第一話 幼馴染の裏切り
その日、シャルティナはいつもより少し弾む足取りで、幼馴染のレントの家へ向かっていた。
朝早く、父の友人が娘を連れて沢山のベリーを摘んだからと、お裾分けに来てくれたので、シャルティナはお礼にとベリーパイを焼いた。
それでもまだまだ沢山あったので、もう一台焼き、それを今からレントに届けに行くところだ。
今日は会いに行く約束はしていない。
けれど、好物のベリーパイを持っていったらきっと喜んでもらえる。
何せ、このパイは結婚の約束のきっかけになったものだから。
『将来僕たちが大人になったら、シャルティナは僕のお嫁さんになってほしい。それで、毎日この世界一美味しいベリーパイを焼いてほしいな』
シャルティナは、ベリーパイの甘い香りを嗅ぐたびに、いつもこの場面を思い出しては、心を温かく満たしていた。
二人はまだ正式に婚約しているわけではない。
シャルティナのハイデン家もレントのイージス家も「あの子たちは時期がくれば自然と一緒になるものだ」と、温かく見守っている。
いずれ結婚するのだから、婚約は急がなくていいだろうと二人の両親とシャルティナは思っていた。
シャルティナも、将来がレントの隣にあると、少しの疑いもなく信じ切っていた。
イージス邸の裏手、庭園に面した場所にレントの部屋がある。
一声かけてから玄関に行こうと近づくと、開け放たれた窓から聞き慣れない、甘ったるい声が聞こえた。
「でも、レントはあの冴えない子と結婚するんでしょう?」
「まあな。俺の両親はあいつを気に入ってて、他の女は認めないだろうから仕方なく。それに、あいつは俺にベタ惚れだから何でも言うこと聞くんだよ。もし君との関係が知られても、こっちが別れをちらつかせれば文句も言えないさ」
今、自分が聞いた言葉が信じられない。
けれど、確かにこれはレントの声だ。
聞き間違えるはずがない。
「君と出会って、ようやく愛を知ったんだ。綺麗で、可愛くて……あんな地味な女とは比べ物にならない」
「私もよ……。うちの家が夫の家に援助されてなければ、あんなつまんない男となんてすぐに捨ててあなたと一緒になるのに……」
ちゅ、ちゅ、とリップ音がシャルティナの鼓膜を叩く。
「お互いままならないな。でも、俺たちはきっと運命で結ばれているんだ」
「身体の相性もいいしね?」
クスクスと笑う女の声が耳にべったりと張り付いた気がした。
「なあ、もう一回……」
「んっ、きて……レント……」
甘い声が響き、シャルティナはハッと我に返った。
落としそうになっていたパイの入った籠を握り締め、息を潜めてそっと敷地から出ると、自分の家まで駆けて行った。
家の扉を開き、籠をテーブルに置くと、二階へと足早に向かう。
「あら、レント君いなかったの? シャルティナ?」
シャルティナは母の声掛けに返事もせず、自室に駆け込んだ。
「はぁ……はぁ……」
よろよろと、ベッドに突っ伏した。
『冴えない子』『仕方なく』『地味な女』
そんな言葉がグルグルと頭を駆け巡る。
そして、
『なあ、もう一回……』『きて……レント』
あれはもう、そういうことなんだと、改めて考えて吐き気と涙がこみ上げる。
「うっ……うぅ……」
さっきまで、きっと今でも、レントのことが大好きなのに。
楽しかった思い出も、二人で過ごした大切な日々も、今はもう色褪せたように感じる。
すべて真っ黒に塗りつぶされ、さらに広がる黒が、目から零れ落ちている気がする。
「シャルティナ、入るわよ」
母がそっと室内に入ってきた。
ベッドに腰掛けると、シャルティナの頭を撫でる。
「どうしたの? 喧嘩でもした?」
そうだったら、どんなに良かったか。
喧嘩なら仲直りできる。
シャルティナが謝れば、レントも、自分も悪かったと謝ってくれる。
でも、これは。
母は隣にしゃがむと、ポロポロと涙を零すシャルティナを抱き寄せた。
「シャルティナ、ゆっくり話してごらんなさい」
「お母様……っ」
シャルティナは母に縋りつき、涙を流しながらすべてを話し始める。
「レントが、浮気を……ううん、きっと本気なんだと思う」
知らない女の子と自分の悪口を言っていたこと、仕方なく結婚すると言っていたこと、そして、人妻と身体を重ねていたこと。
「そう……。それで、シャルティナはどうするの?」
母は自分の娘を傷つけられた怒りで指先が真っ白になるまで手を握り締めたが、それをシャルティナに悟られないよう、努めて優しく声をかける。
「私、レントとは結婚したくない……。もう、関わりたくない……」
「わかったわ。あの子が来ても、あなたには取り次がないよう、お父様にも使用人にも話しておきます。お父様には自分から話す? それとも私から話しておきましょうか?」
「……お母様に、お願いしてもいい?」
「勿論よ。きっとその方がいいわ。シャルティナが泣きながらこんな話をしたら、お父様はきっと向こうの家に怒鳴り込んでしまうわ」
冗談めかして言う母に、ようやくシャルティナはクスリと笑いを零した。
「さあ、横になって。赤くなった目をしばらく冷やしなさい。そのまま少し眠るといいわ」
母は立ち上がり、扉を開けるとメイドを呼ぶ。
すぐに冷たい水とそれに浸した布が届く。
シャルティナは横になると、目を閉じる。
固く絞った布が目元に乗せられると、ひんやりとして気持ちがいい。
母は幼子にするように、トントンとシャルティナの胸を優しく叩く。
「大丈夫。あなたには私も、お父様も、仲良しのお友達だっているでしょう? 辛いことは吐き出して、ご飯を食べて、よく寝て。そうすれば、辛い今も過去になるわ」
一定のリズムが身体に刻まれ、少しずつ意識がふわふわとしてくる。
そのまま、心地よいリズムに身を任せ、シャルティナは意識を手放した。
すぅすぅと、規則的な寝息が部屋に響く。
シャルティナの目元を冷やしていた濡れた布を取る。
まだうっすらと赤く腫れている目元を見て、母は奥歯を噛みしめた。
(浮気、だなんて。それも人妻! あげくうちのシャルティナを都合の良い女扱い……もし万が一シャルティナがあの男を許すと言ったとしても、絶対に許さないわ……!)
母は自分の夫、シャルティナの父親に魔導鳥——魔法の鳥を模して作られた魔具を飛ばし、今日は早く帰ってくるように伝言を送った。




