真理4:【この醜くも美しい世界】
イメージソング:heats
https://youtu.be/E7QuhzJqDp8?si=t6k1WvcXlLlsnqDh
冷たい雨が、泥と血に塗れたニーア・ヴェル・リータスの身体を冷酷に打ち据えていた。全身の骨は砕け、誇りであった極太の黄金の尻尾は無惨に踏みにじられ、かつて愛したアスナの翼を模した光の羽はもはや見る影もない。彼女の周囲を取り囲む自己増殖型生物兵器「ヴェリタス」の群れが、最後の一片の肉を貪ろうと、おぞましい牙を剥き出しにして迫っていた。
遠くからは、市民たちの狂気的な歓声が響いている。
誰も助けに来ない!
誰も味方はいない!
どれほど世界を愛し、どれほど偉大な歴史を継承しようと足掻いても、結局のところ自分はただの一匹の虫ケラであり、自分の声は、誰の心にも届くことはなかったのか?
ニーアは泥水の中に顔を伏せ、ゆっくりと絶望の淵へと沈んでいく意識の中で、静かに目を閉じた。
ごめんね、アスナ。私は、何者でもなかったみたい。
その時だった。
肉が裂ける音も、骨が砕ける音も鳴らなかった。代わりに響き渡ったのは、鼓膜を震わせるほどに重厚で、かつてどこかで聞いたことのある、硬質な金属の激突音だった。
「遅くなってごめん、ニーアさん!」
泥に塗れたニーアの頭上で、恐るべき質量を持つ化け物の顎を、たった一枚の鋼鉄の盾が完全に受け止めていた。
ニーアが信じられない思いで薄く目を開けると、そこには──雨に打たれながらも微動だにせず立ち塞がる、ひとりの青年の逞しい背中があった。
数年前、薄暗い路地裏で理不尽な暴力に晒されていた、あの時の少年だった。
彼は、かつてニーアから手渡されたパンの温もりと、命の炎を燃やすような言葉を胸に抱き、立派な戦士へと成長していたのだ。
青年は盾で化け物を弾き飛ばすと、泥だらけのニーアを振り返り、あの日の彼女とまったく同じ、温かくも不敵な笑みを浮かべた。
「生きろって言ってくれたから。だから、僕は、強くなれた。今度は僕が、あなたの盾になる番だ!」
その言葉は、ニーアの心の奥底で凍りついていた絶望を、一瞬にして打ち砕いた。
自分がかつて、無我夢中で発した言葉が、彼の中で何年もの間生き続け、こうして自分のもとへ帰ってきた。
自分は……決して無駄などではなかったのだ!
青年は盾を構えたまま、避難所からニーアを罵倒し続けていた市民たちに向かって、血を吐くような声で叫んだ。
「目を覚ませ、あんたたち!この人が今まで誰のために血を流してきたと思ってるんだ!俺たちが世界から見捨てられた時、泥水に塗れて俺たちの前に立ってくれたのは誰だった! 偽物のニュースに踊らされて、自分たちの本当の希望を見殺しにする気なのか!」
その叫びは、市民たちの胸に突き刺さった。狂乱していた人々の動きが止まり、彼らの瞳に宿っていた憎悪の色が、次第に困惑と、そして深い後悔へと変わっていく。
だが、感動的な再会を化け物たちが待ってくれるはずもない。態勢を立て直した何十頭ものヴェリタスが、青年とニーアを完全に挽肉にしようと一斉に跳躍した。青年ひとりの盾では到底防ぎきれない絶望的な質量が降り注ぐ。
ニーアが「逃げて」と叫ぼうとしたその瞬間、新王都の広場に、地鳴りのような轟音を立てて無数の重装甲車両が突入してきた。
凄まじいブレーキ音とともに飛び出してきたのは、ニーアを指名手配し、国家反逆罪の汚名を着せた張本人である魔導規制局の武装部隊と、そして、議会を空転させていたはずの政府内の極左・極右の過激派議員たちであった。
「撃てぇぇぇっ!ニーア・ヴェル・リータスに指一本触れさせるな!」
規制局の部隊長が絶叫し、彼らが構えた重火器から一斉に魔導の閃光が放たれた。降り注ごうとしていたヴェリタスの群れが、空中で次々と爆散していく。彼らはニーアを捕縛するどころか、彼女を守るための鉄壁の円陣を組み、化け物たちに向かって決死の防衛線を張り始めたのだ。
何が起きているのか理解できず呆然とするニーアの前に、魔導規制局の長官が泥を跳ね上げて駆け寄ってきた。彼は高級なスーツを泥まみれにしながらニーアの前に膝をつき、彼女の指名手配書をその手でビリビリに引き裂いた。長官の顔は、涙と雨でぐしゃぐしゃになっていた。
「ごめんなさい!……本当に、ごめんなさい!すまない!許してくれ、ニーア……!我々は、『こうする』しか君を守る方法を見つけられなかったんだ!」
長官の口から語られた真実は、ニーアの想像を絶するものだった。魔導規制局がニーアを指名手配したのは、彼女を醜い嫉妬から追い落とすためではない。もし彼女が「お飾りの姫」として軍の指揮下にいれば、腐敗した上層部の命令で最前線から遠ざけられ、その自由を奪われていた。さらに致命的だったのは、脱走した生物兵器ヴェリタスの性質だった。あの化け物たちは「ヴェリタスの名を冠する者」と「高出力の魔導波形」を最優先で自動追尾し、抹殺するようにプログラムされていたのだ。
規制局がニーアを公の場で否定し、手配犯としてデータを抹消したのは、新王都の防衛ネットワークから彼女の魔法IDを完全に消去し、化け物のセンサーから彼女の存在を隠蔽するためだった。
さらに、過激派の議員の一人が、武器を構えながら振り向いて叫んだ。
「政府の連中はな、化け物を抑えきれないと見るや、またしても!この新王都を市民ごと焦土化する超兵器を使おうとしやがった!だから俺たちは、『ヴェリタス』を『新王都生物』という名称に変更するか否かという、くだらない議論をでっち上げて、議会を意図的に混乱させていたんだ!あんたが現場で化け物を食い止めてくれるまでの、時間を稼ぐためにな!」
すべては、不器用な芝居だった。彼らは自ら進んで悪役となり、無能な政治家や腐敗した官僚という泥を被ってでも、新王都の希望であるニーアを守り、彼女が戦うための時間を必死に稼いでいたのだ。
「誰も……私を、憎んでなんか、いなかった……?」
ニーアの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。自分は一人ではなかった。
どんな環境でも、些細な対立や、すれ違いや、不器用な表現から始まる憎み合いはある。
だが。
この街にいる誰もが、それぞれのやり方で必死に生きようとし、そして、彼女の背中を支えようとしていたのだ。敵など、最初からどこにも存在しなかった。あるのはただ、生きようとする人間の、愛おしくも不完全な足掻きだけだった。
だが、真実が明らかになっても、目の前の脅威が消え去るわけではない。ヴェリタスの群れは再び集結し、今度は数百体の肉塊を融合させた、ビルよりも巨大な絶望の化身となって迫ってきた。魔導規制局の火力でも、もはや足止めすら叶わない。装甲車両が紙切れのように弾き飛ばされ、防衛線が崩壊していく。
長官が絶望の声を漏らした時、規制局の輸送車両のハッチが開き、大量の黒いケースが広場にばら撒かれた。
「市民の皆さん、聞いてください!」
拡声器を持った規制局の研究員が、避難所で震える人々に向かって叫んだ。
「真実の魔力とは、選ばれた血統などではありません!魔力とは生命力です!抗い、戦い、明日を生きようとする人間の強靭な意志こそが、魔力の正体なのです! ここにあるのは、誰もが魔力を励起できる量産型ナンバー!生きたいと願う者は……立ち上がってください!」
その叫びに応えたのは、屈強な兵士たちではなかった。
最初に泥水の中に足を踏み出したのは、片腕を失った退役軍人の老人だった。次に、光を失った盲目の少女が杖を頼りに歩み出た。さらに、耳の聞こえない青年や、車椅子に乗った少年、そして、かつてニーアに守られていた一般市民たちが、次々と広場に降り立ち、黒いケースから量産型ナンバーを手に取ったのだ。
彼らは、かつて社会から「不具」と呼ばれ、魔力がないからと虐げられてきた者たちだった。しかし今、彼らの瞳には、何者にも負けない圧倒的な生の意志が宿っていた。
新王都の夜空に、太陽のような眩い光の柱が無数に立ち昇った。
それは、人類が到達した究極の人間讃歌であった。
片腕の老人は失われた腕を眩い光の魔力で形成し、巨大な化け物の突進を正面から受け止めた。盲目の少女は、視覚ではなく世界に満ちる生命力の波動を感知し、光の矢を放って敵の急所を正確に射抜いた。車椅子の少年は、車輪を光の推進器へと変え、空を舞いながら支援魔方陣を展開する。耳の聞こえない青年は、仲間たちが放つ光の明滅を完璧な戦術言語として読み取り、市民たちの攻撃の波を見事に指揮していく。
誰もが英雄だった!
エラーラたちが駆け抜けた戦いの日々は、そしてニーアが泥に塗れて足掻いてきた日々は、決して無駄ではなかったのだ!
彼らが遺した想いは、こうして名もなき人々の心の中に確かに根付き、世界を変える巨大な力となって花開いていた。
その光景を泥の中から見上げていたニーアの胸に、これまでにないほど熱く、力強い鼓動が鳴り響いた。
自分が、いまの、この命を、『生きていた』という圧倒的な事実は、間違っていなかったのだ!
自分の直向きながむしゃらな生き方は、確実にこの世界に継承されていた。過去の偉人たちから受け取ったバトンを、自分はしっかりと次の世代へ、この世界で生きるすべての人々へと分かち合うことができたのだ。
「立てますか、ニーアさん」
青年が、泥だらけの手をニーアに差し出した。
「当たり前じゃない!」
ニーアはその手を強く握り返し、激痛が走る足に力を込めて、ゆっくりと、しかし誰よりも誇り高く立ち上がった。彼女の極太の尻尾が、再び力強く天を指してピンと立つ。黄金の毛並みが、周囲の光を吸い込んで燦然と輝き始めた。
「私を誰だと思ってるの?ヴェリタスの歴史を……いや。……人の歴史を誰よりも愛する女、ニーア・ヴェル・リータスよ!」
彼女は、自身の、オリジナルのナンバーに手を当てた。
「着装!」
その瞬間、新王都のすべてを包み込むほどの、圧倒的で、優しく、そして力強い光が爆発した。
ニーアの全身を包み込んだのは、ただの装甲ではない。それは、彼女が愛してやまない偉人たちの魂そのものであった。彼女の不敵な笑みには、エラーラ・ヴェリタスの絶対に屈しない自信が宿っていた。彼女の拳には、ナラティブ・ヴェリタスのすべてを焼き尽くす激しい熱意が宿っていた。彼女の背筋を伸ばす強靭な意志は、アリシア・ヴェリタスの折れない矜持であった。
そして、彼女の背中から勢いよく広がり、夜空の暗雲を完全に切り裂いた巨大な光の翼は、ニーアが世界で一番愛する女性、アスナ・クライフォルトが纏っていた慈愛と守護の羽そのものであった。
「みんな!私たち人間の底力、奴らに思い知らせてやるわよ!」
ニーアの高らかな宣言とともに、光の翼が羽ばたいた。
戦闘の詳細は語るまでもない。人間の生きる意志の集合体である彼らの前に、知性なき兵器など赤子同然であった。
戦いが終わり、新王都に長い夜明けが訪れた。分厚い暗雲は完全に消え去り、東の空から差し込む透き通るような暁光が、瓦礫の街を優しく、そして神々しく照らし出していた。生き残った人々は傷だらけになりながらも肩を寄せ合い、自分たちの手で勝ち取った確かな明日を噛み締めるように涙を流している。光の装甲を解いたニーア・ヴェル・リータスは、泥だらけの黄金の毛並みを朝の風に揺らしながら、その美しくも泥臭い人間の姿を広場の中央で静かに見つめていた。
その時、新王都に満ちていた数万の「生きる意志」すなわち命の魔力が、朝日の粒子と共鳴し、奇跡の輝きを放ち始めた。絶望に抗い、最期まで生き抜くために足掻いた者たちの意志が、絶対的な光の特異点を生み出したのだ。光の粒子は天へ昇るのではなく、地上に留まり、ゆっくりと人の形を結んでいく。それは幻覚ではない。人間の生きる意志が極限まで高まったことで生み出された、究極の魔法だった。
光の中から最初に現れたのは、空を震わせるほどの豪快な高笑いだった。
三十年前、過酷な運命の中で誰よりも生に執着し、時代を駆け抜けた大英雄、エラーラ・ヴェリタスその人である。彼女は不敵な笑みを浮かべ、誇らしげにニーアを見つめていた。その後ろには、言葉を発することなく静かに佇む二人の影があった。一人は炎のような熱意を瞳に宿したナラティブ。もう一人は折れない矜持を静かな微笑みに変えたアリシア。彼らは何も語らない。しかし、その立ち姿だけで、ニーアが繋いだ命のバトンの重さと、彼女への絶対的な肯定が痛いほどに伝わってきた。
そして、エラーラの隣から、透き通るような光の羽を背負った女性が静かに歩み出た。美しき竜人、アスナ・クライフォルト。ニーアが誰よりも強烈に愛し、その生き様を狂おしいほどに追い求めた運命の女性であった。
「アスナ……!」
ニーアの瞳から、再び大粒の涙が溢れ出した。
「よく頑張ったわね、ニーア!」
アスナの慈愛に満ちた声が響いた瞬間、ニーアの勝気な仮面は完全に崩れ落ちた。彼女は地を蹴り、光の粒子を纏うアスナの胸へと一直線に飛び込んだ。アスナは両腕でしっかりとニーアを受け止め、その泥だらけの極太の尻尾と背中を優しく撫でた。ニーアはアスナの腕の中で、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
たった一人で泥を啜りながら戦ってきた孤独な魂が、ようやく本当の居場所を見つけたのだ!
「私、頑張ったよ!ねえ!見てた?アスナたちの歴史を、生きることの意味を、誰にも忘れさせないように、未来へ繋いだんだから!」
涙声で叫ぶニーアの頭を撫でながら、エラーラが腹を抱えて笑った。
『ハッハッハ!違いない!ニーア・ヴェル・リータス、君こそが真の継承者であり、我々ヴェリタスを超える最高の英雄だ!君が繋いだこの世界は、もう何も心配はいらないな!』
ナラティブとアリシアも、満足げに目を細めて朝の光へと溶け込んでいく。
かつての偉人たちと、今を生きる人々。過去と未来が完全に交差し、一つになった瞬間だった。長きに渡る悲惨な運命も、血塗られた歴史も、すべてはこの大団円を迎えるための壮大な前振りに過ぎなかったのだと、誰もが確信した。
新王都は、ここから本当の意味での復興を始めるだろう。魔力は一部の特権階級のものではなく、生きようとするすべての命に宿る希望の光となった。誰もが互いを助け合い、認め合う、真の平和の時代が幕を開けたのである。
朝の光の中で、ニーアはアスナの腕の中から顔を上げ、眩しい太陽と、笑い合う世界の人々を見渡した。
「さあ、帰ろう、アスナ。私たちの、最高の街へ!」




