真理2:三代目襲名!飛竜ふたたび!
ダイモンの言葉は、乾ききった空気を僅かに震わせただけで、すぐに、淀みの中に吸い込まれていった。
レンの視線が、ふと足元の泥濘に落ちている一冊の分厚い本に止まった。装丁はひどく汚れ、表紙は破れかけていたが、そこに印字されたタイトルははっきりと読み取ることができた。
それは、ゼランディア本国で狂信的なまでに支持され、この新王都跡地を蹂躙するための大義名分として使われた、一冊の忌まわしい「怪文書」であった。
著者は、一匹の狐獣人の女である。彼女は、かつて新王都を完全に消滅させたあの魔導爆弾の爆心地に自分はいたのだと自称し、わけのわからない妄想を織り交ぜてこの小説を書き上げた。
内容の支離滅裂さもさることながら、さらに不気味で吐き気をもよおすのは、圧倒的な武力と科学力を持つはずのゼランディア国が、この三文小説以下の妄言を国家の公式な歴史として採用しつつあるという事実である。
ゼランディア建国の祖であり、彼らが神の如く崇める「ヴェリタス一族」。彼らは、紛れもなく純血種の人間である。それがゼランディアの国粋主義の根幹であり、他民族を排斥するための拠り所であったはずだ。
しかし、ゼランディアの上層部は、自分たちが発射した爆弾によりヴェリタスの末裔が全滅したという事実に怯え、この、たまたまそこにいた狐獣人の女の怪文書を勝手に拡大解釈し、そのペテン師の獣人こそがヴェリタス家の末裔であるという、論理が完全に破綻した断言を行ったのだ。
「彼女は爆心地にいたが、無傷だった。すなわち、彼女は新王都の真の所有者であり、ヴェリタスの血を引く聖女である。我々ゼランディアは、彼女の土地を取り戻し、新王都を庇護下におかなければならない」
それが、彼らがこの地を侵略し、数え切れないほどの人間を虐殺した理由だった。純血種の人間を至高とするレイシストたちが、侵略の口実を作るためだけに、一匹の獣人を建国の祖の末裔に仕立て上げたのである。白を黒と言いくるめるどころの騒ぎではない。
彼らは、真実に憧れ、信仰しつつ、そのくせ、信仰対象の真実を理解する気など、なかったのだ。
レンは、いまさら、もう、その理不尽な、今まさに作られようとしている過去の歴史に対して怒る気にもなれなかった。レンは泥に塗れたブーツの底でその怪文書を無造作に踏みつけ、窓の隙間から外の景色へと視線を移した。
異様な静けさだった。
先ほどまで街全体を包み込んでいた、新領土暫定警察による耳をつんざくような銃声と、断末魔の悲鳴、そして略奪の喧騒が、まるで悪い夢であったかのように完全に消え失せていた。
暫定警察の連中は、予定していた「娯楽」を終え、満足して自分たちの安全な要塞へと引き上げていったのだ。
背後で、衣擦れの音がした。ダイモンが、腹部の傷を押さえながら、レンの足元に置かれた金属製のアタッシュケースを凝視していた。
今こそ、開ける時ではないのか。
今こそ、父ガゼルが、己の命と引き換えにしてまで守り抜き、レンに託したものを、引き継ぐ時ではないのか。
レンの脳裏に、これまでの銀竜会での日々が走馬灯のように駆け巡った。
父が、あそこまでひた隠しにして「それ」を守るために、わざわざ銀竜会という暴力団を結成した理由。今なら、その恐るべき真意が理解できる。
一般的な暴力団というものは、表向きは合法的な企業の体裁を保ちながら裏で暴力団として動くか、あるいは最初から暴力団として堂々と鎮座し、その暴力性を誇示しながら動くかのどちらかである。
だが、銀竜会は全く違った。
ガゼルは、「それ」をこの地獄のような世界から完全に隠匿し、守り抜くためだけに、あえて「それ」から最もかけ離れた存在である、極悪非道な暴力団という皮を被ることを選んだのだ。
もしも聖杯を隠すなら、教会の祭壇ではなく、誰一人として近寄ろうとしない腐臭漂う掃き溜めの底に隠すのが最も安全だ。
ガゼルは、最も尊く、最も純粋な何かを守るために、自ら進んでこの世で最も汚れた泥を全身に被り、殺戮と恐喝を繰り返すヤクザの組長という役回りを完璧に演じきったのである。彼が冷酷に振る舞えば振る舞うほど、銀竜会が外道な組織として恐れられれば恐れられるほど、その奥底に秘められた「真実」は、誰の目からも完璧に遠ざけられていったのだ。
レンは、ゆっくりと膝をつき、アタッシュケースを己の正面に引き寄せた。
重い金属の感触。それは、ガゼルという一人の男が背負い続けてきた、途方もない覚悟の重さそのものであった。
「……見るか」
レンは、背後にいるダイモンに向かって、低くしゃがれた声で言った。ダイモンは息を呑み、無言のまま頷いた。
レンの両手が、ケースの二つのロックに掛けられる。カチャリ、という冷たい金属音が、静まり返った小屋の中に不気味なほど大きく響き渡った。
レンは、ゆっくりとケースの蓋を持ち上げた。
「これは……」
レンの声は、喉の奥で掠れた。
ケースの内部、漆黒の緩衝材に鎮座していたのは、鈍い銀色の輝きを放つ一枚の──「ナンバープレート」だった。
それは、失われた技術。
「魔力生成装置……」
ダイモンが、傷口を押さえる手も忘れ、這いずるようにしてケースを覗き込んだ。彼の顔は、恐怖と驚愕で土気色に変色した。
「嘘だ……。そんな馬鹿な!」
ダイモンが腰を抜かしたのは、単に伝説の遺物が目の前にあるからだけではなかった。
ナンバー。それは、あの日失われた「魔法」という名の特権を、個人の意志で再び「生成」し、現実に定着させるための唯一の鍵である。
例えるなら、剣と盾による決闘が正解だった中世の戦場に、突如として戦闘機や戦車が乱入してくるようなものだ。この魔法という光を失い、暴力と物理法則だけが支配する「場所」において、個人の身に纏うことのできる魔力生成装置が何を意味するのか。それは自明だった。
それは「自由」だ。
国家という巨大な暴力装置、ゼランディアという圧倒的な支配者、そして暫定警察という理不尽な群れ。それらすべてを、たった一人の意志で、その根底から覆し、粉砕し、書き換えることができるという、究極の暴力による解放。
ガゼルが、銀竜会という巨大な泥の城を築き上げてまで隠し通し、守り抜きたかったもの。それは、この無慈悲な世界を終わらせるための、最後にして唯一の叛逆の種火だったのだ。
レンは、磁石に吸い寄せられるように右手を伸ばし、そのナンバーに触れた。
冷たいはずの金属表面から、熱い鼓動が伝わってくる。レンの指が、プレートの表面に刻まれた刻印をなぞった。
『アスナ・ヴェリタス』
その名を目にした瞬間、レンの脳髄を、恐怖と戦慄を遥かに超えた「歓喜」という名の激流が駆け巡った。
アスナ・ヴェリタス。
ゼランディアの教科書には、ゼランディアを助けた新王都の敵として記され、あの「怪文書」の中では、悲劇のヒロインとして歪められていた名。
かつてこの世界を崩壊の危機から救い、龍の力を身に纏って闇を退けたとされる伝説の「竜人」。
「銀竜会……」
レンは、震える声でその名を呟いた。
「そうか。そういうことか!」
銀竜とは、特定の地域や利権を指す隠語ではなかった。それは、この地に再び舞い戻るべき唯一の希望、アスナ・ヴェリタスを指す象徴だったのだ。
父は、この神聖な鍵を俗世の汚れから守るために、あえて「暴力団」という名の、世界で最も不浄な外套を纏わせていたのだ。
「父さん。俺、ようやく分かったよ……!」
レンは、ナンバーをケースから引き抜いた。
その瞬間、小屋の中の空気が鳴動した。蓮の全身を、目に見えない光の粒子が、優しく、しかし強烈に包み込んでいく。それは、四年前に失われたはずの、懐かしくも恐ろしい「魔法」の感触だった。
その時である。
バラック小屋の、立て付けの悪い木の扉が、外側から凄まじい衝撃音とともに吹き飛んだ。
土煙の中から現れたのは、黒塗りの防弾装甲に身を包んだ、ゼランディア新領土暫定警察の特殊部隊だった。彼らのアサルトライフルのレーザーサイトが、暗闇の中で無数に交差し、レンとダイモンの身体を捉える。
暫定警察が、この夕暮れ時に銀竜会系のアジトを総掛かりで襲撃し、ガゼルを殺害した真の理由。それは、組織の殲滅などではない。ガゼルがひた隠しにしてきた、この「アスナ・ヴェリタスのナンバー」の奪回、あるいは破壊であったのだ。
レンは、押し寄せる恐怖と肋骨の激痛を、奥歯を噛み砕くほどの力で抑え込んだ。右手に握ったナンバーを、自らの腰元へ力任せに押し当てる。
「お前たちの好きには、もう、させない……!アスナ・ヴェリタスの二代目は、この俺だ!」
レンは、魂の奥底から、絞り出すように叫んだ。
高周波が小屋の中に鳴り響き、ナンバー中央の真紅の回路が発光し、レンの肉体を強引に魔力へと変換しようとする。
だが、次の瞬間。
「うわあああッ!」
レンの肉体は、ナンバーから放たれた凄まじい反発斥力によって、木の葉のように虚空へ弾き飛ばされた。
レンの手から離れたナンバーもまた、空中に円を描いて弾き飛ばされ、床の泥の中に転がり……奇しくも、壁際でうずくまっていたダイモンの、その足元へと。
土煙の中から、暫定警察の指揮官らしき男が、嘲笑を浮かべながら歩み寄ってきた。彼は泥にまみれたレンを見下ろし、侮蔑を込めて吐き捨てた。
「バカか貴様。二代目?……そのナンバーに何と書いてある?『アスナ・ヴェリタス』だ。……ヤクザごときが、起動できるわけがないだろうが!」
指揮官は、レンの腹部を容赦なく踏みつけた。
「これは、我らゼランディアの手によって、アスナ・ヴェリタスの亡霊に悩める聖女ニーア様のもとへ届けられるべき聖遺物なのだ。お前に『着装』は、できない!」
レンは、激痛と屈辱に身を悶えさせながら、動くこともできずに泥の中にうずくまった。父から託されたものを、己の無力さゆえに、いま、目の前で奪われようとしている。
ダイモンは、壁際でその光景を、息を殺して見つめていた。
床の泥の中に転がった、アスナ・ヴェリタスのナンバー。魔導の光が、大門の顔を、青白く照らしている。
だが。
ダイモンは、先ほど自分がなぜ、味方であるはずの暫定警察から命を狙われていたのか、その理由を、今この瞬間に、完全に察した。
彼らゼランディア人たちは、知っていたのだ。この廃棄区画に、失われた魔力生成装置「ナンバー」が隠されていることを。
そして、それを起動できる可能性があるのは、おそらく、敵対する新王都人のダイモンだけであることを。だからこそ、彼らはダイモンを、ナンバーを手にする前に抹殺しようとしたのだ。
ダイモンは、震える手で、泥にまみれたナンバーを拾い上げた。
重い。
父の覚悟、兄の絶望、そして、新王都の全ての者たちの怨念が、この一枚の金属板に凝縮されているかのように重かった。
ダイモンは、ナンバーを自らの腰元に、静かに、しかし固く押し当てた。
「父さんにも、兄さんにも、無理だった。……でも、俺にはできる!」
それは、何の根拠もない、完全なるハッタリだった。自身には魔力などない。名前も違う。この四年間の地獄で、心も体も枯れ果てた、ただの崩れかけた人間の残骸だ。だが……。
「三代目は、この俺だ!────着装!」
ダイモンの「意志」に、ナンバーが呼応した。




