第十話 こころのありか(後編)
九時半を過ぎた頃、やっと今日の勉強会が終わった。
直は疲れ果てた様子で床に寝転がり、天井を指差す。
「あ、天使が舞い降りてくるよ……」
「うん。それは大変だ」
拓也は直が指差した先を見て爽やかな笑みを浮かべた。
直は虚ろな瞳で今度は健臣を見る。
「今日泊めて。もう寝たい。帰るのめんどくさい」
「いいよ。拓也はどうする?」
「俺も泊ろうかな」
健臣はうなずく。
悠里がそれを少し羨ましそうに見ていた。
真子が悠里に尋ねる。
「悠里ちゃん、よかったらうちに泊まる?」
悠里は満面の笑みでうなずいた。
真子の部屋は物が少ない。
ベッドと本棚と備付けのクローゼットがあるだけだ。
ベッドの横には一組の布団が敷いてある。
真子はベッドに座り、悠里は布団に転がって枕を抱えていた。
悠里は真子から水色のパジャマを借りて着ている。
「ねぇ、真子と常盤君ってどこまで進んでるの?」
「いつも復習しかしてないから試験範囲内」
「勉強の話じゃなくて……」
悠里が苦笑した。そして言葉を続ける。
「常盤君とは付き合ってないの?」
真子が真顔でうなずく。
「ねぇ、真子は常盤君のことどう思ってるの?」
真子は考えるような表情をした。
悠里が体を起してさらに質問を重ねる。
「もし他の女の子が常盤君と付き合ったらどう思う?」
「それは常盤くんの自由」
真子の答えに悠里がため息をつく。
真子は不思議そうに首をかしげた。
「それはそうだけどさ、真子は嫌じゃないの?」
「私は……」
真子がなにかを思うように遠くを見つめた。
場所は変わり、五階下の常盤家。
健臣、直、拓也の三人がいる健臣の部屋は、真子の部屋とは打って変わってごちゃごちゃとしていた。
勉強机にはノートや教科書が乱雑に置かれ、本棚には漫画本が所狭しと並べられている。
床に置かれたテレビにはテレビゲームが繋がれたまま放置されていた。
そこに布団を無理矢理三枚並べて、男子三人がごろごろと転がっていた。
直は漫画本を読み、健臣と拓也はスマートフォンをいじっている。
拓也が唐突に尋ねた。
「健臣と真子ちゃんってどういう関係なの?」
健臣は視線を拓也にやる。
「いきなりなんだよ」
「健臣と真子ちゃんを見てると不思議なんだよ。
学校では健臣が真子ちゃんを守ってあげてる『お兄ちゃん』みたいだなって思ってたけど、先生の家では真子ちゃんの方が『お姉さん』というか『お母さん』みたいな感じだったから。
健臣はどう思ってるのかなって」
拓也の言葉を聞いて健臣は起き上がる。腕を組んで首をかしげた。
「うーん。なんていうのかな。言葉にするのは難しいんだけど……」
拓也と直がうなずいて健臣の言葉を待つ。
少し間をおいて健臣が話し出した。
「真子も片親なんだよ。お母さんが事故で亡くなったらしくて」
「やっぱりそうだったんだ。
棚に置いてあった写真と線香を見て、もしかしてって思ってたんだ。
父親はアメリカにいるってさっき健臣が言ってたから、母親が亡くなったのかなって」
直の言葉を遮った時、拓也は気がついていたから加勢してくれたのかと納得した。
直は気がついていなかったようで目を丸くして驚いている。
「松岡先生が母親について真子には聞かないで欲しいって言ってたから、二人ともよろしくな」
直と拓也はうなずく。
健臣がうつむきながら言葉を続けた。
「真子は母親のことでなにか気にしてることがあるんだと思う」
「……健臣もそうだったもんな」
直がうつむきながら真剣な表情で言った。
「あの時、俺が立ちなおれたのは直のおかげだよ」
健臣がそう言うと、直が照れくさそうにふいっと顔を背ける。
健臣の父親が亡くなった時、落ち込んでいた健臣を励ましてくれたのは幼馴染の直だった。
――直がいなかったら俺も真子の様になっていたのかもしれない。
「だから真子の気持ちも分かるんだ。放っておけない」
「そのことは真子ちゃんも知ってるの?」
拓也が聞いた。健臣は記憶を探る。
「松岡先生には言った。
先生が言ってなかったら真子は詳しく知らないと思う。
でも、父さんがいないことには気づいてると思う」
「……変わったよな、あの子。とっつきやすくなった」
直が珍しく真剣な表情で話をしている。
「真子は変わってないよ。俺たちの見方が変わったんだと思う」
健臣がそう言った。
拓也は少し考えてうなずく。
「そうだね。俺たちが勝手に『魔女』とか『とっつきにくい』『怖い』と思って話しかけなかったんだ。
だけど健臣が真子ちゃんと仲良くなったから、俺たちも真子ちゃんをちゃんと知ることができたんだよ」
拓也の言葉を聞いて、直は難しそうな顔をしながら何度もうなずいた。
「豊川さんは怖いけどさ、綺麗だって前から人気あったじゃん?
その豊川さんと一緒にいるようになった真子ちゃんも髪型変えてからさ、可愛いって言われるようになったし。
でも、みんなも勝手だよな。
今まで『魔女』って言っていじめてたのにさ。
……そういう俺も人のこと言えねぇけど」
直がむすっとした表情で言った。そして顔を上げて言葉を続ける。
「でも、悔しくない? 真子ちゃん、いい子じゃん。
なのに外見だけで中身見てないやつらばっかりでさ」
「俺たちは健臣のおかげで真子ちゃんとこうして仲良くなれたけど、他のやつらはしょうがないよ。
真子ちゃんは誰とでも話すような子じゃないし」
「でも俺、みんなに真子ちゃんがいい子なこと知ってもらいたい」
直がうつむきがちにそう言った。
健臣が身を乗り出す。
「そうなんだよ! 俺もずっとそう思ってた。
だけど真子がみんなと仲良くしようと思ってないからさ。
上手くいかないよ」
健臣が苦笑した。
直と拓也も真子を思い浮かべて苦笑する。
「まぁ、自分をいじめてたやつらと仲良くしたいとは思わないよね。
でも、そうやって自分を貫ける真子ちゃんはすごいよ」
拓也が言った。
健臣と直がうなずく。
そしてしばらく沈黙が流れた。
「なぁ、健臣。お前さ、真子ちゃんのこと女の子としてなんとも思ってないんだよな?
ならさ、俺さ、真子ちゃんともっと仲良くなりたいって思うんだけど……」
直は照れくさそうにうつむいた。
健臣は目を丸くして直を見る。
心が複雑に蠢いた。
まるでもやがかかったように自分の気持ちさえ分からなくなってしまった。
次の日は朝から真子先生と拓也先生による期末試験対策授業が開かれていた。
昨日から引き続いて英語だ。
悠里はあいかわらず陰鬱としている。
「真子ちゃん、これはどういうこと?」
悠里とは打って変わって直は昨日以上にやる気に満ちている。
真子は質問を重ねる直にほぼつきっきりだ。
悠里はそれを訝しげに見ていた。
健臣は立ち上がり、トイレに行こうとリビングを出た。
そのあとを悠里が追いかけていく。
「ねぇ、あれ、なに?」
健臣がトイレのノブに手をかけた時に悠里が聞いた。
声から不機嫌さが溢れている。
「あれってなに? 俺、トイレに行きたいからあとでいい?」
「児島君のこと」
悠里が言った。トイレに行きたいという部分は完全に無視だ。
「直? 直がどうしたって?」
――俺に聞かれても困る。
ここはシラを切ってトイレに逃げ込もうとドアを開けると悠里に閉められた。
ドアを背にする健臣。そのドアに片手をつく悠里。向かい合う二人。
しかし表情はと言うと、健臣は青ざめ、悠里は今にも唸り声を上げそうだ。
ときめきなんか一切ない。
健臣の心の中は『どうやってこの苦境を乗り越えようか』の一言に尽きた。
「と、豊川さん? どうか落ち着いて下さい」
「答えなさいよ」
健臣はどうしたものかと考えるように視線を彷徨わせる。
ちょうどリビングから出てきた松岡と視線が合った。
悠里も気がついて松岡を見る。
三人は顔を見合せたまま固まった。
「……おう。わりぃ。お取り込み中でしたか」
松岡が気まずそうに頭をかく。
「ち、違うわよ!」
悠里が慌てて離れた隙をついて健臣はトイレに逃げ込んだ。
ドアの向こうから悠里の苛立ち感あふれる舌打ちの音がした。
――しばらくトイレから出られない。
トイレの前を行ったり来たりしているような悠里の足音を聞きながらそう思った。
少ししておそるおそるリビングに戻るとさっそく悠里と目が合った。
しかし悠里はふいっと視線を逸らした。
――大変お怒りのようだ。
苦笑しながら健臣は座る。
あいかわらず真子は直の隣で教えていた。
直はうなずきながら真剣にノートに向かっている。
健臣は重いため息をついた。
昼には化学の勉強に入っていた。
理数系に強い拓也に任せて真子は昼食作りに励む。
そんな真子を直がちらちらと見ていた。
思えば前から真子を気にしていたのだろう。
健臣の中でもやもやとする気持ちが沸き上がる。
それを落ちつかせるようにため息をついた。
昼食はチャーハンだった。
昨夜の夕食のように健臣は楽しい気持にはなれない。
ただ愛想笑いを浮かべ、直が真子に話しかけるのを見ていることしかできなかった。
夕方には二日間の勉強会が終わった。
みんなを見送りに健臣と真子も一緒に家を出た。
直と悠里は解放感からか足取りが軽い。
駅でみんなと別れ、マンションまで戻る帰り道は健臣と真子の二人だけになった。
健臣は真子をちらりと見てすぐに前を向く。
心にもやがかかってからというもの真子となにを話したらいいのか分からなくなってしまった。
真子と一緒にいるようになった頃はよくあったが、最近はこんなことはなかった。
心の中でちくりとしたものを感じる。
近道の公園に入ると夕方の涼しい風が木々を揺らして音を立てた。
「どうしたの?」
珍しく真子から話しかけた。
真子を見るとあいかわらず表情はない。
子猫のようなくりっとした瞳が健臣を映す。
「えっと、なんで?」
「元気ないから」
健臣がきょとんとした表情を浮かべた。頬をぽりぽりと掻く。
「そうかな?」
真子がうなずいた。
「拓也くんも言ってた。
それに、直くんも悠里ちゃんもいつもと違うような気がした」
真子がそう言うと少し強い風が吹いた。真子の黒髪を靡かせる。
「なぁ、なんで拓也と直は名前に君付けなの?」
「……名字は知らない。
常盤くんが『拓也』『直』って呼ぶから名前は知ってる」
健臣は苦笑した。
クラスメイトなのに名字を知らないとは、驚きよりも先にさすがは真子だと思わず感心してしまった。
「じゃあ豊川さんは?」
「悠里ちゃんから『名前で呼んでいい?』って聞かれた時に、『悠里って呼んで』って言われた」
「そっか。じゃあさ、俺のことも名前で呼んでよ」
真子が立ち止まった。健臣が振り返る。
「名前、知らないって言わないでよ?」
健臣が寂しげな笑顔を浮かべた。
真子がそんな健臣をまっすぐに見る。
またひとつ強い風が吹いた。
「知ってるよ。常盤くんの名前」
真子は健臣から視線を逸らして言葉を続けた。
「……健臣、くん」
健臣は嬉しそうに小さく笑みを浮かべた。
真子の顔が赤いのは夕日のせいだろうか。
もしそうだとしても嬉しいと思った。
そして真子に名前を呼ばれただけなのに心が暖かくなる。
――そうか、俺は真子が好きなんだ。
そう気がつくと、今までのもやもやがすっきりと晴れた。
健臣は真子に手を差し出す。
「帰ろうぜ。松岡先生が腹すかせて、ビール飲んでるよ。きっと」
「それは困る」
ビールを飲みながらテレビを見ている松岡を想像したのか真子は顔をしかめた。
そして差し出された健臣の手をとる。
そのあとは沈黙が二人を包んだ。
けれども先程のような気まずさはもうない。
夕日を受けてきらきらと輝く池沿いを歩く。
――真子に気持ちを打ち明ける前に、まずは直にちゃんと言わないとな。
健臣はそう心に決めた。




