君と手を繋ぐ夢を見た
ガタガタと、馬車が悪路に揺れた。
婚約者アデラインとの『涙の再会』から、数日。
ルトヴィアスとアデラインを乗せた馬車は、王都への道程をひたすら走っていた。
窓辺の僅かな窪みに頬杖をつき、外を眺めていたルトヴィアスは、向かい合って座るアデラインにちらりと視線を向ける。
アデラインは太腿の上で重ねた自らの両手を睨むように見つめたまま、青ざめた顔を上げようとしない。
その様子に、ルトヴィアスは苛立った。
彼女が顔を上げればいい。そしてルトヴィアスを見ればいい。
そうすれば、多分この苛立ちも少しはおさまる気がするのに……。
けれど、アデラインは顔を上げない。ルトヴィアスを見ない。
(だから嫌なんだ)
ルトヴィアスは舌打ちしたい気分だった。
もしも本当に舌打ちすれば、アデラインはビクビクしながらルトヴィアスを窺い、身を縮ませるだろう。
いつもそうだ。オドオドして、まともにルトヴィアスと目を合わせやしない。
(何で俺はこんなにイライラしてるんだ?)
アデラインと目が合わないことで、何故それほど苛立つのだ。自分で自分が分からない。だから、更に苛立つ。
(……それにしても)
ルトヴィアスは足を組みなおすと、アデラインが俯いているのをいいことに、彼女の頭の上から足の先までを、改めてじっくりと眺めた。
薄い鼠色のドレスと花帽。頭の後ろで一つにまとめ、きっちりと三つ編みにされた長い髪。装飾品の類いは何一つ身に付けていない。
十才で婚約して以来、一度も会わなかった婚約者。
(……宰相令嬢というから、もっとゴテゴテと飾り立てているものかと……)
そうであろうと、ルトヴィアスは覚悟していたのに、はっきり言って拍子抜けだ。
だが、落胆したわけではない。むしろ安堵した。
白粉の、あの無駄に甘ったるい香り。ルトヴィアスはあの匂いが苦手だった。皇国の夜会で、ルトヴィアスにしつこくまとわりついてきた女達を思い出すのだ。狭い馬車の中であの匂いを嗅げば、間違いなく酔っていたことだろう。
だが、幸運にもアデラインからは、あの香りがしない。
馬車の中には彼女のものと思われる仄かな甘い香りが微かに漂ってはいるが、ルトヴィアスは不思議とそれを不快とは思わなかった。
(……化粧、してないのか?)
だから、ルトヴィアスが苦手なあの匂いがしないのだろうか。
ルトヴィアスは彼女の顔をじっと見つめた。
薄くではあるが、化粧はしているようだ。けれど、きめ細かな頬は白粉など必要ないように見えた。
薄紅梅色の紅をはいた唇に、ルトヴィアスは見いる。
「…………」
柔らかそうだな、と思ったところに馬車が大きく跳ねて、ルトヴィアスは我に返る。
(……何考えてた?俺)
額に、手をあてて俯いた。
(頼むから……)
今は誰も顔を見てくれるな。間違いなく、情けない顔をしている。
ガタン、とまた馬車が揺れた。先程から、随分と揺れる。
戦後の復興は、まだ街道の舗装まで行き届いていないのだろう。
額から手を下ろしたルトヴィアスは、その異変にすぐ気が付いた。
「……おい?」
アデラインが、ぐったりと自らの膝に崩れかかっている。
「おい、どうした?」
「…………」
ルトヴィアスは膝に伏すアデラインの顔を覗きこむ。
(……顔色が……)
悪いような気はしていたが、どうやらそれは気のせいではなかったらしい。アデラインは馬車の揺れに、完全に酔ってしまったようだ。額に脂汗が滲んでいる。
「どうして言わない!?」
気分が悪いなら悪いと、何故申告しないのだ。言い出せないほどにルトヴィアスと会話するのが嫌なのだろうか。
「アデライン!」
「…………」
つい責める口調になってしまったルトヴィアスだが、アデラインは返事をする余裕もないようだ。
(……違う)
責めたいわけではないのに。
ルトヴィアスは舌打ちすると、腕を伸ばして天井を叩いた。そうしなければ、車輪の騒音で御者に声が届かないのだ。
「止めてください!すぐに!!」
馬が嘶き、馬車がゆっくりと減速する。
馬車が止まって扉が開くまで、ルトヴィアスはアデラインの小さな体を支え続けた。
***
婚約者であるルトヴィアス王子との『涙の再会』の後、彼がそれはそれは立派な猫をかぶっていると知ったアデラインは、夜はよく眠れないし、凶悪な本性剥きだしのルトヴィアスと食べる食事は緊張して喉を通らない。とにかくルトヴィアスが怖くて仕方なくて、同じ馬車に乗っていても彼と目が合わないように、ずっと俯いて過ごしていた。
その結果、まんまと馬車に酔った。
「止めてください!すぐに!!」
ルトヴィアスが腕を伸ばして馬車の天井を叩くと、馬車は減速し、程なくして止まった。
「降りるぞ」
「は、い……」
ルトヴィアスに支えられ、アデラインは馬車から降りる。
そこは川辺で、風が涼しく、水が流れる音がした。
丁度椅子代わりになりそうな大きな石があって、ルトヴィアスは自分の外套を肩からはずすと、その石にかぶせてくれた。
「座ってください。アデライン」
ルトヴィアスが優しく微笑む。
その頭上にはすこぶる毛並みが良い猫が鎮座していて、猫は『にゃあ』と一鳴きすると、ふさふさした尻尾をハタリと上下させた。
酔っているせいか、幻覚がいつもより鮮明だ。
「……あ、ありがとう、ごさい……ます」
アデラインはよろめいた。
ただでさえ気分が悪いのに、二重人格と言っても過言ではないルトヴィアスの猫の着脱に、体から力が抜ける。
「お嬢様!」
アデラインが乗っていた馬車に後続して走っていた馬車が止まり、中からミレーが降りてきた。
「ミレー……」
「大丈夫ですか?酔われたのですか?」
「そうなの……」
アデラインとミレーのやりとりを見ていたルトヴィアスが、黙って立ち去った。ミレーがいるなら、もう自分が傍にいる必要はないと思ったのだろう。
薄情だとは、アデラインは思わなかった。彼はアデラインのために馬車を止めてくれた。それで十分だ。
(……それに……)
馬車が止まるまで、彼はずっとアデラインを支えてくれた。
(意外だわ……)
ルトヴィアスに馬車に酔ったなんて言えば、自己管理がなっていないと叱られるような気がしたのに。
予想通り、彼は『どうして言わない!』とアデラインを責めて舌打ちしたが、けれどアデラインの背をさする手は優しかった。
「何かお飲み物でもお持ちしましょうか?」
心配そうに尋ねてくるミレーに、アデラインはぼんやり微笑み首を振る。
「いいわ。あなたが持たせてくれた薄荷飴があるから」
「では、手巾を冷たい水で濡らしてまいります。ここでお待ち下さいね」
ミレーはそう言うと、いそいそと行ってしまった。
手持ちの小袋から、アデラインは数日前にミレーが渡してくれた薄荷飴を取り出した。
油紙をとり、舌の上に転がす。
すると、爽やかな風味が咥内に広がり、胸のムカつきがましになった気がした。
キラキラと煌めく川面を眺めながら、アデラインはようやく一息つく。
もともと、馬車に酔いやすい方だ。睡眠不足であったり空腹であると酔いやすいと知ってからは、それらに注意して、馬車の中でも景色を眺めるようにしていたのだが、今日はどれも出来ていなかった。
酔って当然だ。自業自得である。
(……殿下に謝らなきゃ……)
アデラインは、振り向いた。
少し離れた場所では、騎士や馬丁達が馬に水を与えたり装具を点検したり、予定外の休憩に慌てて対応している。
皆にも迷惑をかけてしまったと、アデラインは落ち込み、ため息をついた。
何とはなしに眺めていた地面が陰り、アデラインは顔を上げる。
そこには、いつの間にかルトヴィアスが立っていた。
「殿下……っあの、ご迷惑をおかけして……」
申し訳ありませんでした、とは最後まで言えなかった。
アデラインの鼻の先に、ルトヴィアスが緑色の瓶を差し出したのだ。
「ん」
周囲に誰もいないため、ルトヴィアスは猫を脱いでいた。
「え……」
「水だ。飲め」
促され、アデラインは瓶を手にとる。
「……わざわざ、取ってきてくださったんですか?」
アデラインが恐る恐る尋ねると、ルトヴィアスは眉間に皺を寄せた。
「だったらどうした?」
「い、いえ!」
怖い。とにかく怖い。
慌ててアデラインはルトヴィアスから目を逸らし水を飲もうとした。だが……。
「……あの、殿下」
「あ?」
ルトヴィアスは睨んでくる。
(怖い!)
だが、瓶のコルクが開かないのだ。
「あ、開かなくて……」
「……」
ルトヴィアスは凶悪な顔を更に歪めたが、黙ってアデラインの手から瓶を取り上げた。彼が少し手首を捻ると、ポン、とものの見事にコルクは抜ける。そして、ルトヴィアスはやはり黙ったままアデラインの手に瓶を戻した。
「あ、ありがとうございま……す」
アデラインは尻すぼみに謝ったが、ルトヴィアスは何も言わない。
腕を組んで、川の方を眺めている。
「……」
アデラインは瓶を見た。
(このままで飲めるものなの?)
庭師が瓶に口をつけているのを見たことはあるが、アデライン自身は瓶から直接飲み物を飲んだことがない。
だが、まさか王子相手に『杯を用意してください』なんて言えるわけがないし、何より折角のルトヴィアスの心遣いだ。
口の中で小さくなった薄荷飴を噛み砕くと、 アデラインは意を決して瓶に口をつけた。
少しではあるが何とか飲むことが出来て、水の冷たさが気持ち良かった。
「……名前は?」
「え?」
アデラインはルトヴィアスの横顔を仰いだ。だが、ルトヴィアスは川から目を離さない。
「川の名前」
彼の翡翠色の瞳が、川面の光の反射のためかキラキラと輝いて見える。
アデラインも、ルトヴィアスの視線を追いかけて湖を見た。
「……えっと、ミノルルヴィ川……です」
「……小さなルヴィ?」
ルトヴィアスが、また顔をしかめた。
「こんなちっぽけな川。どこがルヴィ河だ」
“ルヴィ河”とは、大陸有数の大河のことだ。聖ティランアジール皇国の文化と経済の発展の源と言われていて、神話ではそこで女神が沐浴をしたのだという。
アデラインは首を竦めた。
「で、ですから小さな、と……」
アデラインが名付けたわけではない。文句を言われても困る。
「それに、ここより大きな河はルードサクシードには……」
「ルヴィ河はこんなものじゃない」
ルトヴィアスが呟く。
「本当に、驚くほど大きい。それに、海も――」
「海を見たことがあるんですか?」
アデラインは立ち上がった。
ルードサクシードに海はない。生まれてこの方、国から出たことがないアデラインは、勿論海を見たことがなかった。
ルトヴィアスは、顰めっ面のまま小さく頷く。
「一度な。狸の地方視察に引っ張られて行ったことがある」
「…………狸……」
それは、もしや皇国の皇帝のことだろうか。皇帝を狸呼ばわりとは、さすがと言うべきか、怖いもの知らずと言うべきか……。
「でかいぞ。湖を十倍しても及ばないな」
「そんなに!?」
「あと、水が塩味」
「まあ!」
アデラインは目を輝かせる。
異国や見たことがない物事についての話が、アデラインは好きだった。
王太子妃に、そして王妃になるアデラインは、きっとこの国から一歩も出ることなく生涯を終える。それが嫌なわけではないが、けれど外の世界への好奇心は押さえられない。
風が吹き、ルトヴィアスの金髪がなびく。
「……いつか」
彼が、一人言のように呟いたその時。
「殿下!」
侍官が一人近づいてきて、頭を下げた。
「申し訳ございませんが、お嬢様の体調が整い次第出発しませんと予定が……」
今夜宿泊する予定の屋敷まで、まだ距離がある。
「わ、私なら大丈夫です!」
アデラインが慌てて言うと、ルトヴィアスは困ったように表情を揺らした。
「……ですが、まだ顔色が」
ルトヴィアスの飼い猫は本当に優秀だ。何だか、本当に心配されている気分になって、アデラインは少しばかりくすぐったくなった。
「随分良くなりました。もう大丈夫です」
「…………」
納得しかねるようなルトヴィアスに、アデラインは大丈夫だと言い張って、結局そのまま馬車に乗り込んだ。
狭い車内で、アデラインは進行方向に背を向けた席に腰を下ろす。
そこがアデラインの定位置なのだ。そしてルトヴィアスはその向かいに座った。これも定位置だ。
「……おい」
ルトヴィアスに呼ばれ、アデラインはビクリと身を竦ませた。
「は、はい? 」
「座れ」
トントン、とルトヴィアスは自らの横の席を指で叩く。
「……え」
そこは上座だ。婚約者とはいえ未だ宰相令嬢に過ぎないアデラインが座るには、相応しくない。
戸惑うアデラインを、ルトヴィアスが睨む。
「座れ」
「で、でも」
「そっちに座るとまた酔うぞ」
確かに、進行方向に向かって座った方が酔いにくいと聞く。
それでもアデラインが迷っていると、ルトヴィアスはそっぽを向いてしまった。
「吐かれると困る!」
ぶっきらぼうに言い捨て、彼は黙り込む。
「……あの、では失礼して……」
迷った末に、アデラインはルトヴィアスの隣に腰を下ろした。ルトヴィアスの言うように吐きでもしたら、更に彼に迷惑をかけてしまうと考えたのだ。
四人乗りの馬車は、王族専用とあってやはり通常よりは大きく座席も広かったが、隣り合って座るとさすがに互いの腕同士が僅かに触れ合った。
「…………」
「…………」
いつもの重い沈黙と、少し様子が違った。
急にアデラインの心臓が派手に高鳴り始め、ややあって動き始めた馬車の音と妙な合奏になってアデラインの鼓膜を震わせる。
アデラインは、横目で外を眺めるルトヴィアスを盗み見た。
(……心配してくれたのかしら? )
だから、隣に座らせてくれたのだろうか。
まさか、と思った。彼がアデラインに『虫唾が走る』と言ったのは、つい先日だ。なのに、アデラインの体調を気遣ってくれるとは思えない。
(でも……)
気分が悪いアデラインをルトヴィアスはずっと支えてくれた。正直言って意外だったが、でも彼の手は温かかった。
十年前、婚約式でアデラインを導いてくれた手を思い出す。
あの手も、確か温かかったような気がする。
やがて、アデラインの意識がふわりと揺れた。睡眠不足がここにきて限界に達したようだ。
(……眠い……)
腕にルトヴィアスの温もりを感じる。
何だか心地よくて、アデラインは目を閉じた。
***
馬車の窓から、ルトヴィアスはその川を眺めた。
“小さなルヴィ”河。
本物のルヴィ河と比べるべくもない、本当に小さな川だ。
死んだ祖父は、この川が小さいということを知っていたのだろうか。
海が、ルードサクシードにあるどの湖よりも遥かに広いものだと知っていただろうか。
(……知らなかっただろうな)
知っていたら、皇国と戦争をしようなどとは思わなかっただろう。
師子王と呼ばれたあの人も、結局は自国の地しか知らない井の中の蛙に過ぎなかったのだ。
ぽとりと、馬車の床に花帽が落ちた。
「……? 」
外に向けていた目を車内に戻したルトヴィアスの左肩に、とん、と重みがかかる。
「……アデライン? 」
ルトヴィアスの左肩に寄りかかって、アデラインが静かな寝息をたてていた。
妙に気分がそわそわしたルトヴィアスは、座席に座り直そうと腰を上げかける。
(……いや、ダメだ)
今動いては、アデラインが起きてしまう。
左肩にアデラインを寄りかからせたまま、ルトヴィアスは外へと視線を戻した。
アデラインの重みに、温もりに、祖父の記憶でささくれ立った心が僅かに凪いだ。
「…………悪かった」
アデラインを起こさないように、ルトヴィアスは小声で謝った。
寝ている相手に謝ってどうするのだと自分でも情けないが、アデラインが目を覚ましたら、そしてまたルトヴィアスから目をそらして俯いたらと思うと、苛立って謝れる気がしなかった。
(もっと早く……)
気分が悪いことに、もっと早く気付いてやればよかった。気付いてやれるのは、同じ馬車に乗るルトヴィアスだけだったのに。
それに座席のことも、もっと配慮してやれたはずだ。アデラインが固辞したとしても強引に進行方向に向けて座らせていれば、アデラインは酔わずにすんだかもしれないのに。
ルトヴィアスはアデラインの髪に僅かに頬をすり寄せる。
それは猫が飼い主を心配する仕草のようでもあり、独占欲を示す仕草のようでもあった。
太腿の上で行儀良く揃っていたアデラインの手が、馬車の振動で座席の上に滑り落ちる。すると、アデラインの手の甲とルトヴィアスの左手の甲が微かに触れ合った。
痺れるような温もりを、握りしめる勇気はルトヴィアスにはない。
やがて、アデラインの寝息につられるように、ルトヴィアスの意識も揺らぎ始めた。
(……ねむ……)
アデラインの温もりを感じる。
ルトヴィアスは、心地よさに意識を手放した。
***
その日の夕刻。
アデラインの父である宰相ファニアス・マルセリオは、王族専用の豪華な馬車の前で困り果てている御者に声をかけた。馬車は既に宿泊予定の屋敷の庭に止まっている。
「どうしたのだ? 殿下はどこにいらせられる? 」
「ああ、宰相閣下! 」
御者は天の助けとばかりに、ファニアスを振り向いた。
「実は……」
御者が遠慮がちに覗いた馬車の中を、ファニアスも続いて覗き込む。
「…………」
馬車の座席では、ルトヴィアスとアデラインが、互いに寄りかかって眠りこんでいた。
その微笑ましい様子に、ファニアスは口元を緩める。
「……如何いたしましょう? 」
「静かに」
御者に向けて、ファニアスは人差し指を口にあてる。
「……もうしばらく、このままで」
赤い夕陽に照らされた馬車の中で、相手の温もりだけを頼りに寄り添う若い二人の手は、しっかり、重なっていた。
それは、ルトヴィアスとアデラインが夜のピクニックをする前日のこと。




