20、真夜中の晩餐会
レドが来ない。
毎晩欠かさず訪れていた悪魔が、今日はまだ来ていない。別におかしくはないだろう。そういう日だってある。
でも、と私は気になった。明日も来ると、別れ際に悪魔は私に言った。彼は気紛れだけど、交わした約束は絶対に違えない。
何か、あったのだろうか。
一度気になり始めると、居ても立っても居られず、私は寝台を降りていた。部屋をそっと抜け出し、外へ行こうと階段を下りていく。
「どこへ行くの、お姉さま」
蝋燭の光に照らされて浮かび上がったのは妹の姿で、義母ではなかったことにほっとする。
「マーガレット。まだ起きていたの?」
「ええ。少し考え事をしていて」
「でも……」
妹は正装をしていた。パーティーからの帰りかと思ったが、妹は違うと否定する。
「これから大切なお客様をもてなすの」
「お客様? でも……」
もう真夜中も過ぎた、こんな時間に? と困惑する私をよそに、妹はええそうよと笑う。
「ねぇ、それよりお姉さま」
近寄って妹は私の腕を掴んだ。小さな手に込められた意外な力強さに驚く。
「マーガレット?」
化粧をしていても、よく見れば妹の顔は今にも倒れてしまいそうなほど蒼白であった。
「どうしたの、マーガレット。あなた、顔が真っ青よ」
「どこに、行くつもりだったの?」
教えて、と繰り返す妹。私は答えに窮した。悪魔を探しに行こうとした。そんなこと、言えるはずがない。そもそもどうして突然そんなことを尋ねるのか。
「教えてくれないの?」
「マーガレット、私は……」
どう説明しようかと必死に考えていると、妹は突然笑い始めた。普段お淑やかに微笑む妹からは考えられない笑い方だった。
ぎょっとする私を気にもとめず、妹はしばし狂ったように笑い続けた。暗い部屋に響き渡る妹の笑い声は決して小さな音ではない。誰か一人くらい起きてきてもいいはずだが、不思議と誰も来ない。
「ふふ。ねえ、お姉さま。お姉さまが探しているのは、あの男でしょう?」
ようやく笑いがおさまった妹が私の顔を覗き込みながら確かめた。
「あの男って、誰のことかしら……」
「隠してもだめよ」
私の一瞬の動揺を妹は見逃さなかった。何もかも全部わかっているんだから、と妹は口元を歪める。
「このところ毎晩二人で会っているのでしょう? それをお姉さまは楽しいと、そう思っているのでしょう?」
「マーガレット、落ち着いて。どこでそんなことを聞いたの?」
「あら、認めるの?」
先ほどとは打って変わって、妹は嬉しそうにはしゃいだ様子を見せた。まるで酔っ払っているかのような急変ぶりに、私はただ困惑するしかない。
「お姉さまがあの男と仲良くしていらっしゃると、スピアが教えてくれたの」
「スピアが?」
そんな馬鹿な。レドと会っているのは、真夜中で、会うのもいつも二人きりだ。
「どうして彼が……」
まさかあの日一緒に飛んだ姿を見られてしまったのだろうか。それとも……
「そんなこと、どうでもいいじゃない」
妹は私の手を取ると、行きましょうと微笑んだ。
「どこへ行くの?」
「その男を交えてパーティーをするの」
「――やあ。待っていたよ」
私たちを出迎えてくれたのは、同じように正装したスピアだった。
「彼ももう少しで来ると思うよ」
部屋の中はテーブルの中央に置いてある燭台の光で明るかった。私と妹、スピアの他には誰もいない。
「さあさあ。遠慮せずに座って」
スピアに椅子を引いてもらい、私は促されるままに座った。テーブルには妹のお気に入りの料理が山のように置いてある。
「きみの好きなものがわからなかったから、マーガレットの好きなものを用意したんだ」
「スピア。これはいったいどういうことなんですか」
説明して欲しい。
けれどスピアは微笑むだけだ。
「まあまあ。細かいことはいいじゃないか。ほら、楽しもうよ」
何かがおかしい。そう思っていても、スピアに言われると逆らう気持ちがスッと消え失せてしまう。
――そう。そんなことどうでもいい。楽しいことが一番大事。
「お姉さま。いただきましょう」
違う。もう食べる必要はない。お腹なんか空いていない。夕食だってきちんと食べた。
「いいから、いいから。ほら、食べなよ」
スピアが肉を切り分け、皿によそってくれた。
「どうしたの? 食べないの?」
青い目が、私を見つめる。――彼に給仕係のようなことをさせてしまった。申し訳ないという罪悪感。ここまでしてもらったからには食べないと、いけない。許されない。彼に逆らうことは、できない。
「……そうですね。せっかくですもの。頂きますわ」
ゆっくりと、私はナイフとフォークを手にしていた。どうぞ、と促され、機械的に口の中へ運ぶ私を、スピアも妹も満足そうに眺めている。
「どう? お姉さま」
「ええ、とっても美味しいわ」
「よかった」
どの料理もとても美味しくて、間にスピアが話してくれる会話も面白い。スピアは笑った。妹も笑っている。二人ともとっても楽しそうで、私も嬉しい。楽しい、と思う。
「お姉さま。さっきは誰に会いに行こうとなされていたの?」
「え、誰だったかしら……」
「忘れてしまったのかい?」
「ええ、そう、みたい。たぶん、寝付けないから少し夜風に当たろうと思っただけよ」
「あら、そうだったの。心配して損したわ」
「ふふ。ごめんなさいね」
先ほどまで何を考えていたか、焦っていたのか、どうでもよくなってくるほど。頭がぼんやりとしてきて、水の中を漂っているような、お酒に酔ってしまったような、ふわふわした気持ちだった。頭がはっきりしなくて、気持ち悪いようで、ひどく気分がいい。
「お姉さまは、ずっと私と一緒にいて下さると約束して下さったものね」
ね、お姉さま?
とても大事なことを忘れている気がしたが、後でもいい気がしてきた。忘れてしまうくらいだから、さほど大切なことではない。
――本当に?
「お姉さま?」
こめかみを押さえた私に、どうしたの? と妹が心配した様子で立ちあがった。私は大丈夫と微笑んで見せようとする。
「少し、頭が痛くなっただけ、それだけだから、心配しない――」
りんごだ。私の目にりんごが映った。何でもない、ただのりんごが。誰だって一度は食べたことがあるはずだ。もちろん私だってある。
いつ? はっきりとは思い出せないけど、そう昔ではない。最近? 一人で……ううん。誰かと一緒だった……亡くなったお母様? 違う。お父様だった気もする。新しいお義母様か、妹……いいえ、違う。
文句ばっかり言っていた誰か。仏頂面で、おいしいと言ってくれた誰か。おまえも食べろと言ってくれた誰か。初めて人と食べるのが楽しいと思った誰か。
枕元にこっそりと置いていった――
「レド」
どうして。霧がかかっていたような頭の中が、突然ぱっと開けた。
そうだ。私はレドを探しに行く途中だった。とても大切な用事だったのに、どうして忘れてしまっていたのだろう。どうして呑気に食事なんてしていたのだろう。やるべきことが、聞くべきことが、たくさんあるのに。
頭を振り、妹へと目を向けた。
「レドは、どこにいるの?」
妹は答えなかった。いや、答えられない、といった感じであった。
「あーあ。やっぱりだめだったね」
代わりに答えたのは、妹の隣の席に座る美しい婚約者。
「それでどうするの、マーガレット」
スピアの青い目が、妖しく輝いた。




