真理8:野狐の偽証
新暦146年、夏、現在。
ニーアは、かつての絶望の淵から、見事なまでの復活を遂げていた。
彼女は今、ゼランディアの官邸のテラスで、真っ白なドレスに身を包み、黄金の髪を陽光に輝かせながら、特注のドーナツを頬張っていた。傍らには、アスナが愛したのと同じ、深煎りの珈琲が湯気を立てている。
「ふふん、やっぱり砂糖は多めに限るわね。ねえ、アスナ。あんたが隣で『甘すぎる、計算が狂う』って文句を言わないのが、今のあたしの唯一の悩みよ」
彼女の独り言に、風だけが優しく応えた。
五年前、あれほど彼女を苛んだPTSDの影は、今や彼女自身の意志によって「物語」へと昇華されていた。彼女が執筆した本「ノット・ヴェリタス」は、今や、義務教育で副読本に採用されるほどの聖典となっていた。
もちろん、それは、SF小説という「嘘」として……。
人々は、その小説を読んで涙し、ニーア・ヴェリタスという少女が潜り抜けたとされる「嘘」に同情した。
人々は、彼女を「エラーラと飛竜の魂を継ぐ者」という「嘘」を、熱狂的に支持した。
ニーアは、その巨大な「嘘」の神輿の上に、自らの意志で、座り直したのだ。
ある日の午後。
ニーアは護衛を振り切り、かつての探偵時代のように、粗末なフード付きのコートを羽織って街へと繰り出した。ゼランディアの繁華街は、活気と偽りの平和に満ち溢れている。その大通りの片隅、広場の噴水近くで、小さな騒ぎが起きていた。
数人の大人の魔導士たちが、一人の少年を囲んで怒鳴り散らしていた。
「ガキ!もう一度言ってみろ!聖女様を、ヴェリタスの御方を、いま!何と侮辱した!」
「……本当のことだもん!父ちゃんが言ってたんだ、あいつは偽物だって!ヴェリタスの名前を盗んだ嘘つきなんだって!嘘つきのニーアなんか、死んじゃえばいいんだ!」
少年は地面に組み敷かれながらも、剥き出しの敵意を瞳に宿して叫んでいた。少年の父親は、おそらく、ニーアの「嘘」に気がついていた数少ない生き残りか、あるいは、ゼランディアの過激な選民思想に染まった者なのだろう。
周囲の大人たちは、自分たちの信じる「聖女」を否定されたことに激昂していた。
「聖女様は、我々を守ってくださった奇跡の御方だぞ!」
「嘘つきはお前の方だ!その汚い口を魔法で焼き切ってやる!」
一人の魔導士が、手にした杖にどす黒い魔力を込め、少年の顔面に向けて放とうとしたその瞬間だった。
「はいはい、そこまで!熱くなりすぎると、せっかくの魔力が煤けちゃうわよ?」
軽やかで、どこか悪戯っぽい、鈴を転がすような声が響いた。
人だかりを割って現れたのは、フードを脱ぎ捨て、黄金の尻尾を堂々と揺らしたニーア・ヴェリタス、その人であった。
場に、静寂が訪れた。
魔導士たちは、驚愕のあまり杖を取り落としそうになりながら、一斉にその場に膝をついた。
「せ、聖女様……!なぜ、このような場所に……!?」
「今、この無礼な子供を始末するところでございます!貴女様を偽物と呼び、死ねなどと……!」
ニーアは、彼らの言葉を無視して、泥だらけで倒れていた少年の前に歩み寄った。そして、ドレスの汚れも気にせずにその場に屈み込み、少年の目線に合わせて優しく微笑んだ。
「……死ね、か。久しぶりに言われたわね、その言葉。懐かしくて、なんだか泣けてくるじゃない」
少年は、目の前に現れた「本物」の輝きに圧倒されながらも、必死に虚勢を張って彼女を睨みつけた。
「……そうだ!嘘つき!あんたなんか、大っ嫌いだ!」
「ええ、知ってるわ。あたしは世界で一番の嘘つきよ。あんたの言ってることは、ある意味で、この世界で唯一の『正解』かもしれないわね。でも、だからこそ!」
ニーアは少年の頬についた泥を、自らの指先で優しく拭った。その瞳には、慈愛でも憐憫でもなく、対等な一人の人間としての敬意が宿っていた。
「坊や。あたしが偽物だろうと、嘘つきだろうと、いま、ここであなたは生きている。その心臓が動いて、あたしを憎めるくらい元気に叫んでる。あたしにとっては、それだけで十分なの。だって、あたしの大切な人が命を懸けて守りたかったのは、こういう、真実へ向かう意志をもつ命なんだから!」
魔導士たちは、ニーアの言葉に耳を疑った。
「な……何を!何を仰るのですか、聖女様!この小僧は貴女様を否定したのですよ!貴女様を、我々の信仰を裏切るつもりですか!?」
「この女は……ニーア・ヴェリタスの偽物か!?本物のニーア・ヴェリタスが、ニーア様自身を侮辱するはずがない!」
群衆の熱狂は、一瞬にして反転し、どす黒い疑念と敵意へと変わった。彼らが愛していたのはニーア本人ではなく、ニーア・ヴェリタスという「便利な偶像」だったのだ。偶像が自らの意志で枠をはみ出した瞬間、彼らにとって、彼女の真実は排除すべき誤り(エラー)となった。
「偽物め!裏切り者だ!ヴェリタスの名を汚すペテン師め!」
数人の魔導士たちが、一斉にニーアと少年を標的に定めた。
少年は恐怖に目を見開き、死を覚悟して身を縮めた。
だが、ニーア・ヴェリタスは、不敵に、明るい笑顔を浮かべて言い放った。
「そうこなくっちゃ!計算通りの展開ね!いい?坊や。嘘が本物を凌駕する瞬間を、瞬きせずに見てなさい!」
彼女は、懐から一つの輝く金属体を取り出した。それは、かつてのエラーラ・ヴェリタスの叡智をかき集めて、ニーアが完成させた、最終デバイス。
「エラーラ・ヴェリタスならば、こう言ったでしょうね。……愛とは、命を懸けて「真実」へと向かう意志である!────着装!」
ニーアが叫ぶと同時に、彼女の身体を黄金の粒子が包み込んだ。
アスナの鱗を思わせる漆黒の装甲と、エラーラの白衣を模した白銀のラインが、ニーアの身体に浮かび上がった。
放たれた魔導弾を、ニーアは最小限の動きで華麗に回避した。
「遅いわよ!あたしはね、あのアスナの無茶苦茶な特訓を毎日受けてたんだから!」
ニーアは一歩踏み出し、掌を魔導士の一人に向けた。衝撃波が放たれ、暴漢たちは木の葉のように吹き飛んだ。
「なぜ……魔力がないはずなのに……!?」
「魔力がない?そんなの昔の話よ!いい?あたしは『ニーア・ヴェリタス(Near Veritas)』。真実へと向かう者よ!」
ニーアは背中に展開された光の翼を羽ばたかせ、地面を蹴った。
彼女は、少年に向かって最後にもう一度、眩いばかりのウィンクを投げかけた。
「生きなさい、坊や!あたしを嘘つきだと罵るために、どこまでも自由に!……自由に!……それが、あたしたちがこの世界に残した、唯一の『真実』なんだから!」
次の瞬間、ニーアは黄金の閃光となり、天高くへと舞い上がった。
見上げた空。そこには、かつてアスナが消えていったあの日の悲しい朝陽ではなく、未来をどこまでも等しく照らし出す、力強い太陽が輝いていた。
少年は、立ち尽くしたまま、その黄金の軌跡を目に焼き付けていた。頬を伝う涙は、恐怖ではなく、言いようのない感動と、生きていくことへの強烈な肯定感から溢れ出したものだった。
雲を突き抜け、成層圏の境界にまで到達したニーアは、眼下に広がる青い星を見下ろした。
「アスナ、見てて。あんたが守ろうとしたこの世界を、あたしがもっともっと、面白い『最高の物語』にしてあげるから!」
ニーアは、次なる平和を脅かす影、あるいは新たなる混沌の予兆へと向かって、突撃していった。
空には、彼女が引いた一筋の黄金の航跡が、いつまでも、いつまでも、消えずに残っていた。
それは、絶望を食らい、嘘を愛に変えた一人の探偵が、世界に刻んだ真実の署名であった。




