真理1:怪談が紡ぐ真実!
●モチーフ
1938年
エノケン日劇出演
東京オリンピック返上
ある雨の日。ヴェリタス探偵事務所の重厚なオーク材の扉が、乱暴に開かれた。
現れたのは、王都警察の制服を雨で濡らし、ひどく疲労困憊した顔つきのビリーだった。彼はドアの傍で雨水を払い落とすと、のろのろと室内へ歩みを進めた。
ニーアはソファから半身を起こし、呆れたようにため息をついた。
「ちょっとビリー、床が濡れるじゃないのよ!……で?今日はどんな世界の危機を持ってきてくれたの。また魔導テロの予告?それとも腐敗した政治家の裏帳簿探し?まさか、また迷子のネコ探しってんじゃないでしょうね!」
ビリーは力なく首を振り、来客用の椅子にどさりと腰を下ろした。そして、両手で顔を覆いながら、くぐもった声で言った。
「……頼む、二人とも。笑わないで聞いてくれ。俺だってな、こんな馬鹿げた話を真面目に捜査するなんて、警察の恥だと思ってる。だがその、なんだ。上層部からの、正式な特命なんだ……」
ニーアは獣耳をピンと立て、面白そうに身を乗り出した。
「もったいぶらないで言いなさいよ。なら、貴族の愛犬探しとかでしょう?違うの?」
ビリーは深く息を吸い込み、意を決したように顔を上げた。
「新王都に最近渡来してきた、超大物芸能人の身辺調査と護衛だ。名前は、ユカリ・ヤジマ。知ってるだろう」
ニーアは目を丸くした。ユカリといえば、最近新王都の巨大スクリーンというスクリーンを埋め尽くしている、飛ぶ鳥を落とす勢いの若手女優だ。知的な美貌と、どこか影のある演技力で、瞬く間にトップスターの座に登り詰めた存在である。
「芸能人の護衛?私たちが?なんでまた警察がそんな民間の警備会社みたいな真似を……」
「問題は、彼女が誰に狙われている……かもしれない……という点なんだが……」
ビリーは周囲を気にするように声を潜め、ひどく真面目な顔で続けた。
「……赤いお口のユリカちゃん、って怪談を知っているか」
その瞬間、ニーアは数秒間硬直した後、腹を抱えて大爆笑し始めた。彼女の笑い声は探偵事務所の壁に反響し、雨音を完全に掻き消した。
「あははははっ!……ちょっと、ビリー。あんた正気?それ、裏通りの子供たちが夕暮れ時に囁き合ってる、ただの都市伝説じゃない。警察機構のエリート様が、オバケが怖くて探偵に泣きついてきたってわけ。傑作ね!」
ニーアの容赦ない嘲笑に、ビリーは顔を真っ赤にして反論した。
「いやいや、笑い事じゃないんだ。上層部は本気でこの怪談に怯えている。いや、怪談そのものじゃない。この噂を利用してユカリに危害を加えようとする狂信的な連中を警戒しているんだよ」
ビリーの説明によれば、数年前から新王都のスラム街を中心に囁かれている「赤いお口のユリカちゃん」という怪談の骨子はこうだ。
かつて新王都の最下層に、母親に捨てられ、ヤクザに傷を負わされて手足に重度の障害を持った「ユリカ」という黒髪に赤目の少女がいた。彼女はろくに歩くこともできず、泥水をすすって生きていたが、ある日、路地裏で野良の魔獣に襲われた。
魔獣といっても、健康な大人が蹴り飛ばせば済むような、小型犬程度の脆弱な捨て魔獣である。ユリカは必死に周囲の大人たちに助けを求めた。しかし、通りがかった群衆は誰一人として手を貸そうとはしなかった。
彼らは笑いながら最新の携帯端末を取り出し、手足の動かない少女が生きたまま小さな魔獣に少しずつ肉を食いちぎられていく様を、まるで上質なエンターテインメントのように録画して楽しんだのだ。
そして、ユリカが完全に息絶え、動かなくなったのを確認した瞬間、群衆の一人が魔獣をあっさりと踏み殺し、動画のオチをつけた。
『ユリカの救出に間に合わなかった。これは、見て見ぬふりをした視聴者たちの罪である』
そのおぞましい死から数年。ユリカのすさまじい怨念は四足歩行の化け物と化し、新王都の路地裏に現れては、夜な夜な「罪もない人」を食い殺しているのだという。
さらに最近になって、売れっ子芸能人のユカリが、実はそのユリカの生まれ変わりであるとか、あるいは怨念の標的であるといった、根も葉もない噂が爆発的に拡散しているらしいのだ。
「名前が似ているだけで、生まれ変わりだの呪いだの、まったく……頭が痛くなる話だろう。だが、実際にここ数ヶ月、路地裏で身元不明の変死体がいくつも発見されているのは紛れもない事実なんだ。警察は狂信的なカルト集団の犯行だと睨んでいるが、万が一に備えて、ユカリの周辺を洗ってほしい」
ニーアは笑い涙を指で拭いながら、大きく息を吐いた。
「……わーったわよ。ビリーの顔に免じて、そのお姫様の警備ごっこに付き合ってあげる。ただし、特別料金を請求するからね。なにせ、妖怪退治は専門外だもの」
ニーアとビリーがあっけらかんと笑い合う中、カウンターのアスナだけは、一言も発することなく、マグカップの黒い水面をじっと見つめていた。
彼女の論理回路は、ビリーの語った怪談を「無知な大衆の妄想」として処理することを、拒絶していた。
なぜなら、アスナはその怪談が、少なくとも一つの側面においては「絶対的な真実」であることを知っていたからだ。
路地裏で四足歩行の何者かが徘徊しているという目撃情報。
それは、幻覚でも集団ヒステリーでもない。まだ誰にも報告していなかったが、アスナは昨日の夜、歯車通りでの情報収集からの帰り道で、その怪物を明確に視覚センサーで捉えていたのだ。
冷たい雨が降る、月明かりすら届かない深い路地裏。
そこに、それはいた。
黒い髪を血と泥で固め、ひしゃげた四肢で地面を這いずる、赤い目をした異形の存在。大きく裂けた赤い口の奥には、人間を容易に噛み砕くであろう鋭い牙が並んでいた。
しかし、アスナが暗がりの中で息を潜めて観察したその怪物は、人を襲ってはいなかった。
怪物は、雨の降る冷たい石畳の上で、丸くうずくまって朽ち果てようとしている一人の幼い少年の傍らにいたのだ。少年の体は極度の飢餓によって骨と皮だけになり、その胸の動きはすでに停止する寸前だった。
怪物は、裂けた赤い口から、人間のものとは違う異様な鳴き声を漏らしていた。
それは、威嚇でも捕食の合図でもなく、間違いなく……「慟哭」であった。
怪物は泣いていた。
血の涙を流し、ひしゃげた手で冷え切った少年の頬を不器用に撫でながら、どうすることもできない絶望に泣き叫んでいたのだ。
怪物は、その強靭な牙と爪で人を殺すことはできても、飢えた少年に与える温かい食事を作り出すことはできない。
凍える体を温めるための、安全な屋根を与えることもできない。
自らが異形であるがゆえに、世界から拒絶され、ただ目の前で消えゆく命を前にして、無力に泣き続けることしかできなかったのだ。
「アスナ、ねえ聞いてる?私たちはこれから、その大女優様のご尊顔を拝みに行ってくるわ。あんたはここで、警察のデータベースから噂の出所を洗っておいて」
ニーアの声に、アスナはゆっくりと顔を上げた。
「……了解した。私は情報空間から事象の解析を実行する。二人は物理的なアプローチを継続して」
アスナの平坦な声に不審を抱くことなく、ニーアとビリーは足早に事務所を出て行った。
一人残されたアスナは、事務所の照明をすべて落とし、壁一面に並べられた複数のモニターの電源を入れた。暗闇の中に、無機質な青白い光が浮かび上がる。彼女は冷めきったコーヒーを一気に飲み干すと、キーボードに指を走らせ、王都の地下深くを流れる地脈のデータと、警察機構の最深部に隠匿された過去の戸籍情報への不正アクセスを開始した。
モニターに無数の文字列と画像データが滝のように流れ落ちていく。アスナの目はそのすべてを瞬時に読み取り、脳内で巨大なパズルを組み立てていった。
一方、ニーアとビリーは、新王都の一等地にある超高級ホテルのスイートルームを訪れていた。そこは現在、女優ユカリの仮の滞在先兼オフィスとして使用されていた。
厳重なセキュリティを抜け、広大な部屋に案内された二人を待っていたのは、噂に違わぬ圧倒的な美貌を持つ女性だった。しかし、彼女が放つ空気は、傲慢なスターのそれとは全く異なっていた。
「初めまして、ヴェリタス探偵事務所のニーアさん、そしてビリー刑事。わざわざこんなおかしな噂のために足を運ばせてしまって、本当に申し訳ありません」
ユカリは立ち上がり、深く頭を下げた。その所作には、洗練された知性と、作り物ではない誠実さが宿っていた。
ニーアが拍子抜けした顔でソファに座ると、ユカリは自ら紅茶を淹れながら、軽やかなトーンで話し始めた。
「赤いお口のユリカちゃん、ですよね。私もマネージャーから聞いて、呆れて笑ってしまったんです。もし私がそのユリカちゃんの怨念の生まれ変わりだとしたら、こんなに毎日台詞の暗記で苦労していませんよ。怨念の力でもっと楽に王劇アカデミー賞を取らせてほしいくらいです」
ユカリの知的なユーモアに、ニーアも思わず吹き出した。
ビリーが咳払いをして、慎重に質問を投げかける。
「ユカリさん、失礼を承知で伺いますが、ご自身のご家族や生い立ちについて、何かこの怪談と結びつくような心当たりはありませんか。例えば、あなたの父上が……とか。誰かの恨みを買った可能性は……」
ユカリは紅茶のカップをテーブルに置き、真っ直ぐにビリーの目を見た。
「父がゼランディアからの特別永住者……つまり、戦後の『在王都』社会の人間であることは事実です。私はその事実を隠すつもりはありません。ですが、私が芸能界で今の位置を手に入れたのは、けして、父の力ではありません。血の滲むようなオーディションと、泥にまみれるような下積み時代を、自分の足で歩いてきたからです。私には私の誇りがあります。『在王都』の娘だからといって、誰かの命を踏み台にした覚えは一切ありません」
彼女の瞳に宿る強い意志の光を見て、ニーアは確信した。
この女は、間違いなく白だ。彼女の魂は健全で、力強く、そして美しい。怪談めいた呪いや、ドロドロとした怨恨の渦中にいるような人間ではない。彼女はただ、与えられた環境の中で最大限に努力し、才能を開花させただけの、真っ当な一人の人間なのだ。
「……了解。あんたの潔白はよくわかったわ。こんな馬鹿げた噂、私たちが吹き飛ばしてあげるから、あんたは安心して演技に集中しなさい」
ニーアは笑って立ち上がり、ビリーの背中を叩いた。二人はあっけらかんとした空気のまま、ホテルを後にした。ニーアはすぐに携帯端末を取り出し、事務所にいるアスナに「対象は完全にシロ。事件性なし」という簡潔なメッセージを送信した。
しかし。
同じ時刻。ヴェリタス探偵事務所の暗闇の中で、モニターの青白い光に照らされたアスナの顔には、一切の安堵の色はなかった。
アスナは、ユカリと、怪談のモデルとなった死んだ少女ユリカの、隠された繋がりを完全に解析し終えていた。
結論から言えば、二人は紛れもなく別人であった。生まれ変わりでも、呪いの連鎖でもない。
しかし、二人の生体データと魔導反応の波形は、奇妙なほどに酷似していた。
戸籍の奥底に埋もれていた一枚の古い記録。そこには、一人の名もなき女の壮絶な人生が記されていた。
ユリカには、父親がいない。
ユカリには、父親がいる。
しかし、母親は同じだったのだ。
二人は、数年の時を隔てて同じ母の胎内から生まれた、異父姉妹であった。
データが語る過去は、新王都の残酷なシステムをこれ以上ないほど冷徹に描き出していた。
戦前に孤児として生まれた姉のユリカは、今から十数年前、母親がスラム街の泥の中で出産した子供だった。極度の貧困と飢餓の中、母親は自らが生き延びるため、生後間もない、しかも手足に先天的な異常を抱えていたユリカを、スラムの劣悪な売春宿へとわずかな銀貨で売り飛ばしたのだ。
それは、母親の悪意だろうか。
否。
データは、当時の母親の栄養状態が餓死寸前であったことを示している。売らなければ、母子ともども数日以内に死んでいた。それは悪ではなく、極限状態における悲惨な生存本能の結果に過ぎない。
その後、母親は運命の気まぐれによってスラムを抜け出し、たまたま巨大マフィアのボスの家政婦として雇われた。そして、たまたまボスの目にとまり、後妻として迎えられ、たまたま裕福で安全な環境の中で、妹のユカリを出産したのだ。
妹のユカリは、愛と富に包まれて育ち、自らの努力で光り輝く舞台へと上り詰めた。
一方、暗黒の底に捨てられた姉のユリカは、這いつくばるようにして地獄を生き抜いた。彼女は決して、ただ怯えて死を待つだけの哀れな被害者ではなかった。アスナが掘り起こしたスラムの古い記録には、不自由な体を引きずりながらも、大人たちから暴力を受けるさらに幼い子供たちを庇い、血まみれになって牙を剥き出しにして戦うユリカの姿が何度も記録されていた。
彼女は、子供の未来を理不尽に踏みにじる世界に対する、気高きスラムの戦士だったのだ。彼女の心臓には、誰よりも熱い血が流れていた。
そんな彼女の命を奪ったのは、特別な悪党でも、巨大な陰謀でもなかった。
偶然通りかかった、飢えた野良の魔獣……。
この怪談の背景に、純粋で絶対的な「悪」と断言できる存在は、どこにもいなかった。母親も、ユカリも、新王都という巨大で狂ったシステムの歯車として、それぞれの環境でただ生きようとした、矮小な人間たちに過ぎない。
アスナの青い瞳から、一筋の透明な液体が流れ落ち、冷たい頬を伝った。
それは、合理性を重んじる竜人の機能としては完全に不要なはずの、涙であった。
理不尽な世界の中で、それでも他者を愛し、戦い、そして誰にも救われることなく泥の中で消費されていったユリカという魂の気高さと悲惨さに、アスナの奥底にある何かが激しく共鳴していた。
そして、アスナの論理回路は、最も重要な、そして最も恐ろしい最終的な結論へと到達しようとしていた。
生前のユリカの魂がそれほどまでに高潔であったのなら、「赤いお口のユリカちゃん」と化した怪物が、噂にあるように「罪もない人」を無差別に襲うなどということがあり得るだろうか。
否、あり得ない。
アスナは、地脈のデータから抽出した、怪物がこれまでに殺害したとされる被害者たちのリストを再検証した。
確かに彼らの多くは、警察の記録上では「逮捕歴のない善良な市民」であった。
しかし、彼らの裏の顔、消された通信記録、隠蔽された口座の金の流れを徹底的に洗い出すと、恐るべき共通点が浮かび上がってきた。
一人目は、孤児院の隣に有害な魔導廃棄物を不法投棄し続けていた工場経営者。
二人目は、スラムの子供たちの人身売買ルートを知りながら、賄賂を受け取って捜査を握り潰していた警察官。
三人目は、小児病棟の建設資金を横領していた政治家。
怪物は、無差別に人を食っているのではない。
ユリカの怨念は、彼女が生前にそうであったように、今もなお「子供の未来を踏みにじる大人」を標的として、狩りを続けているのだ。
そして、リストの最後には、もう一つの、より広範な共通条件が隠されていた。
被害者の中には、直接悪事に手を染めていなくても、子供たちの悲鳴を聞きながら、自らの保身のために「見て見ぬふりをした大人」が多数含まれていたのだ。
生前、自分が生きたまま食い殺されるのを、笑って見て見ぬふりをしたあの群衆と同じように。
「見て見ぬふりをした、大人……」
アスナの乾いた唇から、無意識のうちにその言葉が漏れ出た。
その瞬間、アスナの背筋を、絶対零度の氷塊を直接叩き込まれたような、すさまじい悪寒が駆け抜けた。全身の毛穴が開き、微かな冷や汗が額に滲む。
彼女の完璧な記憶データベースが、昨日の夜、歯車通りでの光景を鮮明にリプレイし始めた。
冷たい雨。
暗い路地裏。
飢餓で死にかけていた幼い少年。
そして、その少年の傍らで、何もできずに血の涙を流して慟哭していた、赤い口の怪物。
あの時、アスナは、どう行動したか。
彼女は、怪物が自分を攻撃する意思がないと判断し、少年の命を救うことは自分の現在のミッションには含まれていないという極めて合理的な計算に基づき、静かに踵を返し、その場を立ち去った。
怪物が泣きながら見守っていた、死にゆく子供の命を。
アスナは、極めて論理的に、そして冷酷に、「見て見ぬふり」をしたのだ。
室内の空気が、急激に重く、そして氷のように冷たくなった。
モニターの青白い光が、ジジ、ジジジ……と不規則なノイズを立てて瞬き始める。
アスナは椅子に座ったまま、動くことができなかった。彼女の卓越した戦闘能力も、魔法の知識も、今のこの状況下では一切の無力であることを、彼女自身のシステムが警告していた。
モニターの電源が、一つ、また一つと、まるで誰かが息を吹きかけてロウソクの火を消すように、ゆっくりと、静かに落ちていく。
完全な暗闇が、事務所を支配した。
雨音だけが響く空間。
そして、その雨音に混じって。
天井の隅から、四つの不自由な肢体が、濡れた壁を這いずるような、悍ましい音が聞こえた。
暗闇の頭上から、血の匂いと、生臭い泥の匂いが降り注いでくる。
かすれた、しかし、耳の奥底を直接掻きむしるような少女の怨嗟の声が、アスナの頭上のすぐ数センチの距離で囁いた。
「……見……タ……ノニ…………」




