分の答えが彼女を傷つけた。あんなに大切にしたいと思っていた妹を、自分が苦しめ、壊している。
それでも私は答えを変えるつもりはなかった。
「――わかりましたわ」
妹のすすり泣きは永遠のように思えたが、やがてゆっくりと顔をあげた。真っ赤に染まった目は痛々しく、どこか虚ろな表情を浮かべ、口紅を塗った唇が弧を描いている。
「でしたら、私がお姉さまを奪うだけですわ」
スピア、と妹は言った。
パリンと、何かの割れる音がした。燭台の灯が消え、暗闇が世界を支配する。
かと思うと、突然スポットライトのように眩い光が妹を照らし出した。まるでこれから舞台が始まるような錯覚に陥る。
照らし出す光は血のように赤く、血に染まっているかのような毒々しい印象を与えた。壁に映し出された赤い背景と黒いシルエット。妹の影だ。
「お姉さまは、ひどい」
目の前に座っている妹の影が、ぶくぶくと、まるで風船のように膨らんでいくのに私は気づいた。それはぐにゃぐにゃと形を変えていき、最終的には人型のシルエットに落ち着いた。
その影を、私はかつて見たことがある。
母の残してくれた本に出てくる、悪魔の形。悪魔の手には、細長く、先端がくるりと曲がっている棒、罪人を取り逃がさないための引っかけ棒が握られていた。
影は上下に動いたかと思うと、しだいにその影を大きくしていった。おそらく私の方へ近づいてきているのだ。
手に持っている引っかけ棒で私を捕まえて殺すのだろうか。それとも魂を奪うのだろうか。
逃げなくてはならない。そう思うのに、私の身体はちっとも動かなかった。恐怖で足が竦んでしまったのか。視線だけを必死に動かすと、なんと私の影に鋭い槍が突き刺さっているではないか。
「逃げ出さないように、縫い付けておいたんだ」
その声は、スピアだった。真っ赤な光が今度は彼に当てられた。彼は一人、椅子に座ってティーカップの中のお茶を優雅に飲んでいる。まるで世間話をしているかのような場違いさである。
思えば、いつも彼にはそんな雰囲気があった。だがそれも当たり前かもしれない。彼の存在自体、そもそも異質だったのだから。
「あなたはマーガレットの婚約者ではないんですね」
「そうだよ。今さら気づいたのかい?」
いつからだろう。
「そいつらはね、僕の忠実な手下みたいもんなんだ。僕のためになると思ったら、進んで良いことをしてくれる。素晴らしい忠誠心だろう?」
いったい、いつから妹は悪魔に取り憑かれてしまったのだろう。どうやって、妹はこの美しい悪魔と出会ったのだろう。
「マーガレットと出会ったのは、きみのおかげだよ。きみを手に入れたいという強い欲望が、ぼくやそいつらを招き寄せたんだ」
人間が悪魔を召喚することとは違う。悪魔自ら人間に近づいたということだった。邪悪を呼び寄せる人間は、自身の心や欲望に闇を抱えているもの。
「今のマーガレットは、悪魔に取り憑かれているんですか?」
「いいえ、マーガレットですわ。お姉さま。私はマーガレットですわ」
その言葉を合図に、また光が妹に当てられた。壁に映し出された影を見て、私は息をのむ。信じられないことだが、影の生き物が、壁からぬるりと這い出てきたのだ。
毛むくじゃらで、頭には角があって、耳は尖っている。くるりと長い尻尾を持って、脚は鉤爪。顔はぞっとするほど醜く、見ているだけで吐き気がする。
「醜いだろう? もとから悪魔だったり、力が弱い悪魔は、目を背けたくなるような醜悪な姿をしていることが多いんだ。まあ、彼らの本質を現しているとも言えるかもね」
美しい悪魔はひょいと命令を出すように指さした。
――コノオンナヲコロセ!
キイキイと耳障りな音を立てながら、その生き物たちは私の方へと襲いかかってきた。……ああ、食べられてしまう。私がそう漠然と思ったとき。
「おい。ミシェルに物騒なモン向けんじゃねえよ」




