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気象予報士が今川義元に転生したので、桶狭間の豪雨を予報します ~ところにより信長~

作者: 島村 巡
掲載日:2026/11/03

 一五六〇年 初夏  尾張 沓掛城



 目を開けたら、手鏡の中から、白塗りの男が俺を見ていた。


「お目覚めにございますか、御屋形様」


 悲鳴を上げなかった自分を、褒めてやりたい。


 手鏡を掲げているのは、日焼けした武骨な男だった。その鏡の中で、白く塗られた頬の男が、額の上のほうにぼんやり描かれた丸い眉を、ひくりと動かした。俺が眉を動かすと、鏡の男も動かす。つまり、これは俺だ。


 口を開けてみた。歯が、真っ黒だった。


「・・・誰だ、これは」


「御屋形様にございます」


「御屋形様とは、誰だ」


 男は、困った顔で首をかしげた。


「駿河、遠江、三河の太守。今川治部大輔義元様にあらせられます。昨夜、少々お酒を過ごされましたか」


 今川義元。


 頭の中で、何かがかちりとはまった。


 俺は、気象予報士だった。テレビ局で夕方の天気を担当して十年目、台風の中継で海沿いの堤防に立ち、皆さん決して外に出ないでください、と叫んだ直後に、飛んでくる看板が見えた。そこから先の記憶はない。視聴者には、ずいぶん説得力のある最期を見せてしまったと思う。


 そして今は、今川義元らしい。


「宗信。今日は、何日だ」


 男の名が、口から勝手に出た。松井宗信。遠江の二俣城を預かる、今川家の忠臣だ。体の持ち主の記憶が、少しずつ流れ込んでくる。


「五月十九日にございます。本日はいよいよ、尾張へ攻め入る日。昨夜のうちに、松平元康殿が大高城へ兵糧を入れ終えております」


 五月十九日。沓掛城。大高城。


 俺は、ゆっくりと天井を見上げた。


 知っている。子どもの頃、伝記漫画で何度も読んだ。今川義元は、今日、桶狭間で死ぬ。昼に休んで、勝ち戦に浮かれて謡をうたっているところへ、豪雨とともに織田信長が突っ込んでくる。輿を捨てて逃げ、首を取られる。教科書に、油断した大大名の見本として名を残す男。


 それが、俺だ。


「御屋形様、お顔の色が」


「白いだろう。白粉だからな」


「いえ、白粉の上からでも分かるほど、青うございます」


 俺は、手鏡をもう一度のぞきこんだ。見れば見るほど、絵巻物から抜け出してきたような顔だった。これで今日、戦場に立つらしい。


「せめて、この白粉を落としたい」


「なりませぬ。御屋形様は、京の公家衆とも渡り合う今川のご当主。お顔をお作りになるのは、駿河のたしなみにございます」


 宗信は、なぜか胸を張った。どうやら本気で言っているらしい。


「戦の日に、たしなみか」


「戦の日だからこそ、にございます」


 言い返す気力は、もう残っていなかった。


 ◇


 俺は寝所を出て、櫓に上がった。宗信が、慌てて後ろからついてくる。


 まず、空を見た。


 これは職業病だ。前の世では、朝起きたら、何よりも先に空を見た。雲の形、風の向き、肌にまとわりつく湿り気。データを見る前に、自分の目で一度予報を立ててみる。新人の頃に、先輩から叩き込まれた習いだった。


 空は、晴れていた。だが、ただの晴れではなかった。


 朝だというのに、空気が重い。南から、ぬるく湿った風が吹いている。梅雨の晴れ間だ。宗信の言った五月十九日は旧暦で、今の暦に直せば六月の下旬にあたる。


 そして西の空、伊勢の海のほうに、白い雲がいくつも頭をもたげはじめていた。


 積雲だ。それも、朝のうちから、もう背が高い。このまま日が高くなれば、地面が温められ、湿った空気が持ち上げられる。あの雲は昼過ぎには空のてっぺんまで伸び、積乱雲になる。


「宗信。今日の尾張は、晴れのち雷雨。午後の早いうちに、激しい雨が降る。ところにより雹。降水確率は、九割だ」


 宗信は、しばらく黙っていた。


「・・・こうすい、かくりつ、とは」


「雨が降る見込みだ。十のうち、九は降る」


「御屋形様。空は、この通りの日本晴れにございますが」


「今はな」


 宗信は空を見上げ、俺の顔を見て、また空を見上げた。白粉を塗った大将が、晴れた空を指さして雨が降ると言っている。家臣としてどう返すのが正しいのか、真剣に悩んでいる顔だった。


 伝記漫画には、こうあった。昼過ぎ、にわかに天がかき曇り、石や氷を投げつけるような雨が、今川勢の顔に打ちつけた。その雨の中から、織田勢が現れた。


 つまり、雨は西から来る。信長も、雨と一緒に西から来る。


 予報は当たる。当たってしまう。問題は、それをこの時代の人間にどう信じさせるかだった。


 ◇


 軍勢が沓掛城を出たのは、朝の遅い時分だった。


 最初の揉め事は、門の前で起きた。


 黒漆に金の金具を打った、豪奢な輿が待っていた。今川家の格式の証だ。担ぎ手が六人、真っ白な装束で控えている。


「俺は、馬で行く」


 担ぎ手の頭らしい年かさの男が、その場にへたり込んだ。


「御屋形様。この輿は、今川家の誇りにございます。それがし、親子三代、この輿を担いでまいりました。輿に乗られぬ御屋形様など、聞いたこともございませぬ」


「今日だけだ」


「今日こそ、尾張の者どもに今川の輿を見せつける日ではございませぬか」


 見せつけた結果がどうなったかを、俺は知っている。輿は目立つ。そして、いざというときに速く逃げられない。


 だが、ここで置いていくと言えば、この男は泣く。いや、もう泣いている。


「・・・輿は、空のまま担いでこい。大事な役目がある」


「御屋形様のお乗りにならぬ輿など、ただの箱にございます」


 頭は、担ぎ棒をつかんだまま、恨めしそうに俺を見上げた。


「箱ではない。空のまま、桶狭間山の陣の真ん中に置け。いちばん目立つところにな」


 担ぎ手の頭は、意味が分からないという顔のまま、それでも大事な役目という言葉に、ぐいと涙を拭いた。


 次の揉め事は、馬だった。


 用意された栗毛は、立派な馬だった。俺は前の世で、馬に乗ったことがない。体の持ち主の記憶を頼りに鐙に足をかけ、えいと体を持ち上げた。


 持ち上がらなかった。


 この体は、重かった。前の世の俺より、腹回りがたっぷりしている。三度目でようやく鞍にまたがったが、今度は反対側へずり落ちかけた。宗信が、すんでのところで帯をつかんで引き戻した。


「御屋形様、やはり輿に」


「乗らぬ」


 背後で、空の輿を担いだ頭が、ほんの少しうれしそうな顔をした。


 行軍の列は、長かった。前にも後ろにも、見渡すかぎり今川の旗が続いている。


 しばらく進むと、兵たちのあいだで妙な声が飛び交っているのに気づいた。


「降る、に三文」


「降らぬ、に五文」


 宗信が馬を寄せてきて、声をひそめた。


「御屋形様のお言葉が、もう陣じゅうに広まっておりまして。兵どもが、雨が降るか降らぬかで、賭けをはじめております」


「どちらが多い」


「降らぬ、が八割ほどかと」


 まあ、そうだろう。空は相変わらず青く、日差しは肌を焼くほどだった。白粉の下を、汗が流れていくのが分かる。


「宗信。お前は、どちらに賭けた」


 宗信は少し迷ってから、小さな声で言った。


「・・・降る、に十文」


「なぜだ」


「御屋形様が、あれほど自信をもって何かをおっしゃるのを、初めて見ましたゆえ」


 俺は思わず、宗信の顔を見た。日に焼けた武骨な顔が、照れくさそうにそっぽを向いていた。



 一五六〇年 初夏  尾張 桶狭間山



 正午すこし前、桶狭間山に本陣を置いた。


 山といっても、丘のようなものだ。周りの谷間に、田と雑木林と細い道がうねっている。


 そこへ、大高城の松平元康から使いが来た。


「申し上げます。丸根砦、鷲津砦、ともに落ちましてございます。元康様より、次のお下知を、と」


 陣じゅうが、わっと沸いた。


 松平元康。のちの徳川家康だ。元康の元の字は、義元の元を与えたものだと、体の持ち主の記憶が教えてくれる。今川の人質として駿府で育った若者が、今日はじめて大きな手柄を立てた。


 そして十年もしないうちに、今川の領地をごっそり持っていく。


「・・・元康には、大高城で休めと伝えよ」


 使いが頭を下げて立ちかけたところを、俺は呼び止めた。


「それと、午後に、ひどい雨が来る。兵糧を濡らすなと、念を押しておけ」


 使いは晴れた空を見上げ、首をかしげながら走り去った。


 宗信が、にこにこと進み出てきた。


「御屋形様。祝着至極に存じまする。さっそく、謡をひとつ」


 来た。


 史実の通りなら、ここで義元は謡をうたわせ、勝ち戦に浮かれる。そして、いくらもたたないうちに死ぬ。


「謡は、雨のあとだ」


「は」


 宗信は、懐から出しかけていた謡本を、名残惜しそうに引っこめた。


「雨がやんだら、好きなだけうたわせてやる。その前に、やることがある」


 俺は、宗信と、遠江の井伊直盛ら主だった者を集めた。


「よく聞け。午後の早いうちに、西から激しい雨が来る。雨の前には、急に冷たい風が吹く。その風が吹いたら、雨まではわずかだ。そして、その雨にまぎれて、信長が来る」


 皆が、顔を見合わせた。宗信は、謡本をしまった懐を押さえたまま、口を半分開けている。直盛だけが、黙って西の空に目をやった。


「弓の弦は、すべて油紙で包め。弦が湿れば、矢が飛ばぬ。本陣は幕だけを残し、この山の東の林へ移す。兵は、南と北の林に伏せさせよ」


 宗信が、思わず膝を進めた。


「では、この本陣は、いかがなさいます」


「空にする。あの輿だけを、真ん中に置いておけ」


 宗信の口が、今度はすっかり開いた。


 井伊直盛が、静かに尋ねた。


「御屋形様。それは、空の輿を囮になさる、と」


「そうだ。信長は、あの輿を見れば、中に俺がいると思う」


 しばらく、誰も口をきかなかった。


 やがて宗信が、意を決したように言った。


「御屋形様。恐れながら、陣中の陰陽師に占わせましたところ、本日は終日、大吉の晴れとのことにございます」


 宗信の後ろから、烏帽子をかぶった痩せた男が進み出た。


「天文を見ますに、本日、雨の兆しはございませぬ。御屋形様におかれましては、どうぞお心安らかに」


 宗信が、どうだと言わんばかりに大きくうなずいた。陰陽師の口から、主君の正気を取り戻したいらしい。


「雲を見たか」


「雲、でございますか」


「西の空を見よ」


 皆が、いっせいに西を向いた。


 朝には小さな白い塊だった雲が、今は山のようにそそり立っていた。そのてっぺんが、ほんの少し、平たく広がりはじめている。鍛冶屋の金床のような形だ。


「あの雲の頭が平たくなったら、雲が空の天井にぶつかった印だ。あれは、もう雨を抱えている。それに、見よ」


 俺は、陣の上を低くかすめていく燕を指さした。


「燕が低く飛ぶのは、湿った空気で、餌の虫が低いところへ降りてくるからだ。雨が近い」


 陰陽師は、口を開けたまま、雲と燕を見比べていた。


「・・・御屋形様は、いつのまに、天文をそこまで」


「昨夜、夢枕に雨の神が立った」


 適当に言った。陰陽師は、なぜか深々と頭を下げた。宗信まで、つられて頭を下げていた。


 陣替えのあいだ、井伊直盛が馬を並べてきた。遠江の井伊谷を治める男で、口数は少ないが、目の動きに無駄がない。


「御屋形様。もし、雨が降らなかったら、いかがなさいます」


 いい問いだった。前の世で、新人の頃の俺も、同じことを先輩に聞いた。


「そのときは、晴れた空の下で空っぽの本陣を見て、皆で笑えばいい。大将が天気を読み違えた、とな」


「大将が、家臣に笑われてもよいと仰せられるか」


「備えて外れても、笑い話で済む。備えずに当たれば、人が死ぬ。天気を読む者の仕事は、当てることではない。外れたときに、誰も死なないようにしておくことだ」


 先輩の受け売りだった。直盛は、しばらく黙って俺の横顔を見ていた。


「・・・承知いたしました。それがしの手勢は、北の林に伏せまする」


 直盛はそれだけ言って、馬を返した。史実では、この男も今日、桶狭間で死ぬ。その背中が林の中へ消えていくのを、俺は黙って見送った。


 輿の担ぎ手の頭は、最後まで本陣を離れようとしなかった。


「輿を、ひとりにはできませぬ」


「ひとりにしてやるのが、今日のお前の役目だ。輿は、きっと分かってくれる」


 頭は、しばらく輿の前で動かなかった。やがて、黒漆の屋根を袖でひと拭きし、輿に向かって深々と頭を下げてから、林のほうへ駆けていった。担ぎ手が輿に頭を下げるところを、俺は初めて見た。


 ◇


 陣替えが終わったのは、午後一時に近いころだった。最後に本陣を出た宗信が、空の輿の中に謡本をそっと置いていくのが見えた。雨がやんだら、ここでうたうつもりらしい。


 俺は東の林のはずれで、馬の上から西を見ていた。乗るまでに、また二度ずり落ちかけたことは、言わずにおく。


 正直に言えば、怖かった。


 前の世でも、予報が外れることはあった。晴れと言った日に夕立が来て、局の電話が鳴りやまなかったこともある。洗濯物を返せ、と怒鳴られた。だが今日、外れて困るのは洗濯物ではない。何万という兵が、白粉の大将の予報ひとつで陣を動かしている。


 伝記漫画で読んだ通りなら、雨は来る。来るはずだ。だが、俺がここにいるせいで、歴史がほんの少しでもずれていたら。


 陰陽師が、そろそろと馬を寄せてきた。


「御屋形様。日が差しているうちは、雨は降らぬものにございます」


 陣の真上には、まだ日が差していた。


「西を見ろ」


 空の半分が、鉛色になっていた。遠くで、腹の底に響くような音が鳴った。陰陽師は、口を閉じた。


 陣のあちこちで、兵たちがざわめきはじめた。さっきまで、白粉の大将の妙な命令を笑っていた者たちだ。


 そのとき、風が変わった。


 蒸し暑い空気を押しのけるように、ひやりと冷たい風が、西から吹きつけてきた。木々の葉が、いっせいに裏返る。


「来るぞ」


 宗信が、俺の顔を見た。


「御屋形様、これが」


「冷たい風だ。すぐに来る」


 言い終わる前に、最初の一粒が、俺の白粉の頬を打った。


 次の瞬間、天の底が抜けた。


 雨というより、石だった。大粒の雨に雹がまじり、林の木々が悲鳴を上げるようにしなった。目の前の谷が、白くかすんで見えなくなった。


 それでも、林の木々が雨を受け止めていた。南と北の林に伏せた兵たちは、顔を上げたまま谷を見ていられた。伝記漫画の中の今川勢は、この雨をまともに顔に受け、目も開けていられなかったはずだ。


 どこかの藪の中で、悲鳴のような声が上がった。


「三文が、俺の三文が」


 降らぬに賭けた兵だろう。気の毒だが、今は構っていられない。あとで宗信に、少し返してやるよう言っておこう。


 その宗信は、俺の隣で、雨に打たれながら拳を握っていた。十文が、当たったのだ。


 その雨の幕の向こうから、鬨の声が上がった。


 白くかすんだ谷を駆け上がってくる、黒い影の群れ。織田勢だ。迷いのない、一直線の突撃だった。狙いは、山の上の本陣。


 幕の中には、黒漆の輿が、雨に打たれてぽつんと置かれている。


 先頭の武者が、輿の簾に槍を突き入れた。


「義元、覚悟」


 そう叫んだ声が、途中で止まった。


 輿の中には、誰もいない。あるのは、宗信が置いていった謡本が一冊だけだった。


 宗信が、握っていた拳をほどいて叫んだ。


「放て」


 南と北の林から、矢が雨を切り裂いて飛んだ。油紙で守られていた弦は、ちゃんと鳴った。空の本陣になだれ込んだ織田勢は、左右から矢を浴びた。


 谷の下に、ひときわ目立つ一団がいた。


 雨に濡れた馬上で、細面の男が、まっすぐこちらを見ていた。織田信長だ。距離があるのに、なぜか目が合ったと分かった。怒っている目ではなかった。面白がっている目だった。


「退け」


 雨音を突き抜けて、その声だけがはっきり聞こえた。


 織田勢は、来たときと同じ速さで、雨の向こうへ消えていった。


 ◇


 雨は、半刻ほどで嘘のように上がった。


 雲の切れ間から日が差し、濡れた林から白い湯気が立ちのぼった。


 俺は、ずぶ濡れの馬上で、ずぶ濡れの家臣たちに囲まれていた。白粉はすっかり流れ落ち、たぶん今、相当ひどい顔をしている。


 宗信が俺の顔を見て、何とも言えない声を出した。


「御屋形様、お顔が」


「やっと落ちたな。せいせいした」


 俺は濡れた袖で、頬に残った白いものをぬぐった。半日ぶりに、自分の肌に風が当たった気がした。


「駿府に戻られる前に、塗り直さねばなりませぬな」


「・・・そこは、たしなみか」


「たしなみにございます」


 雨にも負けない男だった。


 最初に膝をついたのは、陰陽師だった。


「御屋形様。それがし、今日かぎり、天文の看板を下ろしまする」


「下ろさなくていい。明日から、雲を見ろ。それだけでいい」


 宗信が、泥だらけの顔で笑っていた。


「天を読む弓取り。海道一の弓取りどころでは、ございませぬな」


 海道一の弓取り。東海道でいちばんの武将という、この体の持ち主の呼び名だ。今日からは、別の呼び名が増えるらしい。


 北の林から、井伊直盛が戻ってきた。兜から雨をしたたらせ、手勢の数を数え終えたところだった。


「北の林、ひとりも欠けておりませぬ」


 それだけ言って、直盛は頭を下げた。史実では、今日この谷で死ぬはずだった男だ。その男が、濡れた顔で、ほんの少しだけ口の端を上げていた。


「笑うたな、直盛」


「晴れた空の下では、ございませぬが」


 空の本陣へ戻ると、担ぎ手の頭が、槍の穴の空いた輿を抱きしめて泣いていた。


「輿が、輿が、御屋形様の身代わりに」


「よく働いてくれた。駿府に帰ったら、塗り直してやる」


 頭は、泣きながら何度もうなずいた。


 そこへ、大高城から、また使いが駆けこんできた。


「元康様より。御屋形様のお言いつけどおり、兵糧はすべて蔵の中へ入れ、一俵も濡らさずに済みましてございます。元康様は、御屋形様はいつから雨をお読みになるのかと、目を丸くしておられました」


 使いは、そこで少し言いよどんだ。


「それと、元康様より、一言。雨の読み方を、いつか教えていただきたい、と」


 俺は、少し笑った。


 十年もしないうちに、今川の領地を持っていくはずの若者だ。だが今日のところは、素直に目を丸くしているらしい。


「教えてやると伝えよ。そのかわり、今川を大事にせよ、ともな」


 それから、ようやく謡になった。


 濡れた陣幕の下で、宗信が朗々とうたい、兵たちが唱和した。昼にうたっていれば、辞世になっていたはずの謡だ。夕方の今は、ただの祝いの歌だった。


 賭けの銭は、宗信の懐にずいぶん入ったらしい。降らぬに賭けた兵たちは、ずぶ濡れのまま空を仰いで、なぜか笑っていた。賭けには負けても、生きている。それで十分だと、皆わかっているようだった。


 ◇


 その夜、俺は沓掛城の一室で、筆を取った。


 宛先は、駿府にいる息子の氏真だ。


 体の持ち主の記憶の中で、氏真は蹴鞠の好きな、気のやさしい若者だった。史実では、父が桶狭間で死んだあと、家臣にそむかれ、元康に領地を取られ、国を失う。後の世では、蹴鞠ばかりしていた暗愚な跡取りと笑われる。


 だが、父が死ななければ、話は違う。


 俺は、ゆっくりと書いた。


 氏真へ。尾張で、雨に降られた。父は無事だ。近いうちに帰る。蹴鞠は、空をよく見てからにせよ。西の雲の頭が平たくなったら、すぐに屋根の下へ入れ。


 書き終えて、少し笑った。前の世で、毎日カメラの前で言っていたことと、たいして変わらない。


 障子の外で、咳払いが聞こえた。


「御屋形様。まだ起きておられますか」


「どうした、宗信」


「兵どもが、どうしても聞いてこいと申しますので。明日の分の賭けを、もう始めておるそうで」


 障子越しに、宗信の懐で銭がじゃらりと鳴った。昼の賭けで、ずいぶん勝ったらしい。返してやれと言っておいたが、聞いていたかどうかは怪しい。


 宗信は、まじめな声で言った。


「明日の天気は、いかがにございましょう」


 俺は障子を開け、夜の空を見た。


 星がよく見えた。風は北に回っている。湿り気が抜けて、空気が軽い。


「明日は、晴れ」


「はっ」


「ところにより、信長」


 宗信は、しばらく考えてから、ぷっと吹き出した。


 西の夜空の下では、あの面白がるような目をした男が、今ごろ同じ空を見上げているはずだった。

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