第1話 帰郷
38歳の夏、俺は15年ぶりにこの町に戻ってきた。
東京の広告代理店で働いていたが、父の脳梗塞をきっかけにすべてを投げ出してUターンした。実家は海から徒歩十分の古い一軒家で、潮の匂いが部屋の隅々まで染みついている。
「拓也、久しぶりだな。変わってないようでよかった」
駅まで迎えに来てくれた幼馴染の慎吾が、そう言って俺の肩を叩いた。俺は苦笑いした。
変わっていないわけがない。髪には白いものが混じり、目尻にはシワが増え、心には空洞が広がっていた。
実家を片付けながら、俺は窓から見える海をぼんやりと眺めていた。
この海は、昔も今も変わらない。変わらないからこそ、余計に胸が痛む。
翌日の午後、俺は自転車で海沿いの道を走っていた。風が気持ちいい。
灯台の近くにある小さな喫茶店「潮音」に寄ることにした。昔、よく通った店だ。
店に入ると、カウンターに立つ女性の後ろ姿が目に入った。
肩までの黒髪、少し細くなった背中。エプロンをしているその後ろ姿に、俺は息を飲んだ。
「……遥?」
女性がゆっくり振り向いた。
佐藤遥、37歳。
俺がこの町で初めて、しかも一番深く愛した女性だった。
彼女の目が大きく見開かれた。
一瞬の沈黙の後、柔らかい、でも少し掠れた声が返ってきた。
「……拓也くん?」
15年という時間が、二人を隔てていた。
彼女は今、この店を一人で切り盛りしているという。結婚はせず、5年前に母親を亡くしてからは、この海の見える店にほとんど住み着いているらしい。
俺はカウンター席に座り、彼女が淹れてくれたコーヒーを飲んだ。
味は、昔のままだった。
「東京はどうだった?」
遥が静かに聞いた。
「まあ、忙しかったよ。派手な仕事だったけど……結局、何も残らなかったな」
俺は自嘲気味に笑った。
遥は少し目を伏せて、窓の外の海を見た。
「私はここでずっと、同じ海を見てた。
……時々、拓也くんがどんな風に生きてるのかな、って考えてたよ」
その言葉に、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
夕陽が店内に差し込み、彼女の横顔を優しく染める。
昔のままの綺麗な横顔。でも、目元には疲れと、静かな強さが刻まれていた。
「遥、俺……」
言葉が詰まった。
15年も経って、何を言えばいい?
「ごめん」か? 「会いたかった」か?
遥は小さく微笑んで、首を振った。
「今は、ただ……ゆっくり話せたらいいな。
拓也くんが帰ってきたんだもの。急がなくていいよ」
店を出るとき、潮風が俺の頰を撫でた。
遥がドアのところまで見送りに出て、こう言った。
「おかえり、拓也くん。」
その瞬間、15年間閉じていた何かが、音を立てて開いた気がした。
俺は振り返り、小さく頷いた。
「ただいま、遥。」
海は今日も静かに波を打ち寄せていた。
夏の終わりを告げる風が、俺たちの間にそっと通り抜けていった。




